第24話 灯都の夜会(後編)
王宮の大広間はどこもかしこも明るかった。
天井から吊るされた硝子の燭台が何十も連なって、無数の蝋燭がともっている。磨き上げられた石の床に、その光が映り込んで、まるで光の湖の上に立っているようだった。楽団が奏でる弦の音が高い天井に柔らかく響いていた。着飾った貴族たちが杯を手に笑い合い、各国の使節が小声で何かを囁き合っている。
伊吹は入口で足を止めて、しばらくその光景を見上げていた。
隣で、透も同じように立ち止まっていた。黒い礼装に、銀の飾り紐。リコリスが貸してくれた服は悔しいくらい透に似合っていた。いつもの灰色の肩布のときとは別人のようだった。
それに気づいたのは伊吹だけではなかった。
「まあ、どちらの方かしら」
「ルーヴェのお供ですって。異国の方だとか」
「なんて綺麗なお顔」
広間に足を踏み入れたとたん、着飾った令嬢たちがひそひそと囁き合い、それから一人、また一人と、透のまわりに集まってきた。あっという間に、透は色とりどりのドレスの輪に囲まれていた。
「ルーヴェのお供の方でいらっしゃいますわね。よろしければ、一曲」
「いいえ、わたくしが先に」
「どちらのご出身ですの? 異国の方とか」
透は困ったように笑いながら、一人ずつ丁寧に応じていた。透が笑うたびに、令嬢たちの輪が大きくなっていった。
伊吹は壁際に下がって、給仕から果実水の杯を受け取った。別に、どうでもよかった。透が誰と踊ろうが誰に囲まれようが、伊吹には関係のないことだった。伊吹は杯を握る指に、少しだけ力を込めた。
「はいはい、どいてどいて」
令嬢たちの輪を、赤い髪がかき分けていった。
リコリスだった。真紅のドレスに、扇。リコリスは輪の真ん中まで進むと、透の腕に自分の腕をするりと絡めた。
「ごめんなさいね、皆さん。この人、あたしの婿候補なの」
令嬢たちが一斉に息を呑んだ。透が「え」と言うより早く、リコリスは透を引きずるようにして広間の真ん中へ連れ出していった。楽団が新しい曲を奏で始める。リコリスは透の手を取って、くるりと回った。
伊吹の手の中で、杯がきしんだ。
慌てて力を抜いた。果実水が少しこぼれて、指を濡らした。伊吹はそれを、ドレスの陰でそっと拭った。
「失礼。そこの、聖女らしくない聖女候補殿」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、栗色の髪を無造作に流した若い男が立っていた。名乗りの儀で、受付の神官に噛みつく伊吹を見て笑い転げた男。ヴァルディアの第二王子、アルフォンスだった。黒地に金の刺繍の礼装を着て、片手を胸に当てて、芝居がかった仕草で一礼した。
「一曲、お相手願えるかな」
「踊れません」
「教えて差し上げよう」
「足、踏みますよ」
「それは楽しみだ」
アルフォンスは笑って、手を差し出した。伊吹は少し迷って、それから広間の真ん中を見た。透がリコリスと踊っていた。リコリスが何か言って、透が困ったように笑っていた。
伊吹は杯を給仕に返して、アルフォンスの手を取った。一度目は最初の一歩で踏んだ。
アルフォンスの足の甲に、巡礼の長靴の踵がまともに乗った。アルフォンスは「おっと」と言っただけで、顔色一つ変えなかった。
二度目は回るときに踏んだ。
今度はアルフォンスもぴくりと眉を動かした。それでも笑顔は崩さなかった。
三度目は曲の終わり近くで、思いきり踏んだ。
わざとではなかった。ただ長靴の底が分厚すぎたのと、伊吹が踊りというものを生まれて一度もしたことがなかったのと、そのとき視界の端で透がリコリスの腰に手を回したのが見えたのが、全部重なっただけだった。
アルフォンスがついに吹き出した。
王子は腹を抱えて、広間の真ん中で笑い転げた。周りの貴族たちがぎょっとして振り返った。アルフォンスは目尻に涙を浮かべながら、片足を引きずって伊吹の手を取り直した。
「長靴か。ドレスの下に、長靴を履いてきたのか」
「走れるので」
「走って、どこへ行くつもりだったんだ」
「どこにも。でも走れないと落ち着かないんです」
アルフォンスはまた笑った。今度は腹を抱えずに、まっすぐ伊吹の顔を見て。
「やはり、気に入った」
広間の反対側の柱のそばで、透がこちらを見ていた。
リコリスとの曲は終わっていた。透はリコリスに何か言われても答えずに、ずっと伊吹とアルフォンスのほうを見ていた。表情はいつもどおり穏やかだった。ただ礼装の袖口を何度も指で直していた。
