第36話 黙ってる
候補の館の部屋に戻ってから、二人とも一言も口をきかなかった。
透は窓辺の椅子に座って、卓の上のランタンを見ていた。伊吹は寝台の端に腰かけて、手首の水色の紐をいじっていた。三日間の山道で少しほつれた編み目を、指先で一つずつ押さえていく。そうしていないと、何かを口に出してしまいそうだった。
ランタンの火は一つ、静かに揺れていた。硝子の底の目盛りの線は四本になっていた。告解の間で一本。慈悲の審判で二本。今日、神託札で一本。伊吹はそれを数えて、それから目を逸らした。今日の一本がどうやって手に入ったのか、思い出したくなかった。
扉が控えめに叩かれたのは日が沈みかけたころだった。
「あの、シルヴィです。少しだけ、いいですか」
透が立ち上がって扉を開けた。シルヴィが小さな荷物を抱えて立っていた。肩の上で、ミルがふわふわと揺れている。見届け人の部屋に移るのだと、シルヴィは言った。候補の館は候補とお供しか使えない決まりなのだという。
「お別れを言いに来たの。それと、伝えたいことがあって」
シルヴィは部屋に入ると、伊吹と透を順番に見た。ミルがシルヴィの肩を離れて、伊吹の肩にふわりと止まった。今日の昼と同じ、陽だまりのような温かさだった。伊吹は少しだけ肩の力を抜いた。
「ミルがね、聞いてきたの。わたしが頼んだんじゃないのよ。この子が自分で、灯守の人たちの部屋の前を通ったときに」
「灯守?」
「大聖堂の灯の番をしてる神官さんたち。文書庫で、何かの書きつけを用意してたんだって。何人もで、夜遅くまで。ミルには字は分からないけど、声は聞こえたの。ルーヴェ、っていう名前が、何度も出てたって」
伊吹は息を止めた。
透の顔は動かなかった。けれどシルヴィに聞き返すまでに、ほんの少しだけ間があった。その間に、伊吹の胸がざわついた。透は何か知っている。
「何の書きつけか、分かる?」
透が穏やかに聞いた。シルヴィは首を横に振った。
「ごめんなさい。それ以上は。でも、なんだか嫌な感じがしたの。ミルが、怖がってたから」
ミルが伊吹の肩の上で、小さく明滅した。
「教えてくれて、ありがとう」
伊吹が言うと、シルヴィは少しだけ照れたように笑った。
「借りを返しただけ。リコリスさんが、借りは返せって、いつも言ってたから」
シルヴィは伊吹の肩に手を伸ばした。ミルがその指先に乗り移る。シルヴィはミルを肩に戻して、ぺこりと頭を下げた。
「閉幕まで、見届け人の席で応援してるね。わたし、伊吹さんに勝ってほしい」
扉が閉まった。廊下を遠ざかっていく軽い足音がやがて聞こえなくなった。
部屋がまた静かになった。
透は扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。伊吹は寝台の端に座ったまま、透の背中を見ていた。
「ルーヴェの書きつけ、だって」
伊吹は言った。
「何か、心当たりあるんでしょ」
「……まだ、分からない」
瞬きは止まらなかった。本当に分からないのだ。それは分かった。分かったうえで、伊吹は聞いた。
「じゃあ、分かってることを聞くね」
透がゆっくりと振り返った。
「リコリスさんが回廊で話したこと。私の生まれた記録が、大陸のどこにもないって。それ、あの人に言われる前から知ってたんでしょ」
「うん」
透は否定しなかった。
「いつから」
「施療院の門の前で。朔くんから聞いた。メルクール商会の人たちが、ルーヴェの町の出生の帳面を調べて回ってるって」
施療院の門。三日前の夜だった。白蓮と話したあと、それだけだよ、と透が言ったあの夜だ。
「三日も前じゃない」
「うん」
「三日も、黙ってたんだ」
透は少しだけ黙った。それからまっすぐに伊吹を見た。
「言えば、伊吹はリコリスさんの前で顔に出る。リコリスさんは、商会の帳面より人の顔を読む人だから。伊吹が知ってるって分かったら、あの人はもっと高く値をつけた。だから」
「試練のことなら、もういいよ。あんたが黙るのは勝つためだって、もう分かったから。……でも、これは私のことでしょ」
声は思っていたより静かに出た。
透は一瞬だけ言葉に詰まった。それからいつもより少しだけ低い声で言った。
「伊吹は嘘をつかない。だから、知らないほうが――」
「それ、決めるのあんたじゃないでしょ」
伊吹は立ち上がった。
怒鳴りはしなかった。怒鳴るつもりもなかった。ただずっと胸の奥に押し込めていたものが、ゆっくりと形になって、喉のところまでせり上がってきていた。
「私の生まれのことでしょ。私の名前が、どこの帳面にもないって話でしょ。私のことなのに、私が一番最後に知った。リコリスさんの口から。回廊で、あの人に耳打ちされて。あんたじゃなくて」
