第26話 痛みを汲む手
最初の手番はセレスティアだった。
白い衣の本命候補は広間の真ん中をまっすぐに歩いていった。迷いのない足取りだった。後ろではお供の若い神官ヨアンが壁際から主の背中を見守っている。セレスティアは内側の列の寝台を一つ選ぶと、懐から小さな硝子の小瓶を取り出した。
関所の巡礼で一位の褒美に授かった、灯の雫だった。
セレスティアは小瓶の栓を抜いて、金色の雫を一滴、寝台の枕元の札に垂らした。札がほのかに光った。墨の字がまるで水に溶けるようにじわりと滲んで、別の形に変わっていくのが、伊吹のいるところからでも見えた。
「灯の雫は偽りの文字を灯にさらします」
観覧席の神官の誰かが感心したように呟いた。
セレスティアは光る札をしばらく見つめてから、寝台の病人に手を当てた。白い指先から、淡い光が病人の胸へ流れ込んでいった。病人の顔から、苦しげな色がすっと消えた。静かで、清らかで、少しの乱れもない癒しだった。観覧席から、感心したような拍手が起こった。
「お見事」
「さすがは本命」
セレスティアは完璧な微笑みのまま一礼して、壁際に戻っていった。二番目はイングリットだった。
イングリットは寝台の列の前に立つと、しばらく目を閉じて動かなかった。それからゆっくりと目を開けて、広間の正面の神官のほうへ向き直った。
「申し上げます」
広間が静まった。
「この審判には傾きがございますわ。一枚や二枚の札ではありません。審判そのものがどこか大きく傾いております。わたくしにはそれが感じ取れますの。誰かがこの審判の上に手を加えておりますわ」
観覧席がざわめいた。神官はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「はい。見抜くことも試練でございます」
それだけだった。イングリットは何か言い返そうとして、口をつぐんだ。神官は手元の帳面に何かを書きつけた。
「イングリット殿は、手番を審判への申し立てに用いられました。この手番はそれにて終わりといたします」
イングリットの顔から、さっと血の気が引いた。四度しかない手番の一つを、寝台に触れもせずに失ったのだ。それでもイングリットは背筋を伸ばしたまま、黙って壁際に下がった。唇を、白くなるほど噛みしめていた。
三番目のノラは窓際の寝台に手を当てて、あっさりと癒して戻ってきた。帽子のつばの下の顔は相変わらず思い出せなかった。
そして伊吹の番が来た。
伊吹は寝台の列の前に立った。心臓がうるさいほど鳴っていた。壁際に目をやると、透がこちらを見ていた。
「伊吹。どの寝台にする?」
手番の合間なら、お供と話していい。掟のその9だった。伊吹は振り向かずに答えた。
「さっきの、札が1の人」
内側の列の真ん中。札には重さ1と書かれているのに、脂汗を浮かべて、紫色の唇で震えていた男。
「理由は?」
「痛そうだったから」
透は少しだけ黙った。それから静かに言った。
「あの札、墨が新しい。今朝書き換えられた札の一枚だよ。札の数字はたぶん当てにならない」
「だったら、なおさら」
伊吹はそれ以上何も言わずに、男の寝台の前に立った。
近くで見ると、男はもっとひどかった。額の汗が枕を濡らし、毛布を握る指の関節が白く浮いている。目は固く閉じられていて、歯を食いしばっているのが顎の動きで分かった。声を出すまいとしているのだ。病人と言葉を交わしてはならない。それは候補への掟だった。でもこの男は自分から声を上げることすら我慢していた。
伊吹は息を吸って、男の胸に手を当てた。次の瞬間何かが流れ込んできた。
熱かった。焼けた鉄の塊を胸に押しつけられたような熱さが、手のひらから腕を伝って、伊吹の胸に雪崩れ込んできた。息ができなかった。肋骨の内側を、誰かが爪で引っかき回しているような痛みだった。伊吹は歯を食いしばって、膝を折りかけた。
痛い。
これはこの人の痛みだ。この人がずっと黙って耐えていた痛みだ。
手首の水色の紐が熱を帯びた。手の甲の聖印が光った。九枚の花弁の真ん中で、二つの炎が激しく揺れている。そこから、水色の光が噴き出した。光は伊吹の手のひらから男の胸へと流れ込み、ばちばちと音を立てて弾けた。
男が悲鳴を上げた。
広間じゅうに響く、大きな叫びだった。観覧席の貴族たちが腰を浮かせた。神官が駆け寄りかけた。伊吹は手を離さなかった。離したら、途中で止まる。止まったら、この人の痛みが半分残る。
ごめん。もうちょっとだから。声には出さずに、伊吹は胸の中で言った。病人と言葉を交わしてはならない。それでも伝わればいいと思った。
伊吹は奥歯を噛みしめて、もう一度、手のひらに力を込めた。水色の光が男の胸の奥へと一気に沈んでいった。
熱が引いていった。
焼けるような痛みが少しずつ、伊吹の胸から抜けていった。最後に一度だけ、胸の奥がずきりと痛んで、それきり消えた。伊吹は男の胸から手を離して、寝台の縁に手をついた。膝が震えていた。額から汗が一粒、床に落ちた。
男が目を開けていた。
