第28話 離れる仕草
「待って!」
気づいたときには叫んでいた。
広間じゅうの人が伊吹を見た。リコリスは男の子の額の手前で、ぴたりと手を止めた。扇を握ったまま、リコリスがゆっくりと振り向いた。
「……何よ」
「その子、偽物です。癒しちゃ駄目」
観覧席がざわめいた。候補同士の言葉は自由。掟のその七だった。それでも自分の手番でもないのに、他の候補の手を止める者などいなかった。リコリスの眉がきりりと吊り上がった。
「偽物? ノラがさっき触って、悔しそうに離れていった寝台よ。重さ三の本物を見つけたのに、力が足りなくて癒せなかった。どう見たってそういう顔だったじゃない」
「その顔が嘘なの」
伊吹は寝台の前まで歩いていった。男の子は毛布を顎まで引き上げて、ぎゅっと目をつぶっていた。まつげが小刻みに震えていた。
「この子、私、知ってる。祭りの朝、貧民街の空き地で、ネネと一緒に転げ回って笑ってた。一番大きな声で、すごいって叫んでた子。重さ三の病気の子が、あんなふうに走り回れるわけない」
「祭りの朝って、たった何日か前でしょ。そのあとで病気になったのかもしれないじゃない」
「それに」
伊吹は壁際の透を振り返った。透が小さく頷いた。
「透が言ってた。ノラさんは偽物から離れるときと、本物から離れるときで、手の離し方が違うって」
壁際から、透が穏やかに言葉を継いだ。
「ノラさんは偽物の寝台から離れるとき、必ず手のひらを外套の裾で拭うんです。本物の病人に触れたあとは、拭わない。たぶん、本人も気づいてない癖だと思います。さっきの寝台では、悔しそうな顔をしながら、手のひらを拭ってました」
リコリスは男の子と伊吹と透を、順番に見比べた。それからゆっくりと手を引っ込めた。
「……あなた、どうして教えるのよ」
低い声だった。
「あたしが黒い石を引けば、あなたは一つ上に行けるのよ。敵に塩を送って、何の得があるの」
「得なんか知らない」
伊吹はリコリスを睨み返した。
「この子が偽物の病人やらされてるのが腹立つの。この子の寝台で、誰かが騙されて黒い石を引くのも嫌。それがあなたでも、ほかの誰でも」
リコリスはしばらく黙って伊吹を見ていた。扇の陰で、リコリスが小さく何か呟いた。何を言ったのかは聞こえなかった。それからリコリスは踵を返して、別の寝台へ歩いていった。窓際の、札が二の女の寝台だった。リコリスがそこに手を当てると、淡い光が流れ込んで、女の顔がほころんだ。本物だった。
三巡目が終わって、四巡目の前に短い間が置かれた。伊吹が壁際に戻ろうとすると、目の前に誰かが立ちふさがった。
鼠色の鳥打ち帽。指の上で、銅貨が一枚くるりと回っていた。
「余計なこと、してくれたね」
ノラだった。帽子のつばの下から、まっすぐに伊吹を見上げる気配がした。いつもの、のんびりした声ではなかった。
「あんたのお供、ほんとに嫌な目してるね。手のひら拭う癖なんて、あたしだって気づいてなかったのに」
「あの子を、使ったの」
伊吹は低い声で言った。
「トト、っていうんでしょ。ネネの友達の。あの子を偽物の病人にして、悔しそうな顔で離れて、誰かに黒い石を引かせようとした。あんたも貧民街の子でしょ。あの子たちのこと、ノラ姉ちゃんって呼んでた。なのに」
「使ってないよ」
ノラの声が尖った。
「あの子をあそこに寝かせたのは、あたしじゃない。ボルクだよ。口入れ屋のボルク。偽の病人を集めてこいって誰かに頼まれて、貧民街の子を何人か売り飛ばした。銀貨一枚で。トトの家はボルクに借りがあるから、断れなかった」
