第32話 生まれた記録
帳面の数字が合わないとき、リコリスはいつも同じことをする。
足りない一枚を探すのではない。最初から数え直すのだ。どこで数を間違えたのかを探すより、全部を一から並べ直したほうが早い。父の膝の上で帳面を眺めていたころから、そうやってきた。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは数字を書いた人間のほうだ。
ゆうべ、ベルントが青い顔をして部屋に入ってきたとき、リコリスはそれを思い出していた。
「お嬢様。ルーヴェの件、すべて戻ってまいりました」
会計士は抱えてきた紙の束を卓に置いた。ルーヴェの町々に散らばる教会の出生の帳面を、商会の者が手分けして片端から写させたものだった。小さな国だ。町は十と少し、村を足しても五十に足りない。それでも三日でここまで集めるのに、銀貨が何十枚も飛んだ。
「ナルミ、という家の名は」
「ございません」
「イブキ、という娘の名は」
「ございません。ルーヴェの、どの町にも、どの村にも。この十八年の帳面を、一冊残らずめくらせました。ついでに申しますと、トオルという名の男子も、一人も」
リコリスは扇を閉じたまま、紙の束を一枚ずつめくった。ベルントの言うとおりだった。どの帳面にも、二人の名前はなかった。
「それと、もう一つ」
ベルントは眼鏡を押し上げて、別の紙を差し出した。
「お申しつけの時計の件です。東方の細工だと、あの若者が市場で申していた品。蓮州、それから東の島々の工房に、うちの船の者を通して問い合わせました。答えはどこも同じでした。そのような細工は作っていない。ねじも巻かずに何日も針が回り続ける時計など、聞いたこともない、と」
リコリスはしばらく黙っていた。
灯実当ての台の噂は王都の誰もが知っている。ボルクの台で、あの若者が腕時計を賭けて、金貨十五枚を取った。東方の細工ですよ、とあの若者は言った。祠の灯明の外で。神前の外なら、何とでも言える。
「生まれた記録がない娘と、どこにもない細工を持った男」
リコリスは扇の先で、紙の束をとんと叩いた。
「聖典の条文、覚えてる? ベルント」
「は。聖女は、この地に生きる者の中から選ばれる。それから、召喚者の名は、いかなる記録にも残してはならない」
「そう。召喚なんて、おとぎ話の禁術だと思ってたけど」
リコリスは窓の外の大聖堂を見上げた。尖塔のてっぺんに、大灯が小さく燃えていた。
「名乗りの締め切りの日に、どこからともなく現れたルーヴェの代わりの候補。ランタンが一つしか灯らない。生まれた記録が、大陸のどこにもない。……数字が合いすぎてて、気持ち悪いくらいだわ」
*
そして今朝、神託札の礼拝堂で、リコリスは一の卓の椅子に腰を下ろしかけたところで顔を上げて、あの若者に微笑んでいる。
ルーヴェのお供は少しも驚かなかった。リコリスの笑みを、いつもの穏やかな顔のまま受け止めていた。その隣で、イブキがこちらを睨んでいた。こちらはすぐ顔に出る。分かりやすい子だ。
リコリスは扇を閉じて、神官に向き直った。
「神官様。始まる前に、ルーヴェのお供さんを少しだけお借りしてもいいかしら。札の話じゃないわ。巡礼のときの貸し借りの話なの。すぐ済むから」
神官は少し迷ってから、頷いた。
「お題を引くのは、神託紙と墨が揃ってからといたします。それまでならば」
「ありがとう。トオル、ちょっといい?」
透はイブキのほうを一度だけ見た。イブキは何か言いかけて、口をつぐんだ。リコリスは先に立って、礼拝堂の扉を出た。
回廊は冷たい石の匂いがした。
柱のあいだから、中庭の噴水が見える。風が吹いていて、壁の燭台の火が少しだけ揺れていた。ここは神前の外だ。リコリスはわざと、ここを選んだ。神前で話せば、自分の言葉は全部本当だと相手に分かってしまう。それでは駆け引きにならない。
透は扉から三歩ほどのところで足を止めた。それ以上は離れようとしなかった。リコリスはそれに気づいて、少しだけ眉を上げた。
「そんなに大事? あの子のそば」
「お供なので」
「ふうん」
リコリスは扇を開いて、口元を隠した。
「単刀直入に言うわね。回りくどいのは嫌いなの。あなたも知ってるでしょ」
「はい」
「ルーヴェの教会の帳面を、全部めくらせたの。十八年分。ナルミイブキっていう娘が生まれた記録は、どこにもなかった。トオルっていう男の子もね。あなた、巡礼の祠で言ったわよね。ルーヴェの片田舎の生まれだって。縄の外で」
透は何も言わなかった。
「それから、あなたの時計。東方のどの工房にも問い合わせたわ。そんな細工はどこも作ってないって。ねじも巻かずに止まらない時計なんて、聞いたこともないって」
