第25話 二十四の寝台
夜会の翌日、候補たちは大聖堂の中庭に集められた。
慈悲の審判は明朝、王都の施療院で執り行う。神官がそれだけを告げて、詳しい掟は当日に明かすと言い残して去っていった。中庭には六人の候補とそのお供が取り残された。誰も何も言わず、噴水の水音だけが聞こえていた。
「施療院、ね」
リコリスが扇を揺らしながら、誰にともなく言った。
「病人を治せってことかしら。慈悲の審判なんて、いかにも神殿が好きそうな名前」
「治すだけなら、試練にならないでしょう」
イングリットが静かに言った。
「何か仕掛けがあるはずですわ。神殿の試練はいつもそうですもの」
候補たちは互いの顔を窺い合った。誰も何も知らないふりをしていた。たぶん、全員が何かを知っていて、全員が黙っていた。
そのとき伊吹の隣で透が口を開いた。
「そういえば、去年の審判の話を少しだけ聞きました」
中庭が一瞬で静まり返った。六人の候補と六人のお供が一斉に透を見た。透はいつもどおり穏やかに、噴水の縁に腰かけたまま続けた。
「施療院の寝台に、偽の病人が混じっていたそうです。それで、偽の病人は、重さ3の札の寝台に多かったらしいですよ」
誰も何も言わなかった。ただ何人かの候補のお供が主の耳元で何かを囁き始めた。リコリスの会計士が帳面に何かを書き込んでいた。
伊吹は透の袖を引いた。
「ちょっと。なんで皆の前で言うの、そんなこと」
「本当のことだから」
「本当なら、なおさら黙っとけばいいでしょ」
透は答えずに、少しだけ笑った。伊吹が問い詰めようとしたとき、噴水の向こうから声がした。
「あんた」
ノラだった。鼠色の鳥打ち帽を目深にかぶって、指の上で銅貨を転がしている。ノラは帽子のつばの下から、じっと透を見ていた。
「本当のことしか言ってないのに、嫌な言い方するね」
ノラはそれだけ言うと、銅貨を指で弾いて、どこかへ歩いていった。透は何も答えなかった。伊吹は二人を見比べて、眉を寄せた。何が嫌な言い方なのか、伊吹にはさっぱり分からなかった。
翌朝、伊吹は坂の上の白い石の建物の前に立っていた。
見覚えのある建物だった。王都に来て最初の日、ネネの手首に塗る薬をもらいに来た施療院だった。あのとき軟膏をくれた少女がセレスティアだった。今思えば、あれが最初の出会いだったのだ。
扉をくぐると、薬草を煮る匂いがした。
長い広間に、寝台がずらりと並んでいた。数えると、二24。窓際に12、内側に12。どの寝台にも病人が一人ずつ横たわっていて、その枕元に小さな木札が下がっている。広間の奥の一段高いところには観覧の席が設けられていて、神官や貴族たちが並んでいた。見届け人のアデーレと白蓮の姿も、その端に見えた。
透は広間に入るなり、寝台の札を一つずつ眺め始めていた。
近づいて覗き込むと、札には病の名前と、1から3までの数字が書かれていた。伊吹には字が読めない。数字の形だけは透に教わって分かるようになっていた。
「透、何見てるの」
「墨」
「墨?」
「札の墨。ほとんどは古くて、少し色が褪せてる。でも何枚かだけ、墨がまだ新しい。乾ききってなくて、光ってる」
透は伊吹の耳元に顔を寄せて、声を落とした。
「たぶん、今朝のうちに札を書き換えたか、寝台の並びを入れ替えたんだと思う。去年と同じ並びだと思ってる人がいたら、その読みは半分くらい狂う」
「去年って、あんたが昨日言ってた」
「うん」
透は穏やかに頷いた。それから少しだけ真剣な目になった。
「伊吹。今日は札に書いてあることを信じないで。俺の言うこともほかの誰かの言うことも、全部。伊吹の手で確かめたことだけを信じて」
「手で?」
「たぶん、それが一番確かだから」
伊吹は自分の手を見下ろした。手首の水色の紐が少しだけほつれていた。
神官が広間の中央に進み出て、巻物を広げた。
