第31話 神託札
慈悲の審判から三日がたった朝、王都の読売にはまた伊吹の名前が載っていた。
「ルーヴェの荒くれ候補、施療院で旅役者を口説き落とす、だって」
候補の館の食堂で、透が刷り物を広げて読み上げた。伊吹は黒パンをちぎる手を止めて、透の手から刷り物をひったくった。字は読めない。それでも挿絵だけは分かった。長靴の娘がひざまずく男の胸ぐらを掴んで揺さぶっている。
「口説いてないし。口説かれたほうだし。それにこれ、どう見ても殴ろうとしてるでしょ」
「読売は、本当のことより面白いことを書くからね。文字は何も裁かないし」
透はいつもの穏やかな声で言って、豆のスープをすすった。伊吹は刷り物を卓に伏せて、透の横顔を見た。
あの夜からずっと、透は少しだけおかしかった。施療院の門の前で白蓮と話したあと、それだけだよ、と言ったときに瞬きが止まった。伊吹はそれを見た。透も、見られたことに気づいていた。それなのにこの三日間、透はそのことに一言も触れなかった。夜中にふと目を覚ましたら、透が窓辺に立って大聖堂の尖塔を見上げていたことが二度あった。何を考えているのか聞こうとして、伊吹は二度とも寝たふりをした。聞けば、たぶん透はまた何かを隠す。隠したときの瞬きを、もう一度見るのが嫌だった。
「透」
「うん」
「……何でもない。食べたら行こ」
透は少しだけ伊吹を見て、それから黙って頷いた。第四の試練の場は大聖堂の回廊沿いにある、小さな礼拝堂だった。
告解の間よりずっと狭くて、観覧席もなかった。この試練だけは民にも貴族にも開かれず、神官と候補とお供しか入れないのだという。壁沿いに燭台が並び、どの火もまっすぐに立ったまま揺れていない。神前だった。部屋の真ん中に円い卓が二つ置かれていて、それぞれの卓に椅子が三つずつ並んでいた。
正面の壁には大きな黒い板が掛けてあった。六つの枠が描かれていて、まだ何も書かれていない。
六人の候補が揃うと、伊吹は思わずそれぞれの手元を見た。
セレスティアのランタンには火が二つ灯っていた。ほかの五人は伊吹と同じで、一つきりだった。イングリットとノラは審判で一つずつ失った。リコリスとシルヴィは告解の間で負けている。この試練で下の二人に入れば、セレスティア以外は誰でも終わる。部屋の誰もがそれを分かっていて、だから誰も口をきかなかった。
ノラだけが壁にもたれて、指の上で銅貨を転がしていた。目が合うと、帽子のつばの下で、口の端だけで笑った。
「負けないからね、イブキ」
「それ、前も聞いた」
「前も負けなかったでしょ。ぎりぎりで」
ノラはそれだけ言って、また銅貨を転がし始めた。年配の神官が正面に進み出て、巻物を広げた。
「これより、第四の試練、神託札の掟をお伝えいたします」
・その1 各卓に札を32枚置く。太陽、月、星の3つの紋に、1から5の数。同じ札はそれぞれ2枚ずつ。ほかに白紙の神意の札を2枚
・その2 神意の札は出すときに紋と数を書き込む。書いたものがその札の正体となる
・その3 候補には札を8枚ずつ配る。同じ札は1人の手に2枚宿らぬよう配る。残りの8枚は伏せたまま使わない
・その4 持ち点は5。巡は8つ。巡のはじめに神官がお題の紋を引く。ただし最後の巡のお題は太陽とする
・その5 候補は札を1枚伏せて出し、神託紙に宣言を書く。宣言は文字ゆえ、偽りを書いてもよい
・その6 宣言を一斉に開いたのち、候補は順に、他の一人の宣言を疑うことができる。問いは「あなたの宣言は、真実ですか」のみとする
・その7 宣言が偽りならば、宣言した者から疑った者へ2点が移り、その宣言は消える。宣言が真実ならば、疑った者から宣言した者へ2点が移る。疑われた札のみ表に返す
・その8 お題の紋で最も大きな数を宣言した者に3点を授ける。同じ数が並べば、勝者はなしとする
・その9 対局のあいだ、札について口で尋ねてよいのは疑いの1問のみ。お供との相談は自由とする
・その10 2つの卓の点を合わせて順位を定める。下の2人は聖灯を1つ失う。下の2人の境で点が並べば、並んだ者はすべて聖灯を1つ失う
・その11 最後の巡は二の卓から先に行い、その点を板に記してから一の卓を行う
