第29話 慈悲の候補
「慈悲の審判の、結果を申し上げます」
神官の声が静まり返った広間に響いた。
「花の数の多い順に。大聖堂のセレスティア殿、八輪。ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿、八輪」
観覧席がどよめいた。伊吹は息を止めた。八輪。セレスティアと、並んだのだ。
「同じ数の場合は手番を多く残された方を上といたします。よって一位はセレスティア殿。灯の雫を一滴、ならびに灯油を三目盛り。二位はナルミイブキ殿。灯油を二目盛り」
二位。伊吹は膝の力が抜けそうになって、壁に手をついた。隣で、透が小さく息を吐くのが聞こえた。
「三位、森の国のシルヴィ殿、七輪。灯油を一目盛り。四位、メルクールのリコリス殿、六輪」
神官は一度言葉を切って、帳面に目を落とした。
「五位、王都のノラ殿、五輪。六位、ヴァルディアのイングリット殿、六輪、ただし黒い石一つにより、四輪」
広間が静まり返った。
「下位のお二方は聖灯を一つ失うものといたします」
ノラとイングリットのランタンの火が、それぞれ一つずつ、ふっと消えた。
イングリットは背筋を伸ばしたまま、消えた火を見下ろしていた。顔は少しも動かなかった。それでも握りしめた拳が白くなっていた。手番の一つを審判への申し立てに使い、もう一つで黒い石を引いた。誇り高い王女が六人の中で一番下になった。
ノラは帽子のつばを指で押し上げて、ランタンを覗き込んだ。それから伊吹のほうを見て、口の端だけで笑った。
「負けないって言ったのにね」
軽い口調だった。でもノラはほんの少しだけ、銅貨を転がす手を止めていた。
神官が帳面を閉じて、広間を見渡した。
「この審判で問われたのは、癒しの力の多寡ではございませぬ。札は文字。文字は何も裁きませぬ。札に書かれていないものを見た方が、この審判の意味に触れた方にございます」
セレスティアがふと顔を上げた。
完璧な微笑みのまま、神官を見つめていた。その唇が小さく動いた。
「神殿の定めが変わることもあるのですね」
誰に言ったのでもない、独り言のような声だった。今朝、寝台の並びが換えられていたことを、セレスティアのお供は知らなかったのだ。去年と同じだと信じていた。信じていたものがほんの少しだけ揺らいだようだった。伊吹は夜会の露台で見たセレスティアの素顔を思い出した。
壁際で、シルヴィが肩の上の小さな光に話しかけていた。
「ミル。精霊に見てもらうのって、ずるかったのかな」
光の玉は困ったように明滅した。リコリスは扇をぱちりと閉じて、誰にともなく言った。
「次は自分の目しか信じないわ」
リコリスは伊吹のほうを見ていた。審判が終わると、寝台の病人たちが施療院の癒し手たちに診られ始めた。
伊吹たちが癒せなかった病人も、一人残らず手当てを受けていった。神官が神前で言ったとおりだった。伊吹はその様子を見届けてから、ようやく広間を出ようとした。
そのとき背後から声がした。
「待ってくれ!」
振り向くと、若い男が駆けてくるところだった。役者の男だった。さっきまで胸に冷たい石を抱えて、芝居をしていた男。今は頬に血の色が戻り、まっすぐに背筋を伸ばして立っていた。もう病人ではない。言葉を交わしても、掟には触れない。
「リュシアンと申します。王都の、しがない旅役者です」
男は伊吹の前で片膝をついた。役者らしい、大げさで、けれど流れるような仕草だった。広間に残っていた人々が何事かと振り返った。
「あなたは俺の命の恩人だ。三年、この胸の病を抱えてきた。どの癒し手も薬代を払えない俺には見向きもしなかった。それを、あなたは何も聞かずに、手を当ててくれた」
「いや、あの、試練だったので」
「試練だろうと何だろうと、俺にとっては奇跡だった」
リュシアンは伊吹の手を取った。伊吹が引っ込める暇もなかった。