「これより、第三の試練、慈悲の審判の掟をお伝えいたします」
・その1 寝台は24。各寝台の枕元に、病の名と重さを記した病札を掛ける。重さは1から3。札は神殿が記したものとする
・その2 各候補の癒しの力は、合わせて8。手番は4度。手番の順は関所の巡礼の順位のとおりとする
・その3 手番の者は寝台を1つ選び、病人に手を当てて診る。そのうえで、癒すか、離れるかを選ぶ。離れた寝台はまた誰でも選べる。癒した寝台はそこで終わりとする
・その4 癒しに用いる力は、病人の本当の重さとする。偽りの病人を癒そうとすれば、札に記された重さの分の力が空しく消える
・その5 癒した病人の重さと同じ数の花を、癒した候補に授ける
・その6 偽りの病人を癒した者には、黒い石を授ける。黒い石1つにつき、花を2輪失う
・その7 候補は病人と言葉を交わしてはならぬ。候補同士の言葉は自由とする
・その8 花の少ない下の2人は、聖灯を1つ失う
・その9 お供は壁際にて見守り、手番の合間に己の候補と語らってよい
神官が読み終えると、広間がざわめいた。
偽りの病人。伊吹は寝台の列を見渡した。どの病人も同じように苦しそうに見えた。同じように青白い顔をして、同じように浅い息をしていた。この中に、病人のふりをしている人がいる。
「病人と、話しちゃいけないんだ」
伊吹が小声で言うと、透が頷いた。
「ここは神前だからね。病人に、あなたは本当に病気ですかって聞けば、偽物は答えられない。それじゃ試練にならないから、口で確かめる道を塞いでるんだ。残ってるのは、札と、手と、目だけ。そして札は」
「文字だから嘘が書ける」
「うん。声は心を裁くけど、文字は何も裁かない」
伊吹は手のひらを握りしめた。ボルクの帳面を思い出した。書いたものは書いたもの。紙の上なら、何を書いても誰にも裁かれない。あのとき、ネネの借りは銀貨一枚から五枚に増えていた。
「ねえ、透。これって結局、何をすれば勝ちなの。簡単に言って」
伊吹が小声で聞くと、透は寝台の列を見渡しながら、指を一本立てた。
「8の力を、どこに注ぐかの勝負だよ」
「8の力」
「うん。持ってる力は8。手番は4回。本物の病人を癒せば、その人の本当の重さと同じだけ花がもらえる。重さ3の病人なら3輪。だから、重い本物を見つけて癒すほど、花が増える」
透は二本目の指を立てた。
「でも、偽物に力を注いだら、力は消えるうえに黒い石を渡される。黒い石1つで花が2輪減る。偽物を1人癒しただけで、本物を1人癒した分が帳消しになるくらい痛いんだ」
「じゃあ、偽物を見分ければいいってこと」
「そう。それが一番の肝。それと、もう一つ」
透は三本目の指を立てて、声をさらに落とした。
「寝台に手を当てて診るだけなら、力は減らない。触って、おかしいと思ったら、癒さずに離れてもいい。手番は1つ減るけど、力は1つも減らない。つまり、確かめるために使っていい手番があるんだ」
透は伊吹の目をまっすぐに見た。
「札は嘘をつく。顔色も上手な人ならごまかせる。でも、触ったときの手ごたえだけは、たぶんごまかせない。下の二人に入ったら、伊吹のランタンは消える。だから、伊吹の手で本物を見つけて、本物だけに力を注ぐ。それが、この審判で生き残る一番確かな道だと思う」
伊吹は自分の手のひらを見下ろした。4回の手番。8の力。偽物を1人でも癒したら、取り返しがつかない。それでも手で確かめることならできる。
「分かった。私の手で、全部確かめる」
透は小さく頷いた。気がつくと、伊吹は手を挙げていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
神官が少し驚いたように伊吹を見た。広間の人々も一斉に伊吹を見た。