・その12 卓は慈悲の審判の順位のとおり、1人ずつ選ぶ
・その13 1位に灯油を3目盛り、2位に2目盛り、3位に1目盛り授ける
神官が巻物を巻き終えると、部屋の中に小さなざわめきが広がった。
「下の二人の境で並べば、並んだ者はすべて」
伊吹は口の中で繰り返した。告解の間の引き分けと同じだった。並んだだけで、終わる。
「卓をお選びくださいませ。まずは大聖堂のセレスティア殿」
セレスティアは迷わず、二の卓の椅子に手を置いた。お供のヨアンがすぐ後ろに立つ。
「次に、ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿」
伊吹が透を振り返るより早く、耳元で声がした。
「一の卓にして」
迷いのない声だった。伊吹は小声で聞き返した。
「なんで。セレスティアさんを避けたいのは分かるけど、一の卓にはまだ誰もいないよ。誰が来るか分からないじゃない」
「来る人は分かってるよ」
「誰」
「リコリスさん。あの人は嘘を書いて勝ちたいはずなんだ。だったら言葉の傾きが分かるイングリット殿下のいる卓には行かない。セレスティアさんにも巡礼で痛い目を見てる。残ってる卓は一つしかない。必ず、こっちに来る」
伊吹は透の顔を見た。
「それ、全部読めてるの? この前約束したよね。半分しか読めてないなら、半分って言ってって」
透は少しだけ黙った。それから伊吹の目をまっすぐに見返した。
「七割くらい。残りの三割は、卓に着いてからじゃないと分からない」
瞬きは止まらなかった。
伊吹は小さく息を吐いた。七割。正直な数字だった。それでもまだ、伊吹はすっきりしなかった。透がわざわざリコリスを呼び寄せる卓を選ぶ理由を、伊吹は聞いていない。聞いても、たぶん教えてもらえない。
「……一の卓にします」
伊吹は一の卓の椅子に手を置いた。
三番目のシルヴィは少しだけ迷ってから、一の卓に来た。二の卓のセレスティアのほうを、怯えたようにちらりと見る。巡礼の一の関所で酒を取られたのを、まだ覚えているのだ。肩の上で、ミルがふわふわと揺れていた。
四番目はリコリスだった。
二の卓にはまだ椅子が二つ空いていた。リコリスは二つの卓を見比べるように扇で口元を隠して、それからまっすぐに一の卓へ歩いてきた。伊吹の向かいの椅子に手を置いて、にっこりと笑う。
「よろしくね、イブキ。正直者と同じ卓なんて、心強いわ」
伊吹は返事をしなかった。背後で、透が小さく息を吐く気配がした。読みどおりだったのだろう。
残ったノラとイングリットは何も選べないまま二の卓に着いた。イングリットは席に着く前に一の卓のほうを振り返って、リコリスを見た。リコリスは扇の陰で、知らん顔をしていた。
札が配られるまでのわずかな間に、透が伊吹の袖を引いて、壁際に寄った。
「伊吹。札が来る前に、これだけ頭に入れておいて。さっきの掟、長かったでしょ」
「長かった。どの札が何点かで頭がいっぱい」
「だと思った」
透は二つの卓を見渡してから、声を落とした。
「これはね、嘘つきの手紙ゲームなんだ」
「手紙?」
「うん。毎回、札を1枚伏せて、紙に何の札を出したかを書く。紙は文字だから、嘘を書いてもいい。月の1しか出してないのに、月の5って書いてもいい。それで一番大きい数を書いた人が3点もらえる」
「じゃあ、みんな5って書けばいいじゃない」
「そう。だから疑いがある。あなたの宣言は真実ですかって聞かれたら、ここは神前だから、この世界の人は嘘で答えられない。嘘を書いた人は二点取られる。でも本当のことを書いてた人を疑ったら、今度は疑ったほうが2点取られる」
透は二本の指を立てた。
「つまりね、これは嘘を書く度胸と、嘘を疑う度胸の勝負なんだ。嘘を書けば勝てる。でも見抜かれたら2点。疑えば取り返せる。でも外したら2点。誰が嘘を書いて、誰が本当のことを書いてるか。それを読み合いながら、8回、全員が少しずつ賭けていく」
伊吹は黙って聞いていた。それから自分の手のひらを見下ろした。
「じゃあ、嘘を書かない人は、疑われても怖くないってことだよね」
「そう」
透は小さく頷いた。