「あなたの手が俺の胸に触れたとき、俺は生まれて初めて、本物の光を見た。舞台の燭台なんかじゃない、本物の光を」
ここは施療院の広間だった。神前だった。リュシアンの声は一音も途切れずに響いていた。
「俺はあなたに惚れました」
広間がしんとなった。
次の瞬間残っていた人々が一斉にどよめいた。神前の告白だった。嘘なら声にならない。声になったということは本気だということだった。見習いの修道女たちが顔を赤くして囁き合い、観覧席の貴族が身を乗り出した。
「は?」
伊吹は固まった。顔がかっと熱くなった。
「い、いや、何言ってるんですか。さっき会ったばっかりですよね。しかも言葉も交わしてないし」
「言葉はいらなかった。あなたの手が全部教えてくれた」
「手は何も教えてないです!」
「あなたが痛みを引き受けてくれたとき、あなたの手も震えていた。俺の痛みがあなたの胸に流れ込んでいるのが分かった。それでもあなたは、手を離さなかった。あんな人を、俺は舞台の上でも見たことがない」
リュシアンの目は真剣そのものだった。伊吹は助けを求めて、壁際を振り返った。
透が壁際に立っていた。
透はいつもどおり穏やかだった。腕を組んで、リュシアンと伊吹のやりとりを、少し離れたところから黙って見ていた。目が合うと、透はにこりと笑った。
「よかったね、伊吹」
「よくない!」
伊吹はリュシアンの手を振りほどいて、透のほうへ逃げた。リュシアンは名残惜しそうに立ち上がって、深々と一礼した。
「お返事はいつまでも待ちます。施療院の癒し手の方が、ここで下働きとして雇ってくださるそうなので。また、お目にかかれますように」
リュシアンは舞台の幕引きのように優雅に去っていった。広間にはしばらく、ざわめきが残っていた。
伊吹は透の隣で、顔の熱が引くのを待っていた。
「……何、あの人」
「伊吹のことが好きなんだって」
「聞こえてた」
「神前だから、本気だね」
「分かってる!」
伊吹は透を睨んだ。透は穏やかに笑ったまま、腕を組んで前を向いていた。
「別に、気にしてないけど」
透がぽつりと言った。伊吹は透の顔を見た。
瞬きが一度だけ止まった。
伊吹は何か言おうとして、口を開けて、それから閉じた。顔の熱が引くどころかまた上がってきた。透は前を向いたまま、組んでいた腕をほどいて、また組み直した。それきり、伊吹のほうを一度も見なかった。
宴の支度が始まる前に、伊吹は手を洗おうと、施療院の裏の回廊に出た。
まだ手のひらに、役者の男の胸の冷たさが残っている気がした。井戸のある裏庭へ向かう途中、柱の陰から話し声が聞こえて、伊吹は足を止めた。
「寝台の並びを今朝換えさせたのは、大神官様でございますか」
セレスティアの声だった。伊吹は柱の陰から、そっと覗いた。回廊の先で、セレスティアが白い法衣の老人と向き合っていた。大神官だった。審判のあいだ、観覧席の一番奥に座っていたのだ。
「さて。施療院の方々のご判断かと存じますが」
大神官は穏やかに言った。
「わたくしは、神殿の定めは変わらぬものと教わってまいりました。大神官様から」
セレスティアの声はいつもより少しだけ硬かった。大神官はしばらく黙っていた。それからゆっくりと口を開いた。
「変わらぬと信じていた定めが、一夜で破られることもあるようです」
大神官は回廊の外の、暮れかけた空を見上げた。
「私の故郷は、神前で結んだ誓いが破られた夜に、灯が一つ残らず消えたと聞いております。……いえ、聞いたのではなく、見たのかもしれませぬな。まだ子どもでしたゆえ、どこまでが本当に見たものなのか、もう分からぬのですが」
セレスティアは何も言わなかった。
「あなたには、変わらぬものだけを信じていてほしかったのかもしれませぬ。それが、あなたを苦しめているのでしたら……」
大神官はそこで言葉を切った。セレスティアは深く頭を下げて、足早に回廊の向こうへ去っていった。
