第34話 神前の一言
休みのあいだ、シルヴィは礼拝堂の壁際に一人で立っていた。
手札を胸に抱えて、点数の板を見上げている。肩の上のミルは戻ってきたばかりで、光がひどく弱かった。伊吹は少しだけ迷ってから、シルヴィのほうへ歩いていった。背後で透が何か言いかけて、やめた気配がした。
「シルヴィさん」
シルヴィがびくりと肩を震わせた。伊吹を見上げて、手札をさらに強く胸に押しつける。
「な、なんですか。札の話なら、しちゃいけないんですよ。掟で」
「札の話じゃないよ」
伊吹はシルヴィの肩の上を見た。小さな光の玉がほとんど消えそうなほど暗くなって、小刻みに震えていた。
「あんたの精霊、泣いてるよ」
シルヴィの顔から、さっと血の気が引いた。
「ミルは、泣きません。言葉も、涙も、持ってないから」
「泣いてる。私には分かるの」
伊吹は自分の胸に手を当てた。
「さっき、ミルが私の肩に止まったとき、痛いのが流れ込んできた。審判で病人に手を当てたときと同じ。この子、あんたから離れるたびに、遠くへ引っぱられるみたいに痛いんでしょ。それでもあんたに頼まれたから、卓の上をふわふわ漂って、みんなの札を見て回ってる。今もまだ、胸のあたりがひりひりしてる。私の痛みじゃないのに」
シルヴィは何も言わなかった。唇を噛んで、肩の上のミルを見た。ミルは主の視線に気づいたのか、一度だけ明るく光ろうとして、すぐにまた暗くなった。
「……知ってました」
シルヴィの声が小さく震えた。
「離れると痛いのは、知ってたんです。森で一緒に育ったから。でも、わたし、嘘も下手だし、セレスティア様みたいに賢くもないし。ミルに見てもらわないと、一回も勝てない気がして。森の国の候補は、わたししかいないのに」
「勝てなくてもいいなんて、私は言わないよ」
伊吹はシルヴィの目を見た。
「私だって、負けたら終わる。でも、自分の大事な子を泣かせて取った点で勝っても、たぶんあんたは笑えないでしょ。さっき、十点で一番上にいたのに、全然嬉しそうじゃなかった」
シルヴィの目に、見る見る涙が溜まっていった。シルヴィは手札を片手に持ち替えて、空いた手で、肩の上のミルをそっと包んだ。
「ごめんね、ミル。もう行かなくていいよ。もう、どこにも行かなくていいから」
ミルが手のひらの中で、ゆっくりと光を取り戻していった。弱々しい明滅が少しずつ、柔らかな灯りに変わっていく。伊吹の胸に残っていた冷たい痛みが、すっと引いていった。
シルヴィの胸元で、何かが小さく光った。告解の間で返された欠片を、首から下げていたのだ。欠片はほんの一瞬だけ淡い若草色に光って、また静かになった。シルヴィは驚いたようにそれを見下ろして、それからミルを頬に寄せた。
伊吹は黙って、透の待つ卓に戻った。
「伊吹」
「分かってる。点にはならないって言いたいんでしょ」
「ううん」
透は少しだけ笑った。
「伊吹が気になってたのは、あれだったんだね」
「……悪い?」
「悪くないよ。ちょっと、かっこよかった」
伊吹は返事をしなかった。椅子に座り直して、手札を見下ろした。耳の奥で自分の鼓動がうるさかったのは、たぶん休みが短かったせいだ。
「第五巡。お題は、太陽」
伊吹の手には太陽の一しか残っていなかった。
「太陽の一を出して。ここは勝たなくていい巡。勝てる札がないなら、無理に嘘で勝負する理由もないから」
三枚の神託紙が開いた。伊吹は太陽の一。リコリスは星の三。シルヴィは太陽の一。
リコリスはまた、太陽の巡で降りていた。二度目だった。背後で透がほとんど聞こえないくらい小さく息を吐いた。
誰も疑わなかった。太陽の一が二つ並んで、勝者はなし。板の点は動かなかった。伊吹は六。リコリスは五。シルヴィは十。
