第35話 最後の太陽
五と書き終えたとき、ペンの先が紙に小さな染みを作った。
伊吹はそれを見下ろしたまま、しばらく手を離せなかった。神意の札に、太陽の紋と五。神託紙にも、同じ太陽の五。どちらも本当のことだった。この札は今、本物の太陽の五になった。嘘は一つもない。
それでもペンを置いた指はまだ冷たかった。
向かいで、リコリスが神託紙を伏せた。扇を卓の脇に置いて、両手を膝の上で組んでいる。さっきまでの甘い笑みは消えていた。真剣だった。商いの帳面を前にしたときも、きっといつもこうなのだろうと伊吹は思った。
シルヴィは肩の上のミルを片手で包むようにして、静かに座っていた。もう誰の手札も覗かせていない。シルヴィの点は四。どう転んでも、下の二人から抜け出せないことは、本人が一番よく分かっているはずだった。それなのにシルヴィの背中はまっすぐに伸びていた。
「宣言を、お開きくださいませ」
三枚の神託紙が開かれた。
伊吹は太陽の五。リコリスも太陽の五。シルヴィは太陽の三。
二の卓を終えた候補たちがわずかに身じろぎした。候補たちは壁際から一の卓を見つめていた。イングリットが小さく眉を寄せた。ノラは銅貨を握ったまま、指を止めていた。
太陽の五が二つ。並べば勝者はなし。伊吹とリコリスは十点で並んだまま、二人そろって終わる。
だから誰かが動くしかなかった。
「疑いの順は、リコリス殿より」
神官の声に、リコリスがゆっくりと顔を上げた。
リコリスは伊吹を見た。それから伊吹の背後に立つ透を見た。最後にもう一度、伊吹の神託紙に目を落とした。太陽の五。リコリスの唇がかすかに動いた。何かを数えているのだと、伊吹には分かった。
表に出た太陽の五が一枚。自分の手にもう一枚。イブキの神意の札は第一巡で使われた。だったら、この太陽の五は嘘しかありえない。
リコリスの頭の中で、その計算が最後まで終わったのが、伊吹にも見えた気がした。
「ナルミイブキに、お聞きするわ」
リコリスの声は落ち着いていた。
「あなたの宣言は、真実ですか」
伊吹は顔を上げた。
リコリスの目を見た。リコリスはまっすぐに、こちらを見ていた。勝ちを確信しているのではなかった。賭けに出るつもりなのだ。巡礼の三の関所で伊吹の箱を検めると言ったときも、リコリスはこんなふうに伊吹を見ていた。
ごめん、と言いたかった。言えなかった。神前で、この場で、そんなことを口にする理由は一つもなかった。
「はい」
伊吹の声は一音も途切れずに礼拝堂に響いた。リコリスの顔から、すっと色が引いた。
「宣言は真実にございます。リコリス殿からナルミイブキ殿へ、二点が移ります」
神官が伊吹の札を表に返した。
白い札だった。何も描かれていない白い札の真ん中に、伊吹の書いた太陽の紋と、震えた字の五が並んでいた。神意の札だった。
礼拝堂がどよめいた。
リコリスは表に返された札を見つめたまま、動かなかった。扇を取ろうとした手が卓の上で止まっていた。
疑いの順はシルヴィに回った。シルヴィは小さく首を横に振った。伊吹の番が来た。伊吹は誰も疑わなかった。
「太陽の五が二つ並びましたゆえ、この巡の勝者はなしといたします」
神官が板に、最後の点を書きつけた。
ナルミイブキ、十二。リコリス、八。シルヴィ、四。
イングリット、十五。セレスティア、十三。ノラ、十一。
「第四の試練、神託札。順位を申し上げます」
神官の声が静まり返った礼拝堂に響いた。
「一位、ヴァルディアのイングリット殿。灯油を三目盛り。二位、大聖堂のセレスティア殿。灯油を二目盛り。三位、ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿。灯油を一目盛り。四位、王都のノラ殿」
神官は帳面に目を落とした。
「五位、メルクールのリコリス殿。六位、森の国のシルヴィ殿。下位のお二方は、聖灯を一つ失うものといたします」
