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負けたら王都が沈むので、嘘の通じない聖女選定を嘘つき幼馴染と頭脳戦で勝ち抜く  作者: 宵星 凪


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第30話 灯の見える目

 どこまでなら、離れていいのか。


 名乗りの儀の晩から、透はそれを少しずつ確かめてきた。伊吹が湯を使っているあいだに館の階段を下りてみたり、中庭の噴水まで歩いてみたり、大聖堂の回廊を一周してみたり。そのたびに急いで戻って、ランタンの火と伊吹の顔色を確かめた。火はかすかに揺れていただけだった。伊吹は何も気づかずに、濡れた髪を拭きながら欠伸をしていた。


 分かったのは思っていたよりずっと遠くまで離れられるということだった。同じ館の中なら、何時間離れていても火は揺れもしない。大聖堂の敷地の中なら、かすかに揺れるだけ。通りをいくつか越えたあたりから火が細りはじめて、街区を一つまたげば、きっとあの晩と同じことになる。王都に来たばかりのころ、伊吹が一人で坂の上の施療院まで行けたのは、まだランタンを授かる前だったからだ。


 だとしたら、あの晩は何だったのか。透が階段を下りて回廊へ曲がっただけで、伊吹は床に崩れ落ちた。回廊は大聖堂の敷地の中だ。あの距離で、あんなふうになるはずがなかった。


 あの晩、部屋にはもう一人いた。窓辺に立って、床に這いつくばる伊吹を見下ろして、薄く笑っていた男が。二人が離れた隙に、あの男が種火を引いたのだ。勝手に動くな、二人を離すな、という見せしめに。透はそう睨んでいた。だから今も、透は伊吹のそばを離れない。怖いのは距離ではなかった。伊吹を一人にした隙に、あの男がまた指を持ち上げることだった。


 施療院の門の外の暗がりで、透は朔と向き合っていた。門の灯籠まで、二十歩ほど。火が揺れることもない距離だった。それでも透はときどき灯籠のほうに目をやって、伊吹がそこにいることを確かめていた。


 伊吹は門の灯籠の下で、腕を組んで待っていた。こちらを見ている。声は届かない距離だった。


「白蓮様から、透殿にお伝えしたいことがあると頼まれております」


 朔は低い声で言った。


「ですがその前に。俺から、透殿にだけお伝えしたいことがあります。白蓮様に麦を分けていただいたご恩の、残りの分です」


「借りなら、もう返してもらったよ。病人の話で」


「あれは白蓮様の分です。これは俺の分です」


 朔は透の目をまっすぐに見た。十五の少年とは思えなかった。朔は寺院の下働きとして、物陰で何年も人の話を拾い集めてきたのだ。


「大神官様は白蓮様と同じ目をお持ちです」


 透の背中がすっと冷えた。


「人の魂に灯る灯を見る目です。白蓮様の目は加護で開きかけたばかりですが、大神官様は生まれつき、それを持っておられる。大聖堂の古い神官たちのあいだでは、昔から知られた話だそうです」


「……それが、どうかしたの?」


「名乗りの儀の日、大神官様はお二人を見て、目を細められました。お二人に灯がないことを、最初から見ておられたのだと思います。それから」


 朔は一度、言葉を切った。


「大神官様は側仕えの神官たちに漏らしておられたそうです。あのルーヴェの娘の胸には、黒い火が見える、と」


 透は息を止めた。黒い火。


 召喚の夜を思い出した。石の礼拝堂。黒い外套の男が指を一本ゆっくりと持ち上げた。伊吹が胸を押さえて床に崩れ落ちた。その火は私の指一本で、いつでもあなたの胸を焼きます。あの男はそう言った。


 大神官にはそれが見えている。


「それ、誰から聞いたの?」


「大聖堂の下働きの爺さんからです。神官たちの部屋の掃除をしている。俺は寺院の下働き育ちなので、同じような身の上の人間とは話が早いんです」


 朔は表情を変えずに言った。


「それと、もう一つ。メルクール商会の者が、ここ数日、ルーヴェの町々を回っています。教会に残る出生の帳面を、片端から調べているそうです」


 透は朔の顔を見た。朔はそれ以上何も言わなかった。言わなくても分かるだろう、と言いたげだった。


 リコリスだ。商会の網で、伊吹の生まれを探っている。ルーヴェのどこの帳面にも、鳴海伊吹という娘の名前はない。あるはずがない。


「ありがとう、朔くん」


「くんは要りません」


 朔は小さく頭を下げた。それから門の灯籠のほうへ振り返った。


「白蓮様を、お連れします。透殿にだけ、お伝えしたいことがあるそうです」


 白蓮は施療院の塀の陰で待っていた。


 朔に手を引かれて透の前まで来ると、閉じた目を透のほうへ向けて、ふわりと微笑んだ。それから灯籠の下の伊吹のほうへ、ほんの少しだけ顔を向けた。


「伊吹様にはまだお聞かせしないほうがよいと思いました。お伝えするかどうかは、透殿がお決めくださいませ」


「どうして、俺に話してくれるんですか?」


「透殿は伊吹様の一番おそばにおられる方ですから」


 白蓮は少しだけ首を傾げた。


「山の上で申し上げましたね。お二人には灯りが視えません、と。あれから、ずっと考えておりました。灯の視えない方の胸に、なぜあのように揺れるものがあるのか。伊吹様の胸の、借りてきたような細い灯のすぐ隣に、もう一つ、冷たいものが揺れているのです」