その透の隣に、栗色の髪を一つに束ねた少女がすっと立った。
イングリットだった。深い緑のドレスに身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしている。イングリットは透と同じほうへ目をやって、兄が伊吹の手を取って笑っているのを見ると、小さくため息をついた。それから透の横顔を見上げた。
「あなた、今、ずいぶん傾いておられますわね」
「え?」
「言葉ではなく、心がです。祠の前でも申し上げましたけれど、言葉に添う灯の傾きなら、わたくしは生まれつき感じ取れます。それが告解の間で正義の加護を授かってから、前よりずっと強くなりましたの。今では、口にしていない心の傾きまで、少しだけ分かる。祠の前でお会いしたときのあなたからは、何の傾きも感じ取れなかった。それが今は、ずいぶんと」
透は何も答えなかった。イングリットはそれ以上何も言わずに、口元だけでかすかに笑って、透のそばを離れていった。
「本音の間へ行こう!」
曲が途切れたところで、アルフォンスが大声で言った。
広間の奥に、小さな扉があった。その向こうは王宮の奥の神前の間なのだという。燭台が一つだけ灯った狭い部屋で、昔から夜会の余興に使われてきた。輪になって座り、順番に誰かに問いを投げる。問われた者は神前だから嘘はつけない。答えるか、黙るか。黙った者は罰として、灯実の果汁を一杯飲み干さなければならない。灯実の果汁は舌がしびれるほど酸っぱいのだという。
アルフォンスに引っぱられるようにして、伊吹も輪に加わった。リコリスがいた。イングリットがいた。ノラもいつの間にか隅に座って、指の上で銅貨を転がしていた。透も伊吹の向かいに座らされた。
問いは他愛のないものから始まった。
一番好きな食べ物は。一番苦手な人は。今まで一番恥ずかしかったことは。神前だから、皆が正直に答えた。リコリスは一番苦手な人を問われて、迷わず透を指さした。部屋じゅうが笑った。
イングリットの番が来たとき、問うたのはアルフォンスだった。王子は杯を掲げて、芝居がかった声で言った。
「では、我が妹に。ヴァルディアの一番の誇りは、何かな」
イングリットは少しも迷わなかった。背筋を伸ばして、燭台の火をまっすぐに見つめた。
「五十年前のことですわ。東の小国が、時の聖女様の神前で結んだ和平の誓いを、自ら破ったのです。ヴァルディアは最後まで誓いを守り抜きました。裏切った国は、その夜のうちに灯ごと滅んだ。神は誓いを守る者を守り、破る者を見捨てる。ヴァルディアの王家は、そのことを何より誇りとしてまいりましたの」
声は一音も途切れなかった。
神前だった。イングリットは本当にそう信じているのだ。部屋のあちこちで、感心したような声が漏れた。アルフォンスが満足そうに頷いて、杯を傾けた。
伊吹は眉を寄せた。透が話していた、祠守のおばあさんの昔話と同じ話だった。けれどおばあさんは言っていたはずだ。どちらが破ったのかはどこにも記録が残っていない、と。向かいの透を見ると、透もイングリットを見たまま、ほんの少しだけ目を細めていた。
イングリットの後ろで、白髪の老人が身じろぎした。グレゴールだった。椅子の背に置いた手がかすかに震えていた。
「姫様、それは」
グレゴールが口を開いた。部屋の何人かが振り返った。けれどグレゴールはそこで言葉を止めて、困ったように眉を寄せた。
「……はて。何を申し上げようとしたのでしたか」
「グレゴール?」
「いえ、いえ。年を取ると、どうも」
グレゴールは照れたように笑って、手を引っ込めた。イングリットは怪訝そうに老人を振り返ってから、また前を向いた。
伊吹はふと、本音の間の扉のほうに目をやった。
少しだけ開いた扉の隙間に、白い法衣の老人が立っていた。大神官だった。いつからそこにいたのか、伊吹には分からなかった。大神官は部屋の中には入らずに、扉の陰で、静かに目を閉じていた。何かを堪えているようにも、祈っているようにも見えた。
次に伊吹が扉のほうを見たときには、もう誰もいなかった。やがて伊吹が問われる番になった。
問うたのはアルフォンスだった。王子は燭台の明かりの中で、楽しそうに目を細めた。
「ではルーヴェの聖女候補殿に。好きな人は、いるかな」
部屋がしんとなった。
