第22話 頂上
白蓮は目を覚まさなかった。
アデーレの腕の中で、細い体はぐったりと力を失っていた。朔が白蓮の名を何度も呼んだ。頬を叩き、手を握り、耳元で叫んだ。白蓮の唇がかすかに動いたが、声にはならなかった。
「水を」
アデーレが短く言った。従士のディートリヒがすぐに自分の水筒を差し出した。アデーレは白蓮の頭を膝の上に支えて、唇に少しずつ水を含ませた。白蓮の喉が小さく動いた。それでも閉じた瞼は開かなかった。
神官が困ったように咳払いをした。
「申し上げにくいことながら、献納献納の順位は、日没までに頂上の祭壇に灯をともした方のみで定めます。灯をともせぬ方は、献納の値打ちにかかわらず、下位として扱われることになりましょう」
朔が神官を睨みつけた。何か言いかけて、唇を噛んだ。
頂上の祭壇はここからまだ一時間ほど登った先だった。道は急な斜面になっていて、上のほうには雪が残っている。白蓮を抱えて登るには遠すぎた。
「私が背負う」
アデーレが言った。
「アデーレ様」
ディートリヒが初めて、主の名を呼んだ。アデーレは振り返らなかった。白蓮の体を抱え直して、自分の背中に負わせる。朔が慌てて手を貸して、白蓮の腕をアデーレの首に回させた。
「アデーレさんの献納も、もうほとんど残ってないでしょ。白蓮さんに分けたんだから」
伊吹が思わず言うと、アデーレは少しだけ口の端を上げた。
「だから何だ。どのみち、私とこの娘が下の二人だ。ならば、二人とも頂上まで行く。灯もともさずに途中で倒れて終わるのは、騎士の終わり方ではない」
アデーレは一歩を踏み出した。甲冑の重さに、白蓮の重さが加わっている。それでもその一歩は少しも揺らがなかった。
*
背中が重かった。
アデーレは雪の斜面を一歩ずつ踏みしめながら、背中の娘の呼吸を数えていた。浅い。けれど止まってはいない。それだけを頼りに、足を前に出し続けた。
膝が笑い始めていた。甲冑の留め金が肩に食い込んで、骨が軋む音がした。息を吸うたびに、冷たい空気が肺を刺した。頂上はまだ見えない。雪の斜面が白く、どこまでも続いている。
騎士になりたかった。父のような騎士に。シュタール家の娘として生まれて、剣を握ることを許されず、それでも夜ごと一人で稽古を続けてきた。この選定に出たのも、聖女になりたかったからではない。騎士として、何か一つでも人のために立てる場所が欲しかったからだ。
その選定で、自分はもうすぐ脱落する。
分かっていた。分かっていて、背中の娘を下ろす気には、なれなかった。
「……アデーレ、様」
耳元で、かすれた声がした。白蓮だった。
「下ろして、くださいませ。わたくしは、もう、十分です」
「黙っていろ。舌を噛むぞ」
「アデーレ様の灯が、見えます」
白蓮の声はひどく細かった。
「とても、強い灯です。まっすぐで、少しも揺らがない。こんなに強い灯を、わたくしは、見たことがありません」
アデーレは答えなかった。答えずに、歩き続けた。
足が不思議と軽くなっていった。膝の震えが止まった。肩の痛みが遠のいた。体の芯に、熱いものが一本、まっすぐに通ったような気がした。背中の娘を守っているあいだはこの体は折れない。なぜか、そう分かった。
すぐ後ろで、ディートリヒの足音がしていた。いつもの、規則正しい、一歩も遅れない足音だった。
「……お父上も」
低い声がした。
アデーレは思わず足を止めかけた。ディートリヒが自分から口を開くのを、アデーレは何年も聞いていなかった。命じれば「御意」と答える。それ以外の言葉を、この寡黙な従士が口にしたことは、一度もなかった。
「お父上も、そうなさったでしょう」
アデーレは振り返らなかった。振り返ったら、きっと泣いてしまう。
ただ背中の娘を背負い直して、もう一度、雪を踏んだ。
*
伊吹たちが頂上の手前の尾根にたどり着いたのは、日が西に傾き始めたころだった。
最後の難所だった。左右が切り立った雪の稜線が細い一本道になって祭壇まで続いている。道幅は肩幅ほどしかない。風が吹くたびに、粉雪が崖の下へ舞い落ちていった。
