第27話 役者
窓際の男から、伊吹は目を離せなかった。
大げさに身をよじり、胸を押さえ、ときどき芝居がかった呻き声を上げる。透の言うとおりだった。あれは演技だ。誰かが寝台の前を通るたびに、ちょうどいい間で声を上げている。それなのに呻き声の合間のほんの一瞬だけ、男の顔から芝居が消える。その一瞬だけ、男は本当に歯を食いしばっていた。額の細かい汗は少しも引いていなかった。
2巡目の残りの手番が進んでいった。
イングリットは窓際の寝台を選んだ。札には重さ2。病人の若い女はぐったりと目を閉じていた。イングリットは迷わず手を当てて、癒しの光を流し込んだ。
光はどこにも届かなかった。
イングリットの手のひらから流れ出た光は、女の体の上で行き場をなくしたように揺らめいて、そのまま空中に溶けて消えた。女は目を開けて、何事もなかったように瞬きをした。
「偽りの病人にございます」
神官の声が広間に響いた。イングリットの前に、黒い石が1つ置かれた。
イングリットはその石をじっと見下ろしていた。背筋は伸びたままだった。それでも握りしめた拳が小さく震えていた。手番を1つ申し立てで失い、残りの1つで黒い石を引いた。誇り高い王女は顔を真っ白にしていた。
「ひどい」
伊吹が呟くと、透が首を横に振った。
「殿下は去年の並びを読んでたんだと思う。窓際には本物が多い、って。でも今年は並びが換えられてる」
「知ってたなら、言ってあげれば」
「俺が言えるのは伊吹にだけだよ。それに昨日、皆の前で話した。偽物は重さ3に多かったらしい、って。それを聞いて、重さ3を避けて2を選んだんだと思う」
伊吹は透の顔を見た。透は穏やかな顔のまま、イングリットの背中を見ていた。
「あんた、それ、わざと」
「本当のことを言っただけだよ」
ノラの言葉を思い出した。本当のことしか言ってないのに、嫌な言い方するね。伊吹は唇を噛んで、何も言わなかった。言えば、きっと喧嘩になる。今は喧嘩をしている場合ではなかった。
3巡目に入った。
セレスティアは今度も滑らかに癒しを終えた。イングリットは2度目の黒い石を引かないよう、慎重に重さ一の寝台を選んで癒した。
ノラの番が来た。
ノラは鳥打ち帽を目深にかぶったまま、寝台の列をぶらぶらと歩いた。指の上で銅貨を転がしながら、まるで市場で品定めでもするように、一つずつ寝台を覗き込んでいく。やがて内側の列の端の寝台の前で足を止めた。
小さな男の子が寝ていた。ネネと同じくらいの歳だった。札には重さ3。男の子は毛布を顎まで引き上げて、ぎゅっと目をつぶっていた。
ノラは男の子の額に手を当てた。しばらく、そのまま動かなかった。それからふっと手を離して、小さく舌打ちした。悔しそうだった。重さ3の本物なのに、残りの力が足りない。そう言いたげだった。ノラは肩をすくめて、寝台から離れた。
「離れます」
ノラはぶらぶらと壁際に戻っていった。伊吹とすれ違うとき、ほんの一瞬だけ、帽子のつばの下でノラが笑ったような気がした。
伊吹の番が来た。伊吹は迷わず、窓際の男の寝台へ向かった。
「伊吹」
透の声が背中に飛んできた。伊吹は振り向かずに言った。
「分かってる。演技してるんでしょ。でもあの人、痛がってる」
「両方、正しいと思う」
伊吹は足を止めた。
「演技はしてる。でも演技の下で、本当に痛がってる。額の汗は芝居じゃ出せない。あの人は偽の病人を演じながら、本物の病気を隠してるんだ」
「なんで、そんなこと」
「分からない。でも確かめる価値はある」
伊吹は男の寝台の前に立った。