「この人たちはどうしてここにいるんですか。治せなかった人は、どうなるんですか。4回ずつ、6人で、24回。でも本物の病人が全部治るとは限らないですよね。癒されなかった人は、そのまま放っておかれるんですか」
広間が静まり返った。
神官はしばらく黙っていた。それから巻物を下ろして、ゆっくりと口を開いた。神前だった。神官の言葉は一つ残らず声になるはずだった。
「寝台の方々は皆、施療院の薬代を免れるのと引き換えに、自ら申し出てこられた方です。審判の前に、神前にて確かめております。審判のあいだ待つことを、皆、自ら承知なさいました」
神官の声は一度も途切れなかった。
「また、命に障りのある方は、この審判には加えておりませぬ。先に癒し手が診ております。そして審判ののちには、施療院の癒し手がすべての寝台を診ます。候補の方々が癒せなかった方も、その日のうちに、必ず癒されます」
最後まで、まっすぐな声だった。全部、本当のことだった。
伊吹は手を下ろした。それでもまだ納得はできなかった。
「分かりました。でも」
伊吹は寝台の列を見た。一番手前の寝台の老人が浅い息をしながら、天井をじっと見つめていた。額に汗が浮いていた。
「それでも今は痛いんでしょ。夕方に治してもらえるとしても、それまでずっと痛いんでしょ」
神官は答えなかった。答えようがなかったのかもしれない。
「だったら、私が一人でも多く、先に治します。それが試練なら、それでいいです」
広間の誰かが小さく息を呑んだ。観覧席の端で、白蓮が閉じた目をこちらに向けて、静かに微笑んでいた。アデーレが腕を組んだまま小さく頷いていた。
伊吹は透の隣に戻った。透は何も言わなかった。ただ伊吹の肩にそっと手を置いて、すぐに離した。それだけで、強張っていた背中が少しだけ楽になった。
手番の順が読み上げられた。セレスティア、イングリット、ノラ、伊吹、リコリス、シルヴィ。関所の巡礼の順位のとおりだった。
候補たちが寝台の列に散っていくあいだ、伊吹は広間の隅に目をやった。
灰色の頭巾をかぶった見習いの修道女たちが、壁際に並んで控えていた。薬湯の盆を持ったり、汚れた布を運んだりしている。その中の一人がふと顔を上げて、寝台の列を歩くセレスティアのほうを見た。
そしてさっと顔を伏せた。
灰色の頭巾の陰で、顔はよく見えなかった。その修道女は盆を抱えたまま、足早に奥の部屋へ下がっていった。伊吹はそれを、ぼんやりと見送っただけだった。
隣で透がその修道女の背中を一瞬だけ見ていたことには、気づかなかった。
「伊吹」
透が呼んだ。
「手番が回ってくる前に、寝台を見て回っておいて。触っちゃいけないけど、見るだけならいい。顔色と、息の仕方と、汗のかき方。札と見比べて、何かおかしいと思ったら覚えておいて」
伊吹は頷いて、寝台の列に沿ってゆっくりと歩き始めた。
窓際の寝台には日の光が差し込んでいた。1つ目の寝台の札は重さ2。若い女が腕に布を巻いて横たわっていた。2つ目は重さ1。咳をしている子ども。3つ目は重さ3。胸を押さえて、浅い息をしている男。
伊吹は一つずつ、病人の顔を見ていった。顔色を見て、息の音を聞いて、額の汗を見た。手は伸ばさなかった。伸ばしたくてたまらなかった。
内側の列の、真ん中あたりだった。伊吹は足を止めた。
札には重さ1と書かれていた。軽い病のはずだった。それなのに寝台に横たわる男の額にはびっしりと脂汗が浮いていた。唇が紫色になって、毛布の端を握りしめた指が、小刻みに震えていた。
その隣の寝台の札は重さ3だった。一番重い病のはずだった。それなのにそこに横たわる女は穏やかな寝息を立てていた。頬には血の色があった。額には汗一つ浮いていなかった。
伊吹は二つの寝台を、何度も見比べた。
札に書かれた病と、病人の様子が、合っていなかった。背中がぞくりと冷たくなった。