伊吹は柱の陰で、息を殺していた。
誓いが破られた夜に、灯が一つ残らず消えた故郷。祠守のおばあさんの昔話と、夜会でイングリットが誇らしげに語った話が、頭の中で重なった。五十年前、灯ごと消えた東の国。大神官はそこの生まれなのだ。
大神官がふと、こちらのほうへ顔を向けた。伊吹は慌てて柱の陰に身を引いた。見られたかどうかは分からなかった。足音はそれきり聞こえず、伊吹がもう一度覗いたときには、回廊には誰もいなかった。
その夕方、施療院の中庭で、小さな宴が開かれた。
癒された病人たちと、その家族たちが、持ち寄った料理を並べた素朴な宴だった。焼いたパンと、豆の煮込みと、果物。誰が言い出したのか分からないうちに、人が集まってきて、気がつくと中庭は笑い声でいっぱいになっていた。
「お姉ちゃん!」
ネネが人混みをかき分けて駆けてきた。その後ろに、貧民街の子どもたちが続いていた。一番後ろに、毛布にくるまった男の子が、背の高い男の子に手を引かれて歩いてきた。トトだった。手を引いているのはチッチだった。
トトは伊吹の前まで来ると、毛布の端を握りしめて、うつむいた。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
「病気じゃなかったのに。寝てるだけで、銀貨くれるって言われて。でもさっき、赤い髪のお姉ちゃんが、手を伸ばしてきたとき、すごく怖かった。おれのせいで、誰かが損するんだって分かって」
「あんたのせいじゃないよ」
伊吹はしゃがんで、トトと目の高さを合わせた。
「寝かせた大人が悪いの。あんたは何も悪くない」
トトは顔を上げて、それからわっと泣き出した。ネネがトトの背中をさすった。チッチは何も言わずに、トトの頭に手を置いていた。それから伊吹のほうを見た。
初めて、まっすぐに目が合った。
チッチは何か言いかけて、口を閉じた。それからほんの小さく、頭を下げた。それだけだった。それだけで、伊吹には十分だった。
中庭のあちこちから、伊吹を呼ぶ声がした。
「慈悲の候補さま!」
「あの荒っぽい癒しの人だ!」
「うちの爺さんを治してくれた人だよ!」
入口の寝台で最後に癒した老人が家族に支えられて立っていた。老人は伊吹を見ると、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、何度も頭を下げた。その隣で、孫らしい娘が泣きながら手を振っていた。
伊吹はどうしていいか分からなかった。胸の奥がくすぐったくて、それなのに少しだけ泣きたいような気持ちだった。
王都に来たばかりのころ、伊吹は男三人を叩きのめした荒くれ者だった。告解の間のあとは荒くれ者なのに慈悲だと笑われた。それが今は慈悲の候補と呼ばれている。
「伊吹」
透が隣に来て、果実水の杯を差し出した。伊吹はそれを受け取って、一口飲んだ。甘かった。
「最後の寝台」
「うん」
「あの、入口のおじいさん。札は三だった。重さ三は偽物が多いって、あんたが言ってた。私があの寝台に向かったとき、止めなかったでしょ。なんで」
透は少しだけ考えてから、穏やかに答えた。
「伊吹の手のほうが、確かだったから」
伊吹は杯を握りしめた。
「俺の目は札の墨と、人の仕草しか見えない。でも伊吹の手は痛みそのものに触れる。最後の最後で、どっちを信じるかって聞かれたら、俺は伊吹の手を信じる」
「……ずるい」
「また?」
「そういうこと言うのが、ずるいの」
伊吹は杯を両手で握ったまま、中庭の灯籠のほうを見た。透は小さく笑った。中庭の灯籠が二人の足元を橙色に照らしていた。
しばらくして、伊吹は杯を卓に置いた。
「水、もらってくる」
透が顔を上げかけたが、伊吹はもう背を向けていた。
施療院の裏手に、薬草畑に面した小さな庭があった。壁一枚隔てただけで、宴のざわめきが遠くなった。井戸の縁に腰を下ろして、伊吹は自分の両手を膝の上に広げた。