 透は息を止めた。


「蓮州に、古い言い伝えがございます。寺院の年寄りから、幼いころに聞かされた話です」


 白蓮は静かに語り始めた。


「黒い火は、宿った者の偽りを喰らって育つ」


 透の心臓がどくんと跳ねた。


「黒い火を宿した者が偽りを口にしようとするたびに、火は少しずつ大きくなり、宿った者の胸を内側から焼く。ゆえに、黒い火を宿した者は、やがて偽りを口にできなくなる」


 灯籠の明かりの届かない暗がりで、白蓮は静かに語り続けた。


「そして、黒い火は、その真の名を神前で呼ばれると、宿を離れる。言い伝えはそう結ばれております」


 透は答えられなかった。頭の中で、いくつもの場面が一斉につながった。


 祠の石段で、ネネの痣に軟膏を塗りながら、伊吹は言いかけた。大丈夫、痛く、と。そこで顔をしかめて、言い直した。痛いよね、と。


 告解の間。いいえ、って言って。俺はそう頼んだ。伊吹は口を開いて、胸を押さえて、額から汗を流して、黙った。苦しそうだった。我慢していたのではなかった。


 巡礼の山道。私、門の前でも、嘘つけないから。つけない? つかない、じゃなくて? 伊吹は答えなかった。どっちでもいいでしょ、と顔を背けた。


 嘘をつかないのではない。つけないのだ。


 伊吹が嘘を言いかけるたびに、胸の奥の黒い火が育とうとして、伊吹の胸を焼いていた。伊吹はずっと、それを一人で耐えていた。誰にも言わずに。俺にさえ。


 そして俺は。透は拳を握りしめた。


 告解の間で、俺は伊吹に嘘をつけと言った。声を震わせて頼んだ。伊吹は言いかけて、胸を焼かれて、黙った。俺は自分の手で、伊吹の胸の火に油を注ごうとしていたのだ。何も知らずに。伊吹の一番近くにいたくせに。


「透殿」


 白蓮の声がした。


「灯の視えない方の嘘は、わたくしには分かりません。けれど今、透殿の息が、少しだけ乱れておられます」


「……大事なことを、教えていただきました」


 声がかすれた。透は一度咳払いをして、穏やかな声を作り直した。


「ありがとうございます」


 白蓮は小さく頷いて、朔に手を引かれて夜の道を帰っていった。門の灯籠の下に戻ると、伊吹が腕を組んで待っていた。


「長かったね。何の話だったの」


「白蓮さんの国の、昔話」


 嘘ではなかった。


「昔話?」


「うん。蓮州の、古い言い伝え」


「それだけ?」


 伊吹が透の顔を覗き込んだ。透はいつもの穏やかな顔を作った。


「それだけだよ」


 瞬きが止まった。


 自分でも分かった。伊吹が一瞬だけ、じっと透の目を見た。見られた。伊吹は何も言わなかった。ただふっと目を逸らして、坂のほうへ歩き出した。


「……ふうん」


 それだけだった。


 言えなかった。伊吹が自分から言わないことを、自分の口から暴くことはできなかった。告解の間からずっと、伊吹は胸の痛みを黙っていた。透に心配されたくなくて。弱いと思われたくなくて。それを、透が知ってしまったと知ったら、伊吹はどんな顔をするだろう。


 坂を下る伊吹の背中が少しだけ遠かった。ランタンの火一つ分の距離がまた開いていた。胸の奥が鈍く痛んで、透は黙ってその背中を追いかけた。


 候補の館の部屋に戻ると、伊吹はすぐに寝台に潜り込んで、寝息を立て始めた。


 透は窓辺に立って、夜の大聖堂を見上げていた。尖塔のてっぺんに、大灯の明かりが小さく灯っていた。


 大神官には伊吹の胸の黒い火が見えている。


 敵なのか。それとも味方になりうるのか。分からなかった。灯なき者が選定に関われば、やがて災いとなる。大神官がそう信じているなら、伊吹を選定から外そうとするだろう。外されれば、伊吹は神殿の保護を失う。朔の話では大聖堂の裏手に浄めの塔という古い塔があって、灯の曇った者はそこに閉じ込められるのだという。そしてランタンの火が消えれば、伊吹の胸の黒い火があふれ出す。


 負けても終わる。外されても終わる。逃げ道はどこにもなかった。


 透は窓枠を握りしめた。


 勝ち続ければいい。そう思っていた。伊吹を聖女にすれば、あの男の呪いからも解き放たれる。あの男はそう言った。でもあの男の言葉を、どこまで信じていいのか。あの男は神前を避けて、館の奥に籠もっている。神前で嘘がつけないから、本当のことだけを並べて欺いている。


 聖女になれば、呪いから解放される。それは本当かもしれない。でもそれで黒い火が伊吹の胸から消えるとは、あの男は一度も言っていなかった。


 白蓮の言い伝えが頭の中で繰り返されていた。黒い火はその真の名を神前で呼ばれると、宿を離れる。


 あの男の名はウィレム。宮廷魔導師ウィレム。司祭はそう呼んでいた。でもそれが本当の名前だとは限らない。宿主の名と、宿ったものの名は、違うのかもしれない。


 透は眠る伊吹の横顔を振り返った。


 寝息は穏やかだった。手首の水色の紐が枕元のランタンの火に照らされていた。一つしか灯らない、細い火だった。


 勝つだけじゃ、足りない。透は窓枠から手を離して、静かに息を吐いた。


「……あいつの本当の名前を、突き止めないと」


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