さっきまで紫色だった唇に、血の色が戻っていた。脂汗はまだ額に残っていたけれど、毛布を握る指からは力が抜けていた。男は信じられないものを見るように、伊吹の顔を見上げていた。そして何も言わずに、ぽろぽろと涙をこぼした。
広間がざわめいていた。
「今の、何だ」
「あんな癒し、見たことがない」
「乱暴な」
「でも治っているぞ。あの男、笑っている」
神官が男の寝台に近づいて、札を確かめた。それから伊吹のほうを見た。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿。用いた力は3。この方の本当の重さは、3にございました」
札には1と書かれていた。
観覧席がさらに大きくざわめいた。神官は伊吹の前に、小さな白い花を三輪置いた。伊吹はそれを、ぼんやりと見下ろしていた。花よりも手のひらに残る熱のほうが、ずっと重かった。
壁際に戻ると、透が待っていた。
「伊吹。大丈夫?」
「……まだ、ちょっと痛い。でもすぐ消える」
伊吹は正直に言った。この世界に来てから、平気だと言いかけて胸を焼かれたことが何度かあった。だからもう、最初から言わないことにしていた。
「あれが慈悲の加護なんだと思う」
透は伊吹の手を見下ろしていた。
「人の痛みを汲み取って、自分の身に引き受けて、それで治す。告解の間で開いた加護の芽が、今、本当に開いたんだ」
「荒っぽいって、言いたいんでしょ」
「言いたいけど、言わない」
「言ってるじゃない」
伊吹は透を睨んだ。透は少しだけ笑った。それから真面目な顔に戻った。
「でも伊吹の手は正しかった。札は1だった。でも伊吹の手は3だと分かってた。墨が新しいって俺が気づいたことと、痛そうだって伊吹が気づいたことが、同じ寝台を指してたんだ」
伊吹は自分の手のひらを見た。まだ、かすかに熱を帯びていた。
リコリスとシルヴィの手番が終わって、2巡目が回ってきた。シルヴィの癒し方は奇妙だった。
寝台の列を歩くシルヴィの足取りには、少しの迷いもなかった。手当てする寝台を選ぶとき、ほかの候補は札を見て、病人の顔を見て、しばらく考える。シルヴィは違った。いくつかの寝台の前を、まるでそこに何もないかのように素通りしていった。一度も足を止めずに、まっすぐ目当ての寝台へ向かっていく。
壁際で、透がそれをじっと見ていた。
「シルヴィさん、避けてる」
「何を」
「寝台を。窓際の3つと、内側の2つ。一度も見ようとしない。迷わないってことは、知ってるんだ。どの寝台が偽物か」
「精霊?」
「たぶんね。昨日の夜、ミルに覗かせたんだと思う」
2巡目の伊吹の手番が来た。
伊吹は迷わず、ある寝台へ向かった。昨日、札と様子が合わないと思った、もう一つの寝台。札には重さ3と書かれているのに、穏やかな寝息を立てていた女。シルヴィが一度も見ようとしなかった寝台の一つだった。
伊吹は女の手首に、そっと指を当てた。何も流れ込んでこなかった。
熱も、痛みも、震えも、何一つ。伊吹の手のひらにはただ人の肌の温かさがあるだけだった。さっきの男の胸に触れたときとはまるで違った。
伊吹は手を離した。
「離れます」
神官が頷いた。力は一つも使わなかった。花も、黒い石も、何も増えなかった。でも伊吹は分かっていた。この女はどこも痛くない。病人ではない。
壁際に戻ると、透が小さく頷いた。
「シルヴィさんが避けた寝台と、伊吹の手が何も感じなかった寝台が、一つ重なった」
「つまり」
「シルヴィさんの避けた寝台は、たぶん全部偽物だ。伊吹が一つ確かめたから、残りもほぼ確かになった。偽物の地図が半分くらいできたよ」
伊吹は寝台の列を見渡した。
札だけを見ていたときはどれも同じに見えた。今は違った。どこが本物で、どこが偽物か。手のひらに残った感触と、透が見つけたことと、シルヴィの足取りを合わせると、少しずつ全体が見えてきた。
そのとき伊吹は窓際の一つの寝台に目を止めた。
若い男だった。整った顔立ちで、寝台の上で大げさに身をよじって、苦しそうに胸を押さえていた。札には重さ3。顔をしかめて、ときどき大きく呻き声を上げている。観覧席の誰かが気の毒そうにその男を見ていた。
「あの人、痛そう」
伊吹が言うと、透が首を横に振った。
「演技してる」
「え」
「呻き声の間が決まりすぎてる。誰かが寝台の前を通るたびに、ちょうどいい間で声を上げてる。顔のしかめ方も舞台の役者みたいに大きい。シルヴィさんもあの寝台は避けてた」
伊吹はもう一度、男を見た。
確かに、大げさだった。呻き声も、身のよじり方も、どこか芝居じみていた。それなのに伊吹の胸の奥がざわついた。さっき、札が一の男に触れたときと同じざわつきだった。
「でも」
伊吹は男から目を離せなかった。
「あの人の額の汗。本物だよ」
透が伊吹の視線の先を追った。男の額に、細かい汗がびっしりと浮いていた。大げさな呻き声の合間に、ほんの一瞬だけ、男の顔から芝居が消える。その一瞬だけ、男は本当に、歯を食いしばっていた。
痛みのない病人がいた。そして痛みを隠している、偽の病人がいた。