リコリスとシルヴィのランタンの火が、ふっと消えた。二人とも、それが最後の一つだった。
シルヴィは消えた火を見下ろして、それから肩の上のミルを両手で包んだ。泣いてはいなかった。ミルがシルヴィの指のあいだで、穏やかに光っていた。
「脱落されたお二方は、選定の終わりまで見届け人として大聖堂に留まられ、閉幕の儀ののち、故郷へとお還りになりましょう」
神官が帳面を閉じた。
伊吹は自分のランタンを見下ろした。小さな火が一つ、まだ揺れていた。硝子の底の目盛りの線が一本増えていた。生き残ったのだ。三位で。それなのに喜ぶ気持ちはどこにも見つからなかった。
「……どうして」
卓の向こうで、リコリスが呟いた。
伊吹にではなかった。透に向けた声だった。リコリスは表に返された白い札から目を離さないまま、もう一度言った。
「どうしてよ。最初から、どこまで読んでたの」
透は伊吹の背後から一歩前に出た。決着がついた今なら、お供が声に出して話しても咎められない。透はリコリスに向かって、静かに口を開いた。
「最初からです。リコリスさんが一の卓に来ることも」
リコリスが顔を上げた。
「リコリスさんは、イングリット殿下とセレスティアさんのいる卓を避けるはずだった。嘘を書いて勝ちたい人は、言葉の傾きが分かる人のいる卓には座らない。だから一の卓を選べば、リコリスさんと同じ卓になる」
透は板の数字を指した。
「第二巡で、伊吹に二点払わせました。シルヴィさんの太陽の五を、表に出すために。リコリスさんの手には、もう一枚の太陽の五があった。太陽の巡で二度も降りたのは、最後の太陽のために札を取っておいたからですよね。一枚が表に出て、もう一枚が自分の手にある。そうなれば、この卓の太陽の五は全部見えたことになる。最後に伊吹が太陽の五と書いたら、神意の札か、嘘か、どちらかしかない」
リコリスの唇が小さく震えた。
「第四巡で、リコリスさんのペンは二度動いた。札の上に一度、紙の上に一度。神意の札を使ったと分かりました。それからノラさんに、最後ははったりを書かないほうがいいと伝えた。ノラさんが十一点のまま動かなければ、リコリスさんが残る道は一つしかない。伊吹を疑って、当てることだけです」
「……それで、最後に、あれ」
リコリスの声がかすれた。
あれ、と言っただけだった。神前の嘘のことを、リコリスは口にしなかった。透も、それ以上は言わなかった。
「もし、あたしが太陽の五を持ってなかったら」
「そのときは、最後にリコリスさんが太陽の五って嘘を書くしかなかった。伊吹と並んだままじゃ、二人とも落ちるから。そうしたら、今度は伊吹がリコリスさんを疑えばよかった。どっちに転んでも、伊吹の点が動くようにはしてありました」
リコリスは長いあいだ、何も言わなかった。
それからふっと息を吐いて、扇を手に取った。ゆっくりと開いて、口元を隠した。リコリスの目元は少しだけ赤くなっていた。
「読み切っても、賭けるしかない局面って、あるのね」
小さな声だった。
「あたし、商いで負けたことって、ほとんどないのよ。負けそうな商いには、最初から手を出さないから。でも今日は、手を出さなかったら負けてた。手を出しても、負けた。そういう盤を組まれたのね」
リコリスは扇を閉じて、立ち上がった。
伊吹の横を通り過ぎるとき、リコリスは足を止めた。伊吹を見下ろして、少しだけ首を傾げた。
「あなた、さっき、ごめんって顔してたわね」
伊吹は何も言えなかった。
「謝らなくていいわよ。あなたは本当のことしか言ってないもの。最初から、最後まで」
それからリコリスは透のほうへ向き直った。扇の先で、透の胸元をとんと叩いた。
「誓いは守るわ。神前で立てたんだもの、守るしかないんだけど」
リコリスはそこで言葉を切って、それから小さく笑った。
「でもね、誓ってなくても、たぶん売らなかったと思うわ。負けた賭けの取り立てはしない主義なの」