近くで見ると、男は思っていたより若かった。二十を少し過ぎたくらいだろうか。整った顔立ちで、役者のように目鼻立ちがはっきりしている。札には重さ3。男は伊吹が近づいてくるのを見ると、大げさな呻き声をぴたりと止めた。
伊吹は男の胸に手を伸ばした。男が身をよじった。
伊吹の手から逃げるように、寝台の上で体を反対側へひねる。両腕で胸を抱え込んで、伊吹を睨みつけた。触るなと言いたいのだと分かった。声には出さない。出せば、言葉を交わしたことになる。それを男も知っているのだ。
「ちょっと」
伊吹は思わず声を上げかけて、慌てて口をつぐんだ。病人と言葉を交わしてはならない。こちらから話しかけることもできない。
伊吹はもう一度、手を伸ばした。男はまた身をよじった。額の汗が枕の上に落ちた。痛いのだ。こんなに痛いのに、この人は、治されるのを拒んでいる。
なんで。
伊吹の胸の奥で、何かがかっと熱くなった。痛いなら、治されればいい。痛がっている人を前にして、手を伸ばして、その手を振り払われる。そんなことがあっていいはずがなかった。
でも何も言えなかった。掟がある以上、声をかけることもできない。手も届かない。伊吹は拳を握りしめて、寝台の前に立ち尽くした。
そのとき壁際から声がした。
「あなたの雇い主は」
透だった。
壁際に立ったまま、穏やかな声で、まっすぐに男に向かって話しかけていた。お供は壁際から見守る。掟はそう定めているだけだった。お供が病人と話してはならないとは、どこにも書かれていない。
「あなたの雇い主は、もうあなたを見捨てましたよ」
広間が静まり返った。神前だった。この世界の人間は神前で嘘を口にできない。だから誰も疑わなかった。
男の目が見開かれた。男は伊吹ではなく、壁際の透のほうへ顔を向けた。お供になら、言葉を返してもいい。
「……そんなはず、ない」
かすれた声だった。
「報酬は、審判が終わったら払うって。最後まで、偽物で通せば」
「あなたは、薬代のためにこの仕事を受けたんでしょう」
透は静かに言った。
「でも、その胸の痛みは、もう薬で追いつくものじゃない。見ていれば分かります。息を吸うたびに、肩が止まってる」
「……報酬が出なきゃ、薬も買えない」
「報酬はもう出ません」
透の声は穏やかなままだった。
「だったら、ここで治してもらったほうがいい。あなたの前に立ってる人の手は、本物の痛みにしか反応しない。さっき、札が1の人を治したのを見たでしょう」
男は伊吹を見た。伊吹は何も言えなかった。言えない代わりに、まっすぐに男の目を見返した。
「……本当に、治るのか」
男が透に向かって呟いた。
「治ります」
透は迷わずに答えた。
男の顔がくしゃりと歪んだ。胸を抱え込んでいた腕から、ゆっくりと力が抜けていった。男は寝台の上で背中を丸めて、それから、小さく頷いた。今度は伊吹から逃げなかった。
伊吹は男の胸に手を当てた。流れ込んできたのは重たい痛みだった。
さっきの男とは違った。焼けるような熱ではない。胸の奥に、冷たい石が詰まっているような痛みだった。息を吸うたびに、肺の中で何かがきしむ。長いあいだ、ずっとそこにあった痛みだった。何日も、何か月も、この人はこの痛みを抱えて、誰にも言わずに、芝居をしていたのだ。
手首の水色の紐が熱を帯びた。聖印が光った。水色の光がばちばちと弾けながら、男の胸の奥へ流れ込んでいった。
男は悲鳴を上げなかった。歯を食いしばって、伊吹の手首を両手で握りしめた。痛かったはずだった。それでも男は伊吹の手を振り払わなかった。逆に、すがりつくように握りしめていた。
