第33話 四巡の布石
神託紙は手のひらほどの大きさの、薄い羊皮紙だった。
上のほうに、太陽と月と星の紋が三つ並んで描かれている。その下に、数を書き込む小さな枠が一つ。宣言は三つの紋のどれか一つに印をつけて、枠に数を書くだけでいいのだという。伊吹はほっと息をついた。この世界の字はまだ読めない。それでも数の形だけは慈悲の審判の前に透に教わって覚えていた。
「書けそう?」
背後で透が小声で聞いた。
「数なら書ける。……五までなら、たぶん」
「五までしか出てこないから大丈夫」
透は少しだけ笑った。伊吹は笑わなかった。回廊から戻ってきた透に、リコリスと何を話したのか聞いた。透の答えは「巡礼のときの貸し借りの話」だった。瞬きは止まらなかった。嘘ではない。それでもそれだけのはずがなかった。リコリスは今も扇の陰から、ときどき透のほうを見ている。
「第一巡。お題は、月」
神官の声で、伊吹は手札に目を戻した。
「月の五を出して」
透が耳元で言った。
「理由は」
「最初の巡は、みんなまだ様子を見てる。誰も嘘を書きたがらないし、誰も疑いたがらない。だから一番強い札で、素直に三点を取っておく。最初の三点が、あとで効いてくるから」
伊吹は月の五を伏せて出した。神託紙の月の紋に印をつけて、枠に五と書く。ペンを持つ手が少しだけ硬くなった。本当のことを書いているのに、なぜか緊張した。
三枚の神託紙が一斉に開かれた。
伊吹は月の五。リコリスは月の二。シルヴィは月の一。
誰も疑わなかった。シルヴィは疑いの順が回ってきても、小さく首を横に振っただけだった。リコリスは扇を揺らしながら、伊吹の神託紙を面白そうに眺めていた。
「月の五を宣言されたナルミイブキ殿に、三点を」
神官が正面の板に点を書きつけた。伊吹は八。リコリスとシルヴィは五のまま。
隣の二の卓ではノラが月の五で勝っていた。帽子のつばの下で、ノラが伊吹のほうを見て、指で小さく五を作ってみせた。伊吹も指で五を作って返した。少しだけ気が楽になった。
シルヴィの肩の上で、ミルがふわりと浮き上がった。卓の真ん中あたりまで漂っていって、くるくると回る。それからまた、シルヴィの肩に戻っていった。伊吹はそれを目で追って、透を振り返った。透は精霊の漂ったほうを一瞬だけ見て、それから何も言わずに、伊吹の手札に目を戻した。
「第二巡。お題は、太陽」
伊吹の手札には太陽の四と太陽の一があった。
「太陽の四を出して」
「五はないから、これが一番強いもんね」
「うん」
伊吹は太陽の四を伏せて、宣言を書いた。太陽の紋に印。数は四。
三枚の神託紙が開いた。伊吹は太陽の四。リコリスは星の一。シルヴィは太陽の五。
星の一。お題は太陽なのに、リコリスは関係のない紋を出していた。勝負から降りたのだ。伊吹はちらりとリコリスを見た。リコリスは扇の陰で、少しも気にしていないようだった。
シルヴィの太陽の五は迷いのない字だった。宣言を書くとき、シルヴィのペンは一度も止まらなかった。肩の上のミルがほんのり明るく光っていた。伊吹は思った。あれは本当だ。迷っていない人の字だった。
疑いの順が回ってきた。リコリスは首を横に振った。
伊吹の番が来た。
「シルヴィさんを疑って」
耳元で透が言った。
伊吹は聞き間違えたのかと思った。振り向かずに、唇だけで聞き返した。
「何、言ってるの」
「シルヴィさんの宣言を疑って。あなたの宣言は真実ですかって」
「あれ、本当だよ。見てたでしょ。一回も迷わないで書いてた。ミルだって光ってた。疑ったら、私が二点払うんだよ」
「うん。知ってる」
透の声は穏やかなままだった。
「二点、払ってほしいんだ」
伊吹は卓の縁を握った。
「わざと外せってこと?」
「そう。シルヴィさんの太陽の五を、表に返してほしいんだ。疑われた札だけが表になるから。その代金が二点」
「表にして、どうするの」
透は少しだけ間を置いた。それから伊吹の手札ではなく、卓の向かいのリコリスのほうへ視線を流した。
