第23話 灯都の夜会(前編)
王都は朝から祭りの音で沸いていた。
大通りという大通りに色とりどりの灯籠が吊るされ、屋台が軒を連ね、楽隊の笛と太鼓がどこからともなく聞こえてくる。灯取りの中日、と呼ばれる祭りなのだという。選定が折り返しに差しかかったことを祝って、民は街じゅうに灯をともし、王宮では夜に大きな夜会が開かれる。巡礼を終えた候補たちも、全員がその夜会に招かれていた。脱落して見届け人になったアデーレと白蓮も含めて。
伊吹は祭りの喧騒をよそに、透と並んで貧民街の路地を歩いていた。
巡礼から戻って一晩眠っても、胸の奥のもやもやは消えていなかった。頂上からの帰り道で、ずるいと言ったきりだった。透も何も言わなかった。朝ごはんのとき、透は二度ほど何か言いかけて、二度とも黙った。伊吹も目を合わせなかった。二人のあいだに、ランタンの火一つ分の距離が、まだ残っていた。
「お姉ちゃん!」
路地の角を曲がったとたん、甲高い声がした。
ネネが両手を広げて駆けてきた。その後ろから、子どもたちが七、八人、わっと押し寄せてくる。あっという間に、伊吹と透は小さな人垣に取り囲まれた。
「帰ってきた! 本当に帰ってきた!」
「山、どうだった? 雪あった?」
「お姉ちゃん、また誰かやっつけた?」
「やっつけてない。……たぶん」
伊吹が答えると、子どもたちがきゃあっと笑った。ネネが伊吹の左手首を見て、目を輝かせた。
「つけてくれてる」
水色の紐だった。三日間の山道で少しくたびれて、編み目がところどころほつれかけていた。それでもちゃんとそこにあった。
「大事にするって、言ったでしょ」
伊吹が言うと、ネネは顔をくしゃくしゃにして笑った。
子どもたちは二人を路地の奥の空き地に引っぱっていって、ぐるりと輪になって座らせた。巡礼の話を聞かせろ、とせがまれた。伊吹は何から話せばいいのか分からなくて、口ごもった。
代わりに、透が立ち上がった。
「じゃあ、最初の関所の話からね」
透は空き地の真ん中に立つと、身振り手振りで話し始めた。門の前に縄が張ってあって、縄のこっちは嘘をついてもいい場所で、向こうは嘘をつけない場所で。箱に品を詰めて、中身を申告して、関守が通すか開けるかを決める。子どもたちは目を丸くして聞いていた。
「それでね、赤い髪のお嬢さんが、こうやって扇で口を隠して」
透がリコリスの真似をして扇を広げる仕草をすると、子どもたちが転げ回って笑った。伊吹も思わず吹き出した。似ていた。腹が立つくらい、似ていた。
透の話はノラが酒を踏み倒したところで最高潮になった。子どもたちが「ノラ姉ちゃんだ!」「ノラ姉ちゃんならやる!」と口々に叫んだ。ノラはこの路地の出なのだと、伊吹はそのとき初めて知った。
「それで、お姉ちゃんは何番だったの?」
ネネが伊吹の袖を引いた。伊吹は少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「四位」
「すごい!」
子どもたちが一斉に叫んだ。
「四番目! 八人のうちの四番目!」
「お姉ちゃん、すごい!」
「すごくないよ。上に三人もいるし、目盛りももらえなかったし」
「でも残ったんでしょ。山のてっぺんまで行って、落ちなかったんでしょ。すごいよ!」
ネネがまっすぐに伊吹の目を見て言った。伊吹は言葉に詰まった。顔が熱くなっていくのが分かった。すごいなんて、言われたのはいつ以来だろう。中学の体育祭で、リレーのアンカーで三人抜いたとき以来かもしれない。あのときもたぶん今と同じくらい顔が熱かった。
「……ありがと」
伊吹はうつむいて、小さく言った。子どもたちが「照れてる!」「お姉ちゃん照れてる!」と騒ぎ立てた。伊吹は顔を上げて、子どもたちを見回した。