二の卓ではイングリットが勝って、十二点になった。ノラは八のまま、帽子のつばを指で押し上げて、板を睨んでいた。
「第六巡。お題は、月」
「月の一を出して」
伊吹は月の一を伏せて、宣言を書いた。月の紋に印。数は一。一番弱い数だった。
神託紙が開いた。伊吹は月の一。リコリスは月の四。シルヴィは月の二。
疑いの順はシルヴィから始まった。
シルヴィは自分の神託紙と、伊吹の神託紙を、何度も見比べていた。肩の上のミルはもう卓の上を漂わなかった。シルヴィの肩にじっと止まって、穏やかに光っているだけだった。
「……ナルミイブキさんに、お聞きします」
シルヴィの声は震えていた。
「あなたの宣言は、真実ですか」
「はい」
伊吹の声はまっすぐに出た。
「宣言は真実にございます。シルヴィ殿からナルミイブキ殿へ、二点が移ります」
神官が伊吹の札を表に返した。月の一だった。シルヴィは小さく肩を落として、それから伊吹のほうを見て、ぎこちなく笑った。
「月の一なんて、わざわざ書く人いないと思ったの。でも、確かめたかったの。ミルに見てもらわないで、自分で。……外れちゃった」
伊吹は何も言えなかった。外れたのに、シルヴィは少しだけ嬉しそうだった。その顔を見ていたら、胸の奥がじんと温かくなった。
伊吹の番が来た。透は「疑わないで」とだけ言った。伊吹は誰も疑わなかった。リコリスの月の四がそのまま勝った。
神官が板に点を書きつけた。
一の卓。ナルミイブキ、八。リコリス、八。シルヴィ、八。
三人とも、八点で並んでいた。
二の卓ではノラが正直な宣言で勝って、十一点に上がっていた。イングリットは十二。セレスティアは十。
伊吹は板の数字を一つずつ数えた。八、八、八、十、十一、十二。一の卓の三人がそろって一番下にいる。
「第七巡。お題は、星」
透が伊吹の手札を見た。残っているのは星の二と、白い神意の札だけだった。
「星の二を出して」
伊吹は星の二を伏せて、宣言を書いた。向かいで、シルヴィがペンを取った。
さっきまでのシルヴィは宣言を書くとき一度も迷わなかった。今は違った。ペンの先が神託紙の上で止まって、なかなか動かない。ようやく動いたと思ったら、星の紋に印をつけたあと、数を書く手がはっきりと震えていた。
伊吹はその手を見ていた。
巡礼の三の関所を思い出した。リコリスの前で、何も知らないまま申告をしたとき、伊吹の手もああやって震えていた。あのときは見られる側だった。今は見る側にいる。
神託紙が開いた。伊吹は星の二。リコリスも星の二。シルヴィは星の五。
星の五。シルヴィの手札に星の五があるのかどうか、伊吹には分からない。ミルが卓を漂わなくなった今、シルヴィにも誰の手も分からないはずだった。それでも伊吹にはあの震えだけで十分だった。
疑いの順は伊吹から始まった。
「伊吹、どうする?」
透が聞いた。指示ではなかった。伊吹は少しだけ驚いて、肩越しに透を見た。透はまっすぐに伊吹を見返していた。
「……これは、私が決める」
「うん」
透はそれだけ言った。止めなかった。
伊吹はシルヴィを見た。シルヴィはミルを肩に乗せたまま、神託紙の上に両手を置いて、伊吹の顔をじっと見ていた。初めてのはったりなのだ。精霊に頼らずに、自分の力で勝とうとした、初めての嘘。それを今から、伊吹が暴く。
胸の奥がちくりとした。種火の痛みではなかった。
「シルヴィさんに、お聞きします」
伊吹は声を張った。迷いを声に乗せたくなかった。
「あなたの宣言は、真実ですか」
シルヴィは口を開いた。
「は」
そこで声が止まった。