透は何も言わなかった。
「それにね」
伊吹は透の前まで歩いていった。手を伸ばせば届く距離で、足を止めた。
「あんた、神前で嘘ついたよね。リコリスさんの目を見て。第一巡の月の五が、神意の札だったって」
透がほんのわずかに目を見開いた。
「責めてるんじゃないよ。あれがなかったら勝てなかったのも分かってる。私、横で見てた。瞬きが止まるの、見てた。あれが嘘だって、あの部屋で私だけが知ってた。それでも違うって言わなかった。言ったら、あんたの嘘も、私たちが何者なのかも、全部ばれるから」
声が震えた。伊吹は拳を握って、それを押さえた。
「透。私ね、嘘をつかないって決めてここまで来たの。父さんみたいにはならないって。そんな私が、今日はあんたの嘘の横で、口を閉じて座ってた。リコリスさんが外すのを、じっと見てた。……それ、あんたに言われたからじゃないよ。私が自分で決めたの。あんたの嘘を、最後まで一緒に守るって」
伊吹は透の顔を見上げた。
「私、そこまで一緒にやってるんだよ。なのに、私のことだけは、私に選ばせてくれないの?」
透はもう、穏やかな顔をしていなかった。
伊吹はそれを、初めて見た気がした。いつも笑っているか、困ったように笑っているか、そのどちらかだった透が、今は何も浮かべていなかった。唇を引き結んで、まっすぐに伊吹を見下ろしていた。
「……ごめん」
透が言った。
「伊吹にそこまでさせてるのは、俺だ。分かってる。……分かってて、伊吹の分まで決めてた」
「分かってて」
「うん」
透は目を逸らさなかった。
「試練の嘘なら、いくらでも俺が引き受ける。伊吹が一緒に守ってくれるなら、なおさら。……でも、生まれのことは違った。あれは試練の話じゃない。伊吹の生まれた記録がどこにもないって、商会の人たちが調べて回ってる。それが神殿に知れたら、伊吹がどうなるのか、俺にもまだ分からない。分からないことを話したら、伊吹を怖がらせるだけだと思った」
「怖がるかどうかも、私が決める」
伊吹は言った。今度は声が震えなかった。
「怖がらせたくないって、それ、守ってるつもりなんでしょ。でも私は、知らないまま怖いほうが、ずっと嫌」
透は何も言わなかった。拳を握りしめて、一度だけ深く息を吸った。伊吹は透の拳が白くなっているのを見た。
胸の奥が痛かった。種火の痛みではなかった。
透は本気なのだ。本気で、伊吹を守ろうとしている。それが分かるから、余計に苦しかった。透がただの臆病者なら、怒ればいい。でも透は、伊吹を守るためなら伊吹にさえ黙っていられる人なのだ。
それに。
「じゃあ、一つだけ聞かせて」
伊吹は声を落とした。
「施療院の門の前で。白蓮さんの国の昔話だって、言ったよね。それだけだよって。あのときも、瞬き止まってた」
透は答えなかった。
「あれは、何を黙ってたの」
長い沈黙だった。窓の外で、大聖堂の鐘が一つだけ鳴った。
「……それは、まだ言えない」
透は低い声で言った。
「言えない理由が、ちゃんとある。いつか、必ず話す。でも今は」
瞬きは止まらなかった。
嘘ではない。いつか必ず話すつもりでいる。それは本当なのだ。そして今は話せない何かを、透はまだ抱えている。リコリスのことを三日黙っていたように。きっと、それより重い何かを。
伊吹は透から一歩下がった。
「分かった」
「伊吹」
「もう聞かない」
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
巡礼の祠では、今回は聞かないと言った。知らないまま門に立つ、その代わり勝って、と。あのときは透を信じていたから言えた。今は違った。聞いても、答えてもらえないと分かったから、もう聞かないのだ。
透はそれを分かったのだと思う。透は何か言いかけて、口を開いて、それから閉じた。
伊吹は寝台に戻って、透に背中を向けて横になった。毛布を肩まで引き上げる。手首の水色の紐が頬に触れた。
同じ部屋の中だった。ランタンの火は少しも揺れていなかった。手を伸ばせば届くところに、透はいる。それなのに今夜ほど透を遠いと思ったことはなかった。
扉が叩かれたのはそれからしばらくしてからだった。
さっきのシルヴィの叩き方とは違った。固く、規則正しく、三度。透が扉を開けると、白い法衣の若い神官が立っていた。神官は部屋の中をちらりと見て、伊吹が寝台に横になっているのを確かめてから、透に向き直った。
「ルーヴェのお供、トオル殿に申し上げます」
儀礼どおりの、抑揚のない声だった。
「大神官様が、お呼びでございます」
伊吹は毛布の中で、目を開けた。透が何か答える前に、神官は一言だけ付け加えた。
「お一人で、とのことです」