「本当のことを書いた人を疑ったら、疑ったほうが2点払う。伊吹の宣言を疑ったら損をする。まずはそれを、この卓の全員に覚えてもらうところから始めるんだ」
「覚えてもらうって、どうやって」
「それは……」
透は少しだけ言葉を探して、それから伊吹のほうに向き直った。
「伊吹。巡礼の帰り道で、約束できないって言ったよね。次の試練ではちゃんと教えてって言われて」
「……言った」
「全部は、今もできない。でも、できるところまではしたいと思ってる。だから卓のことは話すよ。一巡ずつ、伊吹が出す札と、どうしてその札なのかは全部言う。伊吹が自分で選びたいなら、選んでいい。それ以外のことは、試練が終わってから話す」
伊吹は少し驚いて、透の顔を見た。頂上からの帰り道で約束できないと言ったきり、透はその話に一度も触れなかった。忘れたのだと思っていた。
「……覚えてたんだ」
「忘れないよ。あのとき伊吹、本気で怒ってたから」
瞬きは止まらなかった。終わってから話すことがある。それは今は話せないことがあるということでもあった。それでも透は約束できないと言ったところから、一歩だけこちらへ来たのだ。そう思ったら、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「じゃあ、終わったら。絶対だからね」
「うん。絶対」
卓に戻ろうとしたとき、一の卓の向こう側で、小さな声がした。
「ミル。お願い。卓の上を、ふわふわしてるだけでいいの。みんなの札が見えたら、わたしにだけ光って教えて」
シルヴィだった。肩の上の精霊に、ほとんど唇だけで囁いていた。ミルは返事をするように一度だけ明滅した。けれどその光はいつもより暗くて、シルヴィの肩の上でしばらく動かなかった。
伊吹は眉を寄せた。審判のとき、シルヴィは精霊に寝台を覗かせていた。今度は卓の札を覗かせるつもりなのだ。
「透、あれ」
「うん。聞こえた」
透は表情を変えなかった。神官が卓の前に立って、候補たちを見渡した。
「試練の前に、お伺いいたします。この卓で用いる魔法がおありの方は、ここで申し出てくださいませ」
誰も手を挙げなかった。シルヴィも、少しだけ肩を強張らせただけで、黙っていた。神前でも、その沈黙は咎められなかった。
「精霊は魔法じゃないんだ」
透が伊吹の耳元で言った。
「森の国の人にとって、精霊は友達で、道具じゃない。だから申し出る必要がない。掟の隙間だね」
「止めないの」
「止めない」
「ずるくない? あれ、盗み見だよ」
「ずるいよ。でもあの子にとっては、あれしか戦い方がないんだと思う」
透はミルを見ていた。暗い光のまま、シルヴィの肩で小さく震えている精霊を。
「それに、たぶんあの子が一番苦しくなる」
伊吹はそれ以上聞かなかった。札が配られた。
見習いの神官が卓の上で札を切り、一人に八枚ずつ、伏せたまま滑らせていく。伊吹は神官に言われたとおり、聖印の浮かんだ右手を卓の上に出したまま、左手で札を一枚ずつめくった。
月の五。太陽の四。星の五。月の三。太陽の一。月の一。星の二。それから何も書かれていない白い札が一枚。神意の札だった。
背後から透が身をかがめて、伊吹の手札を覗き込んだ。お供との相談は自由。掟のその九だった。透は八枚を順番に見て、ほんの少しだけ長く、白い札の上で目を止めた。それから小さく頷いた。
「いい手だよ」
「本当に?」
「本当に。特にその白いのは、最後まで大事にしてて」
瞬きは止まらなかった。伊吹は白い札を、手札の一番奥にしまった。
神官が卓の脇の小箱に手を入れて、最初のお題の紋を引こうとした。そのとき向かいの椅子に腰を下ろしかけていたリコリスが、ふと顔を上げた。
伊吹のほうではなかった。伊吹の背後に立つ、透のほうだった。リコリスは扇をゆっくりと開いて、口元を隠した。それから扇の上の目だけで、透に向かって、にっこりと微笑んだ。
伊吹に向けたことは一度もない、甘い笑い方だった。
伊吹の背中が冷えた。振り返ると、透はいつもの穏やかな顔のまま、リコリスの笑みを受け止めていた。少しも驚いていなかった。まるで、そう来ると最初から分かっていたように。