伊吹の背筋が冷えた。ボルク。灯実当ての台。ネネの手首の火傷。
「あたしはあそこにトトが寝かされてるのを見つけただけ。だったら、利用させてもらう。それの何が悪いの。あの子が黒い石の種になるなら、せめてあたしの得になってもらう。あたしは勝たなきゃいけないの。どんな手を使っても」
「なんで」
「あの子たちを、自由にするためだよ」
ノラは銅貨を握りしめた。指の関節が白くなっていた。
「貧民街の子はね、皆、借金の形に誓いを立てさせられてるの。親の借り、薬代、家賃。払えなきゃ、子どもが神前で奉公の誓いを立てる。ボルクみたいな口入れ屋に、借りを返すまで、とか、もういいと言うまで、とか。ネネだけじゃない。トトも、あの子たちも、皆そう」
ノラの声がかすかに震えた。
「誓いを解けるのは、誓いを受けた相手か、聖女だけ。ボルクたちは絶対にもういいなんて言わない。だったら、あたしが聖女になって、全部解いてやる。そのために、あたしはここにいるの。それを邪魔するなら、あんたが誰だろうと関係ない」
伊吹は言葉を失った。
ネネの手首の、重なった火傷の痕を思い出した。祠守のおばあさんの声を思い出した。ボルクがもういいと言うまで、だよ。あの子は一生あのままだ。
ネネだけではなかったのだ。
「……私も、同じこと考えてた」
伊吹はやっとのことで言った。
「ネネの誓いを、いつか破らせるって。あの子の寝る場所を用意できるようになったら、その日に必ずって。祠の灯明の前で、決めた」
ノラが帽子のつばの下で目を見開いた。
「でもだからって、トトを黒い石の種にしていいことにはならない。あの子だって、ネネと同じでしょ。誓いを解いてあげたい子を、自分で踏み台にして、それで勝って、何になるの」
ノラは何も言い返さなかった。唇を噛んで、伊吹から目を逸らした。指の上の銅貨が止まっていた。
「……あの腕組んでた、背の高い子」
しばらくしてノラがぽつりと言った。
「あたしのお供。祭りの朝も、出発の朝も、輪の外に立ってたでしょ。あれ、チッチっていうの。ネネの兄貴」
「お兄さん?」
「うん。あの子自身は誓いに縛られてないけど、妹がああだからね。だから、あたしのお供に名乗り出たの。妹があんたにべったり懐いてるのが、気に入らないんだって。でもあんたがネネの手首に薬を塗ったこと、ずっと覚えてる。妹の手首を見て、初めて泣きそうな顔してたって、ネネが言ってた」
伊吹は何も言えなかった。腕を組んで、輪の外から、ずっとこちらを見ていた背の高い男の子。近づいてこないくせに、立ち去りもしなかった。あの子がどんな気持ちで妹を見ていたのか。そう思うと、胸の奥がじんと痛んだ。
ノラは銅貨を指で弾いて、宙に飛ばした。受け止めたときにはもう手の中から消えていた。
「負けないからね、イブキ」
それだけ言って、ノラは壁際に戻っていった。
四巡目が始まった。最後の手番だった。
セレスティアは寝台の前に立たなかった。癒しの力をすでに使い切っていたらしい。神官に一礼して、手番を一つ残したまま、静かに壁際に下がった。それだけで、観覧席がどよめいた。手番を余らせるほど、正確に力を使い切ったのだ。
イングリットは慎重に札一の寝台を選んで癒した。
ノラは二巡目に触れて退屈そうに離れた寝台へ、まっすぐに向かった。札には重さ二。手を当てると、淡い光が流れ込んで、病人の女が小さく息をついた。本物だった。
「やっぱり」
壁際で、透が呟いた。
「二巡目のとき、ノラさんはあの寝台で手のひらを拭わなかった。退屈そうな顔をして、本物から離れて、あとで自分で癒すために取っておいたんだ」