伊吹は迷わず渡り始めた。三歩進んで、後ろの気配がないことに気づいて振り返った。
透が稜線の入口で立ち尽くしていた。
顔が真っ青だった。杖を握る手が震えている。透は崖の下を見ないようにしていたが、一歩も前に出られずにいた。
「透」
「ごめん。ちょっと、待って」
「あんた、まだ高いところ駄目なの」
「駄目、というか。体が言うことを聞かない、というか」
透は笑おうとして、失敗していた。小学生のとき、ジャングルジムのてっぺんで泣きべそをかいて、下りられなくなった透を思い出した。あのときも伊吹が下から手を伸ばしてやったのだ。
伊吹はため息をついて、引き返した。
「ほら。背中」
「え」
「乗って。背負ってく」
「いや、それは。お供は巡礼者に背負われちゃいけない、みたいな掟があったような」
「ないよ、そんなの。逆はあるけど」
伊吹は透に背中を向けてしゃがんだ。透はしばらく固まっていたが、やがて観念したように、おずおずと伊吹の肩に手を回した。重かった。でも喧嘩で男を投げ飛ばすより、ずっと軽かった。
「目、つぶってて」
「うん」
伊吹は透を背負ったまま、雪の稜線を一歩ずつ渡った。風が吹いた。背中の透がぎゅっとしがみついてきた。首に回された腕が少し震えていた。
「……あんた、馬鹿でしょ」
「うん」
「人の顔を餌にして勝つくせに、こんな崖一つ渡れないの」
「うん。ごめん」
背中で、透が小さく笑った気がした。伊吹は前だけを見て歩いた。耳が熱かった。寒いせいだと思うことにした。
頂上の祭壇は雪の中に建つ小さな石の祠だった。
祭壇の上に、大きな灯皿が一つ置かれている。候補は一人ずつ、自分のランタンの火をその灯皿に分けて、到着の証とする。伊吹がランタンを傾けると、小さな火が灯皿に移って、ほかの候補たちの火と一つに溶け合った。
日が沈みかけていた。祭壇の前にはもうほとんどの候補が揃っていた。セレスティアも、イングリットも、ノラも、リコリスも、シルヴィも。
アデーレと白蓮の姿だけがまだなかった。
伊吹は雪の斜面を見下ろした。夕陽が雪を赤く染めていた。神官が沈みかけた日を見上げて、巻物を広げかけた。
稜線の向こうの斜面に、銀の甲冑が小さく見えた。背中に白蓮を負って、一歩進んでは立ち止まっている。あの速さでは稜線を渡りきる前に日が沈む。
伊吹は気づいたときには祭壇に背を向けて駆け出していた。
「伊吹!」
透の声が背中に飛んできた。伊吹は振り返らずに、渡ってきたばかりの稜線を引き返した。風に煽られた粉雪が頬を打った。稜線を渡りきって斜面にかかったあたりで、胸の奥が鈍く疼き始めた。透から離れすぎたときの痛みだった。伊吹は制服の上から胸を押さえて、そのまま斜面を駆け下りた。
アデーレは稜線の手前で足を止めていた。肩で息をしていて、甲冑の肩当てには雪が積もっている。背中の白蓮はぐったりと首を垂れていた。後ろではディートリヒと朔が、手を出せないまま立ち尽くしていた。お供は巡礼者の荷を持ってはならない。その掟が二人を縛っていた。
「何をしに来た」
「その剣と袋、貸してください。候補同士なら、持っても掟には触れないですよね」
「お前の献納はもう祭壇に届いている。ここで私に手を貸しても、お前には何の得もないぞ」
「得とか知らないです。日が沈みそうだから来ただけ」
伊吹はアデーレの腰から剣を外して、軽くなった巡礼袋と一緒に自分の肩に担いだ。剣だけでずしりと重かった。こんなものを提げて、そのうえ人一人を背負って、アデーレは雪山を登ってきたのだ。
「稜線は肩幅しかありません。私が前を歩くので、肩に手を置いてください。足を置く場所は全部言います」
アデーレは何か言いかけて、口をつぐんだ。それから白蓮を背負い直して、空いた左手を伊吹の肩に置いた。籠手越しでも分かるくらい、その手は冷えきっていた。
伊吹は崖の下を見ないようにして、足元の雪を一歩ずつ確かめながら進んだ。
「右、少し凍ってます。左の岩のほうに寄ってください。……そこ、半歩だけ短く」