声は最後まで途切れなかった。ここは神前だった。リコリスは本当にそう思っているのだ。
「それと、もう一つ」
リコリスは扇を開いて、透の顔を覗き込んだ。さっきまでの悔しさが嘘のように、いつもの商人の笑い方に戻っていた。
「負かされた相手を、婿に取るのが一番安全でしょ。トオル、あなた、うちの婿に来ない? 損はさせないわよ」
礼拝堂にいた誰もが一瞬口をつぐんだ。
伊吹は口を開きかけた。嫌だ、と言いかけた。言えば、それは本当の気持ちとして声になる。この場の全員に聞かれる。別に、と言いかけた。それは嘘だった。声にしようとすれば、胸が焼ける。
伊吹は口を閉じて、膝の上で拳を握った。何も言えなかった。
「考えておきます」
透が穏やかに答えた。
「それ、さっきも聞いたわよ」
リコリスはころころと笑って、ベルントを連れて礼拝堂を出ていった。最後まで、一度も振り返らなかった。
シルヴィが伊吹の前に立っていた。
肩の上で、ミルが穏やかに光っている。シルヴィは少しだけもじもじしてから、伊吹に頭を下げた。
「ありがとう、ございました。ミルのこと」
「負けたのに、お礼なんて」
「負けたけど、ミルは泣いてないから」
シルヴィは顔を上げて、少しだけ笑った。
そのときミルがシルヴィの肩を離れた。ふわふわと漂って、伊吹の肩に止まった。伊吹は思わず身構えた。けれど今度は何も流れ込んでこなかった。痛みも、冷たさも。ただ陽だまりのような温かさが肩のあたりにほんのりと残った。
「ミルが、あなたのこと好きだって」
シルヴィがくすりと笑った。ミルはしばらく伊吹の肩でくるくると回ってから、またシルヴィのところへ戻っていった。
礼拝堂を出ると、回廊にはもう夕方の光が差し込んでいた。
伊吹は透の少し前を歩いていた。透は何も言わなかった。伊吹も何も言わなかった。胸の奥に重たいものがつかえていて、口を開く気になれなかった。回廊の柱の影が二人の足元に等間隔で落ちていた。
三位。灯油が一目盛り。ランタンの火は一つのまま。勝ったのだ。たぶん、今までで一番きれいに。
それなのに頭の中ではずっと同じ場面が繰り返されていた。
第一巡。伊吹が出した月の五。あれが神意の札でした。
穏やかな声。神前で、一音も途切れずに響いた声。一度だけ止まった瞬き。
それからもう一つ。伊吹と俺の生まれについて、生涯誰にも明かさないと。
回廊の角を曲がったところで、柱の陰から扇の閉じる音がした。
リコリスだった。会計士はいなかった。一人で柱にもたれて、伊吹たちを待っていたらしい。リコリスは透には目もくれずに、伊吹の前まで歩いてきた。
「さっき、言い忘れたことがあるの。あなたにだけ」
リコリスは扇で口元を隠して、伊吹の耳元に顔を寄せた。透に聞こえないくらいの、小さな声だった。
「試練が始まる前に、回廊であたしが何を話したか。あの人から、聞いた?」
伊吹は答えなかった。答えられなかった。
「やっぱり、聞いてないのね」
リコリスは少しだけ目を細めた。
「あなたが生まれた記録は、大陸のどこにもない。あたし、それを回廊であの人に言ったのよ。あの人ね、眉一つ動かさなかった。驚きもしなかった。最初から知ってたのよ。あたしが嗅ぎ回ってることも、たぶん、ずっと前から」
リコリスは伊吹から顔を離して、扇を開いた。
「あなたの参謀、あなたに何か黙ってたわよ。……じゃあね、イブキ。閉幕まで、見届け人の席で見ててあげる」
リコリスはそれだけ言うと、伊吹の横をすり抜けて、回廊の向こうへ歩いていった。
伊吹はその場に立ったまま、動けなかった。ずっと前から。指先から、すうっと血の気が引いていった。
振り返ると、透が三歩ほど後ろに立っていた。リコリスの声は聞こえていなかったはずだった。それでも透は伊吹の顔を見て、何かを悟ったように足を止めていた。
夕方の光の中で、透はいつもの穏やかな顔をしていた。伊吹はその顔を、初めて、少しだけ遠いと思った。