伊吹は口を開いた。いない、と言おうとした。
胸の奥が焼けた。
伊吹は口を閉じた。部屋じゅうの人が自分を見ているのが分かった。透も見ていた。伊吹は黙って、目の前の小さな杯を手に取った。黄金色の果汁が燭台の光を受けて揺れていた。
一息に飲み干した。
舌が焼けるようにしびれた。目の奥がつんとして、涙がにじんだ。伊吹は顔をしかめて、杯を床に置いた。部屋じゅうがわっと沸いた。
「黙った! 黙ったぞ!」
「いるのね、好きな人」
「いないとは言えないってことね」
伊吹は顔を真っ赤にして、うつむいた。酸っぱさのせいだと思いたかった。
次に問われたのは透だった。
問うたのはリコリスだった。リコリスは扇で口元を隠して、にやりと笑った。
「じゃあ、トオル。あなた、イブキのことをどう思ってるの?」
また、部屋が静まった。
伊吹は顔を上げられなかった。うつむいたまま、膝の上で拳を握りしめていた。心臓がうるさいほど鳴っていた。
「幼馴染です」
透の声は穏やかだった。
神前で、まっすぐに声になった。部屋の誰もが納得したようだった。リコリスが「つまんないの」と扇を振った。アルフォンスが肩をすくめた。誰も何も疑わなかった。
伊吹だけが顔を上げていた。
透の目を見ていた。幼馴染です、と言ったその瞬間、透の瞬きが一度だけ止まったのを、伊吹は見ていた。
心臓が大きく一つ跳ねて、それからずっとうるさかった。幼馴染、だけじゃない。透は神前で、それを隠したのだ。頬が熱くて、問いの輪が次の誰かに移っても、伊吹の耳には何も入ってこなかった。
本音の間を抜け出したあと、伊吹は広間の柱の陰で、透を見つけた。
透は柱に背中を預けて、両腕で銀の皿を抱えていた。皿の上には蜜をかけた小さな焼き菓子が山のように積まれていた。透はそれを、誰にも見られないように壁のほうを向いて、一つずつこそこそと口に運んでいた。
「透」
透がびくりと肩を跳ねさせた。振り向いて、口の端に蜜をつけたまま固まった。
「……見た?」
「見た」
「忘れて」
「無理」
伊吹は透の皿から菓子を一つつまんで、口に放り込んだ。甘かった。甘いものは苦手だった。それでもさっきの果汁の酸っぱさが少しだけ消えた。
「外、出よう。ここ、人が多すぎる」
大広間の端の扉から、露台に出た。
夜風が火照った頬に心地よかった。眼下に、祭りの灯籠に彩られた王都の街並みが広がっていた。見上げると、白く大きな月と、寄り添う赤い小さな月が、並んで空にかかっていた。
伊吹と透は露台の手すりに並んで、黙って菓子を分け合った。透が一つ食べ、伊吹が一つ食べる。皿の上の菓子が少しずつ減っていった。
巡礼の帰り道から続いていた気まずさが、少しずつ薄れていった。ずるいと言ったことは取り消すつもりはなかった。透も約束できないと言ったことを取り消さなかった。それでもこうして並んで菓子を食べていると、そのどちらもが、少しだけ遠いことのように思えた。
「伊吹」
「何」
「そのドレス、似合ってる」
伊吹は透を見た。
透は前を向いたまま、月を見ていた。横顔が月の光で白く浮かんでいた。瞬きは止まらなかった。
顔が一瞬で熱くなった。
「……ありがとう、ございます」
「なんで今、敬語なの」
「うるさい」
伊吹は透から顔を背けて、手すりにしがみついた。耳まで熱かった。透が隣で、小さく笑った気がした。
露台の少し離れた場所に、白い人影がぽつんと立っていた。
セレスティアだった。白いドレスを着て、手すりにもたれて、一人で街を見下ろしていた。広間ではいつも誰かに囲まれていた本命の候補が、今は誰の目もない場所で、ひとりきりだった。
伊吹は少しだけ迷ってから、皿から菓子を一つつまんで、セレスティアのほうへ歩いていった。
「これ、どうぞ」
セレスティアが振り向いた。
その顔に、いつもの微笑みはなかった。口元にも、目元にも、何も浮かんでいなかった。そこにいたのは疲れたような、ただの十七、八の少女だった。伊吹は少しだけ驚いた。初めて見るセレスティアだった。
セレスティアは差し出された菓子を見下ろして、それから伊吹の顔を見た。
「わたくしに、でございますか」
「はい。甘いの、嫌いじゃなければ」
セレスティアはしばらく黙っていた。それからそっと菓子を受け取って、小さくかじった。
「あなたは笑い方がお上手でいらっしゃいますね」
「は?」