指先が細かく震えていた。
審判のあいだは平気だった。病人の痛みを引き受けるたびに、焼けるような熱が胸の奥を通り抜けていったが、終わってしまえば何ともないと思っていた。それなのに宴の途中から、震えが止まらなくなった。杯を持つ手が揺れて、果汁が縁からこぼれそうになった。透に気づかれる前に、出てくるしかなかった。
伊吹の手を信じる、と透は言った。その手がこんなふうに震えているところを、透にだけは見せたくなかった。伊吹は右手の親指の古傷を、人差し指で何度もなぞった。落ち着かないときの、昔からの癖だった。
風を切る音がした。
庭の奥の暗がりで、誰かが剣を振っていた。短く刈った金髪に、月の光が跳ねている。アデーレだった。夜会のときと同じ紺の服で、腰に剣を下げていた。振り下ろして、止めて、また構える。何度振っても剣はきっちり同じ高さで止まった。
アデーレは伊吹に気づくと、剣を下ろした。
「邪魔をしたか」
「いえ、私があとから来たので。……アデーレさん、宴は出ないんですか」
「ああいう場は苦手だ。白蓮は朔とディートリヒに任せてきた」
アデーレは剣を鞘に収めて、伊吹のほうへ歩いてきた。伊吹は慌てて両手を膝の下に隠したが、遅かった。アデーレは一度だけ伊吹の手に目を止めた。
「その親指の傷は、剣でついたものではないな」
「……昔の傷です。弟のことで、ちょっと」
伊吹が言葉を濁すと、アデーレは小さく頷いただけで、それ以上は聞かなかった。それから伊吹の隣に、井戸の縁に腰を下ろした。手の震えのことも、何も言わなかった。
「雪の稜線でも、お前はそうやって胸を押さえていたな。今日の審判でもだ。病人の痛みを引き受けるたびに、お前は胸を押さえていた」
伊吹は息を止めた。
「……見てたんですか」
「観覧席から、ずっとな」
伊吹は膝の上で拳を握った。胸の黒い火のことは言えない。言えばウィレムに知られるかもしれない。けれど、ここで嘘をつくこともできなかった。
「負けられない理由があるんです。私が負けたら、私だけじゃ済まない。……それ以上は、言えません」
声は途切れなかった。
「あいつには言わないでください。透には。あいつ、私が痛がってると、全部自分のせいだって思い込むから」
言ってから、伊吹は自分で少し驚いた。透に見せたくないのは、弱いところを見られるのが嫌だからだと思っていた。本当はそうではないのかもしれなかった。
アデーレは黙って、自分の手のひらを見下ろした。剣だこで硬くなった手だった。
「一人で立てる者ほど、倒れるときは誰にも見せずに倒れる。……私も、そうだった」
伊吹が顔を上げたときには、アデーレはもう立ち上がっていた。
「戻れ。お前のお供がそろそろ探しに来るころだ」
「アデーレさんは」
「もう少し振っていく。灯は消えても、腕は鈍らせたくない」
伊吹は頭を下げて、宴のほうへ戻っていった。手の震えはいつのまにか止まっていた。
*
足音が回廊の角を曲がって消えるまで、アデーレはその背中を見送っていた。
一人で立てる者の隣に立つのが騎士だ。父がそう言ったのはアデーレがまだ剣を握らせてもらえなかった頃だった。あのときは意味が分からなかった。一人で立てるのなら、隣には誰もいらないではないか。
今なら少しだけ分かる気がした。一人で立てる者は倒れそうなときにも一人で立とうとする。だから隣に誰かがいなければならないのだ。
アデーレはもう一度剣を抜いて、構えた。夜気の中で、刃に月が細く映っていた。
*
宴がお開きになりかけたころ、伊吹と透は施療院の門を出た。門の外の暗がりに、誰かが立っていた。
朔だった。白蓮のそばを離れて、たった一人でそこにいた。朔は伊吹にちらりと目をやって、それから透のほうへ一歩踏み出した。
「透殿。少しだけ、お時間をいただけますか」
朔の声はいつもより低かった。
「お一人で」