「……照れてる。悪い?」
子どもたちは一瞬きょとんとして、それからさっきよりもっと大きな声で笑い転げた。ふと顔を上げると、透がこちらを見ていた。
何も言わずに、少しだけ笑っていた。朝から何度も言いかけてはやめていた透が、ほんの少しだけ表情をゆるめていた。伊吹は慌てて目を逸らした。
空き地の隅に、腕を組んだ背の高い男の子が一人、少し離れて立っていた。ノラのお供の、あの男の子だった。今日は肩布を外していた。その子は輪には加わらずに、ずっとこちらを見ていた。目が合うと、ふいっと顔を背けた。それでも立ち去りはしなかった。
帰り道、大聖堂の前の広場を通った。
名乗りの儀の朝と同じように、広場の端に大きな板が立てかけてあって、その前に人だかりができていた。賭け札だった。伊吹は足を止めた。
八つあった枠のうち、二つに赤い線が引かれていた。アデーレと、白蓮だった。残りの六つの枠に、名前と数字が並んでいる。一番上は相変わらずセレスティアで、その下にイングリット、ノラと続いていた。
伊吹は一番下の枠を探した。
名乗りの儀の朝、そこは空白だった。名前の欄に何も書かれていなくて、隅に小さく「ルーヴェ」とだけあった。その横の数字はほかのどの枠よりも桁が多かった。
今は違った。
名前の欄に、太い字で何かが書き込まれていた。伊吹にはこの世界の字が読めない。それでもその形には見覚えがあった。透が宿の帳場で、何度か書いてみせてくれた形だった。
「イブキ、って書いてある」
透が隣で、静かに言った。
「倍率も変わってる。五十倍だったのが、十倍まで縮んでる。告解の間と巡礼で、伊吹に賭ける人が増えたんだ」
伊吹は黙って板を見ていた。
空白だった場所に、自分の名前があった。名前も知られていなかった大穴の候補に、誰かが銅貨を賭けてくれた。一人や二人ではない。倍率が五分の一になるくらい、たくさんの誰かが。
胸の奥が熱くなった。何か言おうとして、言葉にならなかった。伊吹は板の前に立ったまま、しばらく動けなかった。透も何も言わなかった。ただ隣に立っていた。ランタンの火一つ分の距離はいつの間にか半分くらいになっていた。
夕方、候補の館に戻ると、部屋の前に大きな箱がいくつも積まれていた。
「お届けものよ」
廊下の向こうから、リコリスが扇を揺らしながら歩いてきた。後ろには会計士のベルントがさらに箱を抱えてよろよろとついてきている。
「今夜の夜会の衣装。どうせあなたたち、ろくな服持ってないでしょ。商会の伝手で、王都の仕立て屋から借りてきてあげたわ」
「借りて、って。なんで」
「巡礼で十五も払わされたのよ。取り返さないと気が済まないの」
「取り返すって、これ貸してくれるんでしょ。お金は」
「いらないわよ」
リコリスはつんと顎を上げた。
「あたしが貸した服を着て、あなたたちが夜会で目立てば、メルクール商会の仕立ての評判が上がる。それで十分元は取れるの。商いってのはそういうものよ」
伊吹は箱の蓋を開けた。
中にはドレスが入っていた。薄桃色の生地に、肩から胸元にかけてびっしりとレースが縫いつけてある。裾は幾重にも重なってふわりと広がり、腰には大きなリボンが結ばれていた。
伊吹は蓋を閉めた。
「嫌」
「まだ着てもいないじゃない」
「見れば分かる。嫌。絶対に嫌」
「なんでよ! 王都で一番の仕立て屋の、今年一番の流行りの形なのよ!」
「ひらひらしすぎ。こんなの着たら、歩けないし、走れないし、蹴れない」
「夜会で誰を蹴る気よ!」
「蹴られそうになったときの話!」
リコリスは扇で額を押さえた。透が隣で、必死に笑いをこらえていた。伊吹が睨むと、透は咳払いをしてごまかした。
それからの一時間は戦争だった。