「先ほど、広間で。王子殿下の足を踏まれたとき。それから本音の間で、果汁を飲まれたとき。あなたはとても自然に笑っておられました」
「普通に笑ってるだけだけど」
「普通に」
セレスティアはその言葉を確かめるように繰り返した。それから菓子の残りを手のひらに載せたまま、また黙って街を見下ろした。伊吹は何と言えばいいのか分からなくて、隣に立ったまま、同じ街を見下ろしていた。
広間に戻ると、楽団がゆっくりとした曲を奏でていた。広間の隅で、二人の人影が踊っていた。
アデーレだった。いつもの銀の甲冑ではなく、簡素な紺のドレスを着ていた。その手に、白蓮の手が預けられていた。アデーレは白蓮の手を取って、一歩ずつ、ゆっくりと足を運んでいた。白蓮は閉じた目のまま、アデーレの導くとおりに、静かに体を揺らしていた。二人ともランタンの火はもう消えていた。それでも二人は笑っていた。
伊吹は少しだけ泣きそうになった。
曲が終わると、二人のそばで誰かが手を叩いた。拍手ではなかった。わざと間を空けた、ゆっくりとした音だった。
どこかの家の若い貴族だった。杯を片手に頬を赤くしていて、後ろでは取り巻きらしい二人がくすくす笑っていた。
「いや、見事なものだ。灯の消えた候補が二人、手を取り合って踊るとは。目の見えぬ娘と、剣を振り回すしか能のない騎士気取りの娘。選定の余興としては、なかなか気が利いている」
広間の空気がすっと冷えた。白蓮は閉じた目のまま、アデーレの手をそっと握り直した。アデーレは右手で腰のあたりを探りかけて、その手を握りしめた。いつもならそこにあるはずの剣がない。今夜のアデーレはドレスだった。
伊吹はもう歩き出していた。
「謝ってください」
貴族の前に立つと、自分でも驚くほど低い声が出た。
「なんだ、お前は。……ああ、ランタンが一つしか灯らなかった、ルーヴェの」
「謝ってください。白蓮さんにも、アデーレさんにも」
貴族は鼻で笑って、杯を持たないほうの手で伊吹の肩を押しのけようとした。伊吹はその手首を掴んだ。一ひねりすれば、この男は磨かれた床に膝をつく。召喚の夜、路地でそうしたように。
拳を握りかけて、伊吹は止まった。ここで殴れば、明日には王都じゅうがこう噂する。灯の消えた二人のために、ルーヴェの候補が夜会で暴れた、と。笑われるのは白蓮とアデーレのほうだ。
伊吹は手首を掴んだまま、貴族の目をまっすぐに見据えた。相手が目を逸らすまで、自分からは逸らさなかった。
「この二人は、雪山を登りきったんです。一人はもう一人を背負って。あなたは杯より重いものを持って山を登ったことがありますか」
貴族の頬から赤みが引いていった。取り巻きの二人はいつのまにか笑うのをやめていた。周りの客がこちらを見ていることに、貴族はようやく気づいたようだった。伊吹が手を離すと、貴族は口の中で何かをもごもごと言って、人垣の向こうへ消えていった。
伊吹は大きく息を吐いた。握りかけていた拳を開くと、手のひらに爪の痕が残っていた。
「……すまない」
振り向くと、アデーレが白蓮の手を取ったまま立っていた。
「礼を言うべきなのだろうな。だが、礼より先に恥が出る。騎士が、年下の娘に守られた」
「守ったっていうか、ムカついただけです」
「殴らなかったな。お前の構えなら、あの男は一息で床に転がせただろう」
「殴ったら、悪く言われるのはアデーレさんたちだから」
アデーレはしばらく黙っていた。それから空いているほうの手を、ドレスの腰に当てた。いつも剣の柄がある場所だった。
「次は、私が抜く」
小さな声だった。伊吹に言ったのか、自分に言ったのか、分からないような声だった。白蓮が閉じた目のまま、ふわりと微笑んだ。
そのとき、広間の正面の扉が開いた。
白い法衣の老人がゆっくりと姿を現した。大神官だった。広間のざわめきが静まっていった。大神官は広間の中央まで進むと、候補たちを一人ずつ、穏やかな目で見渡した。
「灯都の夜を、皆さまお楽しみいただけたことと思います」
しわがれた、柔らかい声だった。
「選定も、折り返しを迎えたようでございますな。次なる試練は慈悲の審判となりましょう。施療院の病める方々の前に、皆さまの灯をお試しいただくことになるかと存じます。詳しくは追って」
広間がざわめいた。伊吹は手首の水色の紐を握った。
広間の隅で、朔が透のほうを見ていた。目が合うと、朔は小さく、誰にも気づかれないほど小さく、一度だけ頷いた。