最初の一音だけが漏れて、あとは喉の奥に引っかかったまま、出てこなかった。シルヴィは唇を閉じて、それからゆっくりと首を横に振った。
「宣言は偽りにございます。シルヴィ殿からナルミイブキ殿へ、二点が移ります。この宣言は消えるものといたします」
神官が札を表に返した。太陽の二だった。
疑いの順が回った。リコリスは誰も疑わなかった。シルヴィの番が来た。シルヴィは青ざめて、リコリスの神託紙を見つめていた。
「リコリスさんに、お聞きします。あなたの宣言は、真実ですか」
「ええ、真実よ」
リコリスの声はまっすぐに出た。シルヴィからリコリスへ、また二点が移った。
星の二が二つ並んで、この巡の勝者はなしとなった。神官が板に点を書きつけた。
一の卓。ナルミイブキ、十。リコリス、十。シルヴィ、四。
二の卓。イングリット、十五。セレスティア、十。ノラ、十一。
シルヴィは板を見上げて、それから肩の上のミルに頬を寄せた。泣いてはいなかった。ミルが主の頬のそばで、温かく光っていた。
伊吹は板の数字から目を離せなかった。
十と十。伊吹とリコリスが並んでいた。
シルヴィの四はもう誰にも届かない。下の二人のうち一つはシルヴィで決まりだった。残りの一つ。このままなら、二の卓の誰かが落ちてくるか、伊吹とリコリスが並んだまま終わる。掟のその十。下の二人の境で並べば、並んだ者はすべて聖灯を一つ失う。
並んだまま終われば、伊吹もリコリスも、終わる。
「最後の巡の前に、しばしの休みをいただきます。最後の巡は、二の卓から先に行います」
神官の声が礼拝堂に響いた。
伊吹は膝の上で手を握った。指先が冷たかった。振り返ると、透はもう伊吹の後ろにいなかった。
透は二の卓の脇に立っていた。壁にもたれて銅貨を転がしているノラの横で、何かを短く囁いている。ノラの指の上で、銅貨がぴたりと止まった。ノラは帽子のつばの下から透を見上げて、それから小さく頷いた。透はそれ以上何も言わずに、伊吹のところへ戻ってきた。
「ノラさんに、何言ったの」
「王女様の加護のこと」
透は声を落とした。
「イングリット殿下は、宣言が開いた瞬間に、誰の言葉が傾いてるかを感じ取れる。この卓でずっとそれをやってる。ノラさんは今、十一点で、火は一つしかない。最後にはったりを書いて殿下に見抜かれたら、九点まで落ちる。だから、最後は本当のことしか書かないほうがいいって」
「……ノラさんを、助けたの」
「ノラさんが落ちたら困るからね」
瞬きは止まらなかった。伊吹はそれ以上聞かなかった。困る理由は言わなかった。
そのとき扇の閉じる音がした。
リコリスが伊吹の卓の脇に立っていた。伊吹ではなく、透を見ていた。回廊から戻ってきたときと同じ、甘い笑い方だった。
「トオル。少しいい? 今度は、ここでいいわ」
ここは礼拝堂の中だった。燭台の火は一本も揺れていない。神前だった。
「取引しましょ」
リコリスは扇の先で、点数の板を指した。
「あたしとイブキは十点で並んでる。このままだと二人そろって落ちる。でもね、最後の巡で、あたしがイブキの宣言を疑って当てれば、あたしは十二、イブキは八。ノラさんの十一を抜いて、あたしは残る。外せば逆。だから、知りたいことがあるの」
リコリスはまっすぐに透を見た。
「イブキの神意の札。まだ手にあるのか、もう使ったのか。それだけでいい。教えてくれたら、何を払えばいい?」
伊吹は息を止めた。伊吹の手の中には白い神意の札が一枚、まだ残っていた。
透は少しだけ黙った。それから穏やかな声で言った。
「誓いを一つ」
「誓い?」
「最後の巡で、あなたが伊吹を疑って外したら。そのときは、伊吹と俺の生まれについて、生涯誰にも明かさないと。ここで、神前に誓ってください。先に」