「見せたい人がいるんだ。この二点は捨てるんじゃなくて、買い物。値打ちは、最後の巡で返ってくる」
伊吹は黙って、手札の端を指でなぞった。
二点。伊吹には一つしか火がない。一点でも惜しいのは透だって分かっているはずだった。分かっていて、それでも払えと言っている。
伊吹は振り向かずに、小さく聞いた。
「それ、何割読めてるの」
背後で、透がほんの少しだけ息を止めた。始まる前に、七割と答えたことを思い出したのだろう。
「これは十割」
瞬きは止まらなかった。
伊吹は手札の端から指を離した。十割。だったら、迷うことはなかった。告解の間でも、巡礼でも、審判でも。この男の読みが外れて伊吹が負けたことは、まだ一度もない。
「……疑います」
伊吹は前を向いて、はっきりと言った。
「シルヴィさんに、お聞きします。あなたの宣言は、真実ですか」
シルヴィは目を丸くした。それから戸惑ったように、小さな声で答えた。
「は、はい」
声はまっすぐに出た。
「宣言は真実にございます。ナルミイブキ殿からシルヴィ殿へ、二点が移ります」
神官がシルヴィの伏せた札を表に返した。太陽の五だった。シルヴィはさらに三点を受け取って、十になった。伊吹は八から六に下がった。
卓の向かいで、リコリスが扇を閉じた。表に返された太陽の五を、じっと見つめていた。指先で、扇の骨を一本ずつ数えるように撫でている。何かを数えているのだ、と伊吹は思った。何を数えているのかは分からなかった。
「第三巡。お題は、星」
伊吹の手には星の五があった。
「星の五を出して」
「今度は、疑えって言わないでよ」
「言わないよ」
三枚の神託紙が開いた。
伊吹は星の五。リコリスも星の五。シルヴィは星の四。
伊吹はリコリスの神託紙を見た。星の五。星の五は卓に二枚しかない。一枚は伊吹の手にあった。今、伏せて出したばかりだ。もう一枚がリコリスの手にあってもおかしくはない。でもないかもしれない。
リコリスは扇を揺らしながら、穏やかに笑っていた。さっきと何も変わらなかった。
疑いの順はシルヴィから始まった。シルヴィは首を横に振った。肩の上のミルが小さく明滅した。シルヴィは何か知っているようだったが、それでも黙っていた。
伊吹の番が来た。
「疑わないで」
透が言った。
「どうして。嘘かもしれないでしょ」
「本当かもしれない。もう一枚の星の五が、リコリスさんの手にあるかもしれない。外したら、また二点払うことになる」
伊吹は透を振り返らなかった。それはたぶん本当だった。でもそれだけの理由ではない気がした。透はさっき、外れると分かっている疑いをさせた。今度は当たるかもしれない疑いをさせない。
「……疑いません」
伊吹が言うと、リコリスがほんのわずかに肩の力を抜いたように見えた。リコリスも伊吹を疑わなかった。
「星の五が二つ並びましたゆえ、この巡の勝者はなしといたします」
点は動かなかった。伊吹は六。リコリスは五。シルヴィは十。
二の卓ではイングリットがセレスティアの宣言を疑って、外していた。セレスティアは疑われたとき、わざと迷うような間を置いてから「はい」と答えた。セレスティアのお供のヨアンが壁際で表情一つ変えずに立っていた。それでもイングリットはその巡で勝って、点を九にした。
ミルがまたシルヴィの肩を離れた。
今度は卓の真ん中で止まらなかった。ふわふわと漂って、伊吹の肩のすぐ上まで来た。伊吹の手札の上に、淡い光が落ちた。
見ているのだ、と伊吹は気づいた。札を覗いている。
伊吹は手札を胸に引き寄せかけて、やめた。今さら隠しても遅い。シルヴィは最初から見ていたのだ。だからシルヴィはあんなに迷わない。だから第一巡でも第二巡でも、誰も疑わなかった。
そのとき肩に冷たいものが触れた。
ミルだった。光の玉が伊吹の肩にそっと触れていた。
次の瞬間伊吹の胸の奥に、何かが流れ込んできた。