光が沈んでいった。
冷たい石がゆっくりと溶けていった。伊吹の胸から重たいものが抜けていくのと一緒に、男の呼吸がだんだんと深くなっていった。きしむ音が消えた。
伊吹が手を離すと、男は寝台の上で大きく息を吸った。何度も、何度も。そのたびに、胸がまっすぐに上下していた。男は自分の胸に手を当てて、信じられないように伊吹を見上げていた。
神官が近づいてきて、札を確かめた。
「用いた力は3。この方の本当の重さは、3にございました」
観覧席がどよめいた。偽の病人だと思われていた男が本物だった。伊吹の前に、白い花が三輪置かれた。
伊吹は男の顔を見た。男は泣いていた。声を出さずに、ただ涙だけを流して、伊吹に向かって何度も頭を下げていた。言葉を交わせない代わりに、何度も。伊吹は喉の奥が熱くなって、小さく頷き返すことしかできなかった。
壁際に戻ると、伊吹は透の前で足を止めた。
「透」
「うん」
「さっきの。雇い主に見捨てられたって」
伊吹は声を落とした。周りに聞こえないように。
「本当なの」
透は少しだけ黙った。それから伊吹にしか聞こえない声で言った。
「嘘だよ」
伊吹は息を呑んだ。
神前で。広間じゅうの人が本当のことだと信じた言葉が。透の瞬きが止まったかどうか、見ていなかった。見る余裕がなかった。
「なんで、そんな」
「あの人、報酬が出るまでは偽物で通すつもりだった。治されたら仕事にならないから、伊吹に触らせなかった。だったら、報酬はもう出ないと思ってもらえばいい。そうすれば、隠す理由がなくなる」
透は穏やかに続けた。
「治ります、も本当は分からなかった。でも、伊吹の手なら治せると思った。それだけだよ」
「それだけって」
伊吹の声が震えた。
「あんた、神前で嘘ついたのよ。この世界の人は誰も嘘がつけない場所で。皆、あんたの言葉を本当だと思って聞いてた。あの人も本当に見捨てられたって信じて、泣きそうな顔してた」
「うん」
「それで、あの人、治った」
伊吹は言葉に詰まった。
怒りたかった。嘘が嫌いだった。父の嘘で、家族が壊れた。だから自分は絶対に嘘をつかないと決めた。透が嘘をつくたびに、胸の奥がざらついた。それなのに今、あの人は治っていた。透の嘘がなければ、あの人は今もまだ、胸に冷たい石を抱えたまま、芝居を続けていた。
「……そういうの」
伊吹は言いかけて、唇を噛んだ。怒りたいのに、怒る場所がどこにもなかった。
「そういうの、怒れないじゃない」
「怒っていいよ」
「怒れないって言ってるでしょ!」
思わず声が大きくなった。壁際の神官がちらりとこちらを見た。伊吹は慌てて口を押さえた。透は何も言わなかった。ただ少しだけ困ったように笑っていた。
伊吹は透から目を逸らして、寝台の列に目をやった。リコリスの番だった。
リコリスは扇を手に、寝台の列をゆっくりと歩いていた。一つずつ寝台を覗き込んで、札と病人の顔を見比べている。花はまだ伸び悩んでいるはずだった。焦っているのが足取りで分かった。
リコリスが足を止めたのは内側の列の端の寝台だった。
さっき、ノラが額に手を当てて、悔しそうに離れていった寝台だった。札には重さ3。毛布を顎まで引き上げて、ぎゅっと目をつぶっている男の子。
伊吹はその男の子の顔を見た。心臓がどくんと跳ねた。
見覚えがあった。祭りの朝、貧民街の空き地で、透の話に転げ回って笑っていた子どもたちの中に、この子がいた。ネネの隣で、一番大きな声で「すごい!」と叫んでいた。
リコリスが男の子の額に向かって、ゆっくりと手を伸ばしていった。