リコリスは箱を次々に開けていった。淡い緑の、袖がふくらんだドレス。白地に金の刺繍が入った、裾の長いドレス。真紅の、背中が大きく開いたドレス。伊吹はそのどれにも首を横に振った。リコリスの声がだんだん大きくなり、伊吹の声もだんだん大きくなった。
「あなたね、聖女候補でしょ! 少しは聖女らしくしなさいよ!」
「聖女らしいって何! ひらひらしてたら聖女なの? そんなの、誰が決めたの!」
「みんなが決めたのよ!」
「じゃあ、みんなが間違ってる!」
廊下を通りかかった神官がぎょっとして足早に去っていった。最後の箱を開けたとき、リコリスはもう半分泣きそうな顔をしていた。
「……これで駄目なら、もう知らないわよ」
中に入っていたのは深い青のドレスだった。
夜空のような色だった。レースも、リボンも、刺繍もない。首元は詰まっていて、袖は手首まで細く伸び、裾は床に届くほど長いけれど、ふくらみはほとんどなかった。飾りといえば、腰に一本、細い銀の帯が締めてあるだけだった。
伊吹は黙って、そのドレスを手に取った。
生地は柔らかくて、少しひんやりしていた。広げてみると、裾の脇に深い切れ込みが入っていた。足を大きく踏み出しても、引っかからない形だった。
「……これなら、いい」
「本当に?」
「下に、長靴履いていいなら」
「は?」
「巡礼で履いてた長靴。あれなら走れる」
リコリスは口を開けたまま、しばらく固まっていた。それから深々とため息をついて、扇をぱちりと閉じた。
「もういいわ。好きにしなさい。裾が長いから、どうせ足元なんて誰にも見えないわよ」
リコリスは疲れ果てた様子で、ベルントに箱を片づけさせながら去っていった。去り際に、透のほうを振り返った。
「あなたの礼装はそっちの細長い箱よ。トオル。ちゃんと着なさいよ。あたしの婿候補なんだから」
「え」
「冗談よ」
リコリスは扇の陰でにやりと笑って、廊下の角に消えた。伊吹はなぜかリコリスの背中をしばらく睨んでいた。
日が沈みかけたころ、伊吹は部屋の衝立の陰で、深い青のドレスに着替えた。
鏡の前に立つと、知らない誰かがそこにいた。黒い髪を下ろして、首元の詰まった青い服を着て、背筋を伸ばして立っている。いつもの紺の上着よりも、ずっと大人びて見えた。裾をそっとめくると、巡礼の泥がまだこびりついた長靴が覗いていた。伊吹は少しだけ笑った。これでいい。これなら、自分のままでいられる。
衝立の陰から出ると、透がちょうど細長い箱から礼装を取り出したところだった。黒い上着に、銀の飾り紐。着替える前の、いつもの灰色の肩布のまま、透は振り向いた。
そして動かなくなった。
透は伊吹を見ていた。口が少しだけ開いていた。何かを言おうとして、言葉が出てこないようだった。告解の間でも、巡礼の門の前でも、いつも穏やかに何かを言っていた透が、今、何も言えずに立ち尽くしていた。
「……何」
伊吹は腕を組んだ。顔が熱くなるのが分かった。
「変なら、変って言えば。リコリスさんにも散々言われたし」
「いや」
透はそれだけ言って、また口を閉じた。それから目を逸らして、礼装の上着をぎこちなく羽織り始めた。袖に腕を通すのに、二度失敗した。
「透?」
「何でもない。行こう。遅れる」
透は伊吹のほうを見ないまま、部屋の扉を開けた。
候補の館の門の前には王宮からの迎えの馬車が並んでいた。祭りの灯籠が夕闇の街を金色に染めていた。馬車に揺られて大通りを抜けると、正面に王宮の大きな門が見えてきた。門の両脇にずらりと松明が焚かれ、その向こうに、明かりのともった宮殿がそびえていた。
伊吹は膝の上で手を握りしめた。緊張で喉がからからに渇いていた。ドレスの下で、長靴の爪先に力を込めた。
馬車が止まった。扉が開いた。
伊吹は透の手を借りずに、自分の足で、王宮の門をくぐった。