伊吹は透を振り返った。
生まれ。伊吹と俺の生まれ。透は今、確かにそう言った。リコリスは驚きもしなかった。扇を口元に当てて、くすりと笑っただけだった。最初から、その話をしていたのだ。回廊で。伊吹の知らないところで。
足元が冷たくなった。
リコリスは知っている。伊吹たちがこの世界の生まれではないことを。いつから。どこまで。透はそれを知っていて、ずっと黙っていたのか。
「いいわよ」
リコリスはあっさりと言った。
「外したら、ね。外さなければ、ただの紙切れの誓いだもの。安いものよ」
リコリスは灯明のほうへ向き直って、右手を胸に当てた。
「最後の巡で、あたしがナルミイブキの宣言を疑って外したなら、あたしはナルミイブキとトオルの生まれについて、生涯、誰にも明かさない」
声は一音も途切れなかった。リコリスの手の甲で、聖印が淡く光った。
「さあ、払ったわよ」
リコリスは透に向き直った。
「教えて。イブキの神意の札は」
透は伊吹の手元を見なかった。リコリスの目を、まっすぐに見ていた。
「第一巡。伊吹が出した月の五。あれが、神意の札でした」
穏やかな声だった。神前で、一音も途切れずに響いた。
瞬きが一度だけ止まった。
伊吹は動けなかった。嘘だ。第一巡の月の五は本物の月の五だった。神意の札は今も伊吹の手の中にある。透は神前で、この世界の誰もが嘘をつけない場所で、リコリスの目を見て嘘をついた。
リコリスの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていった。
「そう。やっぱり、そうだったのね」
リコリスは扇を閉じた。
「太陽の五は、一枚がシルヴィの手から表に出た。もう一枚は、あたしの手にある。そしてイブキの神意の札は、もうない。だったら、イブキが最後に太陽の五って書いたら、それは嘘しかありえないってことね」
リコリスは満足そうに頷いて、自分の席に戻っていった。伊吹は口を開きかけた。
違う、と言えば、それで終わる。リコリスは疑わない。伊吹とリコリスは並んだまま、二人とも落ちる。それに、伊吹がここで声を上げれば、透が神前で嘘をついたことを、礼拝堂じゅうに知らせることになる。この世界の人間は神前で嘘をつけない。それなのに嘘をついた男がいる。そうなれば、伊吹たちが何者なのかを、自分の口で叫ぶのと同じだった。
伊吹は口を閉じた。
胸が焼けたのではなかった。それなのにひどく苦しかった。
二の卓の最後の巡が始まった。お題は太陽。ノラは迷わず、星の札を出して降りた。イングリットは神託紙が開いた瞬間、ノラの宣言をちらりと見て、何も感じなかったように目を戻した。セレスティアの太陽の宣言が勝って、点が板に書き足された。
イングリット、十五。セレスティア、十三。ノラ、十一。
「一の卓。最後の巡。お題は、太陽」
神官の声が遠くに聞こえた。背後で透が身をかがめた。
「白い札に、太陽の五って書いて」
いつもの穏やかな声だった。伊吹は振り向かなかった。振り向いたら、何か言ってしまいそうだった。
伊吹は手札の一番奥から、白い神意の札を取り出した。試練が始まる前に、透が最後まで大事にしてと言った札だった。あのときから、透はこの瞬間のために、この札を取っておかせたのだ。
伊吹はペンを取った。
太陽の紋に印をつける。それから数の枠に、五と書こうとした。
ペンの先が震えた。
本当のことを書くだけなのに。神意の札に太陽の五と書けば、それがこの札の正体になる。嘘は一つもない。それなのにペンを持つ手がどうしても止まらなかった。
この五は透の嘘の上に書く五だった。