リコリスは扇の上から、透の顔をじっと見た。
港に揚がる積み荷の値打ちなら、ひと目で分かる。商人の顔色なら、百人でも読める。売る気のある顔、渋っている顔、焦っている顔、嘘をついている顔。どれも見慣れている。
それなのにこの男の顔からは何も読めなかった。眉一つ動かない。唇の端も、喉も、瞬きの間合いさえ、さっきと少しも変わらない。
「聖典にこうあるの。聖女は、この地に生きる者の中から選ばれる。この地に生まれた記録のない娘が、もし聖女候補として名乗っていたら、どうなるのかしらね」
「……そうですか」
透はそれだけ言った。リコリスは扇を下ろした。
「それだけ?」
「はい」
「否定もしないの? 言い訳も? ここは神前の外よ。何とでも言えるのに」
「何とでも言えるなら、何を言っても同じなので」
透は穏やかに笑った。
リコリスは思わず笑い返しそうになって、こらえた。腹が立った。ひどく腹が立って、それと同じくらい、胸の奥がわくわくしていた。商いで一番面白いのは相手の手が読めないときだ。巡礼の三の関所で、この男に十五を払わされた。あのときと同じ感じがした。
「売れば、ずいぶん高く売れそうね」
リコリスはわざと軽い口調で言った。
「大神官様にでも、ヴァルディアの王子殿下にでも。イングリット殿下なら、喜んで買い取ってくださるんじゃない? 候補が一人いなくなれば、王女様はそれだけ聖女に近づくもの。値は、そうね。メルクールの商会が、この先十年は王家の御用を独り占めできるくらいかしら」
言ってから、リコリスは自分の言葉を値踏みした。本気なのか、駆け引きなのか。神前の外だから、自分でもはっきりとは分からない。売れば得をする。それは本当だ。商会の娘として育ってきたリコリスの頭は、もう値を弾いている。
それなのに慈悲の審判の広間が頭に浮かんだ。
待って、と叫んだ声。毛布を顎まで引き上げて震えていた男の子。あたしが黒い石を引けば、あなたは一つ上に行けるのよ。そう言ったリコリスに、イブキは睨み返して言った。得なんか知らない。誰かが騙されて黒い石を引くのも嫌。それがあなたでも、ほかの誰でも。
あのとき、リコリスは借りを作った。借りを作るのは商いで一番嫌いなことだった。
「でも、ね」
リコリスは扇を閉じて、透をまっすぐに見た。
「あたし、借りっぱなしは性に合わないの。施療院で、あの子に一つ借りがある。だから今すぐ売り歩く気はないわ。少なくとも、この試練が終わるまではね」
「試練が終わったら」
「さあ。そのときの値段次第よ」
リコリスはにっこりと笑った。
「それとも、あなたが買い取る? この話を、あたしから。商いにしましょうよ、トオル。あなたが何を差し出すか、ちょっと楽しみにしてるの」
透は少しだけ黙った。それからやはり穏やかな声で言った。
「考えておきます」
それだけだった。透は軽く頭を下げて、礼拝堂の扉のほうへ戻っていった。足取りは少しも急いでいなかった。逃げるでもなく、怒るでもなく、来たときと同じ速さで。
リコリスは回廊に一人残って、その背中を見送った。
何も読めなかった。驚きも、焦りも、怒りも。秘密を握られた人間なら、どこかに必ず出るはずのものが、あの男からは一つも出てこなかった。帳面の数字なら最初から数え直せばいい。でもあの男の顔は何度見直しても、何も分からなかった。
考えておきます。
本当に考えるつもりなのか。それとも、もう考え終わっているのか。
リコリスは扇で口元を隠して、小さく笑った。指先が少しだけ冷たかった。怖いのとは違う。大きな商いの前に、いつもこうなるのだ。
「面白いじゃない」
声に出すと、少しだけ落ち着いた。
扉の向こうで、見習いの神官が神託紙と墨壺を卓に並べているのが見えた。イブキが椅子に座ったまま、戻ってきた透の袖を掴んで、何かを問い詰めている。透は首を横に振って、何かを言った。イブキは唇を噛んで、透の袖を離した。
あの子は何も知らないのだ、とリコリスは思った。自分の生まれた記録がどこにもないことが、もう誰かに知られていることも。お供がそれを黙っていることも。
知らないまま、正直者のつもりで、あの卓に座っている。そう思ったら、胸の奥がほんの少しだけちくりとした。
リコリスは扇を閉じて、礼拝堂の中へ戻った。一の卓の自分の椅子に腰を下ろすと、向かいのイブキがまだこちらを睨んでいた。リコリスは笑い返した。今度はちゃんと、イブキに向けて。
神官が小箱に手を入れて、最初のお題の紋を引いた。
「第一巡。お題は、月」
リコリスは自分の手札を広げた。八枚の札の中に、白紙の神意の札が一枚と、太陽の五が一枚あった。どちらも、最後まで使わずに取っておく札だった。
さて、とリコリスは思った。どう出るのかしら、トオル。