痛みだった。小さくて、細くて、ひどく冷たい痛み。慈悲の審判で病人の胸に手を当てたときと同じだった。手首の水色の紐がかすかに熱を帯びた。けれどこれは人の痛みではなかった。怪我の痛みでも、病の痛みでもない。何かを無理に引き伸ばされているような、遠くへ遠くへ引っぱられているような痛みだった。
伊吹は息を止めた。ミルの光が震えていた。
シルヴィから離れているからだ、と伊吹は思った。この子はシルヴィから離れるたびに痛いのだ。それでもシルヴィに頼まれて、卓の上を漂っている。そう分かったとたん、胸がぎゅっと締めつけられた。
「第四巡。お題は、月」
神官の声で、伊吹ははっとした。ミルはもうシルヴィの肩に戻っていた。シルヴィは何も気づいていないように、手札を見つめていた。
「月の三を出して。月の五はもう使ったから、残りで一番大きいのは三。ここは勝たなくていい」
透の声が少しだけ遠く聞こえた。伊吹は月の三を伏せて、宣言を書いた。指先がまだ少し冷たかった。
向かいで、リコリスがペンを取った。
伊吹はそれを、ぼんやりと見ていた。リコリスは伏せた札の上にペンを走らせて、それから神託紙にもペンを走らせた。二度だった。札の上に一度。紙の上に一度。背後で、透が小さく息を吸うのが聞こえた。
三枚の神託紙が開いた。
伊吹は月の三。リコリスは月の五。シルヴィも月の五。
「月の五が二つ並びましたゆえ、この巡の勝者はなしといたします」
誰も疑わなかった。点は動かなかった。
神官が正面の板に、四巡目までの点を書き出した。
一の卓。ナルミイブキ、六。リコリス、五。シルヴィ、十。
二の卓。イングリット、九。セレスティア、十。ノラ、八。
伊吹は板を見上げたまま、動けなかった。
六人の中で、下から二番目だった。一番下がリコリスの五。その一つ上が伊吹の六。このまま終われば、下の二人は伊吹とリコリスになる。伊吹のランタンの火が消える。
さっきの二点がなければ、伊吹は八だった。下の二人どころか、真ん中にいた。
「巡の合間に、しばしの休みをいただきます」
神官が言った。候補たちが席を立った。
伊吹は立たなかった。卓の上に両手を置いたまま、板の数字を見上げていた。
指先が冷たかった。手のひらを卓に押しつけると、少しだけ震えているのが分かった。告解の間で蝋燭が一本になったときも、こんなふうだった。あのときは目の前の白蓮だけを見ていればよかった。今は板の上の六つの数字を、全部見ていなければならない。
「透」
振り向かずに呼んだ。
「うん」
「これも、読みどおり?」
透はすぐには答えなかった。それから伊吹の隣にしゃがんで、同じ高さから板を見上げた。
「読みどおりだよ。伊吹が今、下から二番目にいるのも。リコリスさんが一番下にいるのも」
「下から二番目に、わざと置いてるの」
「うん。今は、そこにいてほしい。そこにいるから、最後にひっくり返せる」
瞬きは止まらなかった。
伊吹は長く息を吐いた。怖くないと言えば嘘になる。言おうとすれば、たぶん胸が焼ける。だから言わなかった。代わりに、卓に押しつけていた手のひらを、ゆっくりと持ち上げて、膝の上で握った。
「分かった。数字のほうは、あんたに任せる」
「伊吹」
「その代わり、私は私で、気になってることがあるから」
透が少しだけ首を傾げた。伊吹は答えずに、膝の上の拳をほどいた。そのときまた肩に冷たいものが触れた。
ミルだった。休みのあいだに、シルヴィの肩を離れて、また漂ってきたのだ。今度は伊吹の手札を見ようとはしなかった。ただ伊吹の肩の上で、小さく、小さく震えていた。
さっきと同じ痛みが伊吹の胸に流れ込んできた。冷たくて、細くて、どこまでも引き伸ばされるような痛み。
伊吹は卓の向こうのシルヴィを見た。シルヴィは壁際で手札を握りしめて、点数の板を見上げていた。十点。今、一の卓で一番上にいる。それなのにシルヴィの顔は少しも嬉しそうではなかった。唇をきつく結んで、何かを我慢していた。
伊吹は自分の肩の上の光を見下ろした。その痛みは伊吹のものではなかった。