伊吹の番が来た。
残りの力は二つ。花は六輪。
伊吹は寝台の列を見渡した。もう、ほとんどの寝台が埋まっていた。癒された病人たちが穏やかな寝息を立てている。残っている寝台はシルヴィが一度も見ようとしなかった偽物の寝台と、重さ三の札がいくつか。重さ三の本物なら、力が二では足りない。偽物なら、黒い石。どちらを引いても、花は増えないどころか、減る。
伊吹の背中を、冷たい汗が伝った。
他の候補の花の数は伊吹には分からなかった。セレスティアは手番を残すほど順調だった。シルヴィも迷いなく癒していた。リコリスも、ノラも、最後に本物を拾った。自分の六輪が下の二人に入らないとは、どこにも書いていなかった。
「透」
振り向かずに、小声で呼んだ。
「どこ」
「分からない」
透の声も低かった。
「残ってる寝台の札は、どれも当てにならない。シルヴィさんが避けた寝台は、たぶん全部偽物。でも重さ三の札の中に、本当は二の人がいるかもしれない。最初の、札が一なのに三だった人みたいに」
「手で確かめるしかないってこと」
「うん。でも確かめられるのは一回だけ」
伊吹は唇を噛んだ。
一回だけ。触って、違ったら、離れればいい。力は減らない。でもそれで手番は終わる。花は六輪のまま。
伊吹は寝台の列をもう一度見渡した。札ではなく、病人の顔を見た。最初の日に、透に言われたとおりに。顔色と、息の仕方と、汗のかき方。
入口に一番近い寝台で、目が止まった。
老人だった。審判が始まる前、伊吹が「今は痛いんでしょ」と神官に食ってかかったとき、浅い息をしながら天井をじっと見つめていた、あの老人。札には重さ三。審判のあいだ、誰も手を当てなかった。重さ三は偽物が多いと、透が皆の前で言ったからだ。
老人の額にはまだ汗が浮いていた。審判が始まってからずっと、同じように浅い息をしていた。
伊吹は老人の寝台の前に立った。
手を伸ばしかけて、一瞬だけ止めた。重さ三なら、力が足りない。偽物なら、黒い石。本当に二なら、花が二輪増える。三つに一つ。
伊吹は息を吸って、老人の胸に手を当てた。流れ込んできた。
鈍い痛みだった。焼けるような熱でも、冷たい石でもない。長く重たい荷を背負い続けてきた肩のような、ずしりとした痛み。深い。でも底がある。あの役者の男の痛みより、少しだけ浅い。
手首の水色の紐が熱を帯びた。
「……二」
伊吹は呟いた。分かった。理屈ではなく、手のひらで分かった。この人の痛みは二だ。
水色の光がばちばちと弾けながら老人の胸に流れ込んでいった。老人は目を閉じたまま、小さく呻いた。伊吹は手を離さなかった。痛みが伊吹の胸を通り抜けて、少しずつ抜けていった。
光が沈むと、老人はゆっくりと目を開けた。皺だらけの顔に、穏やかな色が戻っていた。老人は伊吹を見上げて、震える手で、伊吹の手の甲をそっと撫でた。かさついた手のひらが温かくて、伊吹は目の奥がじわりと熱くなった。
神官が札を確かめた。
「用いた力は二。この方の本当の重さは、二にございました」
伊吹の前に、白い花が二輪置かれた。
八輪。力は一つ残らず使い切った。
伊吹はその場に膝をつきそうになって、寝台の縁につかまった。壁際を振り返ると、透が壁に背中を預けたまま、大きく息を吐いていた。
リコリスとシルヴィの最後の手番が終わった。
広間の正面に、神官が進み出た。手には花と黒い石の数を書きとめた帳面があった。観覧席が静まり返った。候補たちが壁際から一斉に神官を見つめた。
伊吹は手首の水色の紐を握りしめた。
「慈悲の審判の、結果を申し上げます」