背中で聞こえるアデーレの息が、だんだん荒くなっていった。肩に置かれた手にときどき力がこもる。そのたびに伊吹は足を止めて、アデーレが体勢を立て直すのを待った。祭壇に近づくにつれて、胸の疼きは少しずつ引いていった。それでも伊吹は胸に当てた手を下ろせずにいた。ふと振り返ると、アデーレがその手をじっと見ていた。
「胸を痛めているのか」
「平気です。あと二十歩です」
稜線の終わりで、透が雪に膝をついて待っていた。顔はまだ青かったが、伊吹を見ると、ほっとしたように長く息を吐いた。
アデーレは祭壇の前まで来ると、膝をついて白蓮をそっと背中から下ろした。朔が白蓮の手を取って、ランタンを灯皿に傾けさせた。それからアデーレが自分のランタンを傾けた。
二つの火が灯皿に移った。日の最後の一筋が山の端に消えた。
「間に合ったな」
アデーレは息を切らしながら、それだけ言って笑った。神官が巻物を読み上げ始めた。
「関所の巡礼、献納の順位を申し上げます。下より順に」
伊吹の心臓が跳ねた。下から。一番知りたくない順番だった。
「八位、シュタール家のアデーレ殿。七位、蓮州の白蓮殿」
広場がしんと静まった。アデーレは膝をついたまま、静かに目を閉じた。白蓮は朔の手を握って、ほんの少しだけ微笑んだ。
「下位の二名は聖灯を一つ失うものといたします」
二人のランタンの火がふっと消えた。
伊吹は拳を握りしめたまま、動けなかった。自分の名前は下の二人には呼ばれなかった。生き残ったのだ。そう分かった瞬間、膝から力が抜けそうになるほどほっとした。そしてほっとした自分に、胸の奥がすっと冷たくなった。下の二人は霧の中で手を温めた白蓮と、その白蓮を背負って雪の斜面を登りきったアデーレだった。二人は品を分け合って、二人一緒に沈んだ。その少し上に、自分が立っている。喜んでいいのか、分からなかった。
「六位、森の国のシルヴィ殿。五位、メルクールのリコリス殿」
リコリスが小さく舌打ちした。
「四位、ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿」
四位。目盛りはもらえない。リコリスから取った値打ち15が白蓮に渡した麦2袋の穴を埋めてくれていた。伊吹はそれを、どこか遠いことのように聞いていた。
「三位、王都のノラ殿。二位、ヴァルディアのイングリット殿。一位、大聖堂のセレスティア殿」
セレスティアの前に、神官が小さな硝子の小瓶を捧げ持った。中で、金色の雫が一滴、ゆらりと揺れていた。灯の雫だった。セレスティアは完璧な微笑みでそれを受け取った。
「脱落されたお二方は、選定の終わりまで見届け人として大聖堂に留まられ、閉幕の儀ののち、故郷へとお還りになりましょう」
神官がそう告げて、巻物を閉じた。祭壇から下りる道の途中で、伊吹は透の隣を歩いていた。
夜の山は冷えた。足元をランタンで照らしながら、伊吹はずっと黙っていた。四位で残った。勝ったのだ。たぶん、勝った。それなのに胸の奥のもやもやが朝からずっと消えなかった。
「透」
「うん」
「次の試練ではちゃんと教えて」
透がほんの少しだけ歩みを緩めた。
「最初から全部じゃなくていい。でも私が何を背負って門に立ってるのか、何も知らないまま怖がらされるのは、もう嫌。今日、リコリスさんの前で手が震えたとき、私、自分が何に怯えてるのかも分からなかった。あんなの、二度とごめん」
透は答えなかった。ランタンの火が二人の足元で揺れていた。
「約束して」
「……約束、できない」
伊吹は足を止めた。
「なんで」
「伊吹は嘘がつけない。顔にも声にも出る。それが伊吹の一番の強さで、一番の弱さなんだ。次の試練で、もしまた同じ手が要るなら、俺はまた伊吹に何も言わない。言えば、伊吹が負ける。だから約束はできない」
透の声は静かだった。それなのに少しも譲る気がないのが分かった。
「ずるいよ」
声が震えた。寒さのせいではなかった。
「ずるいよ、透。全部分かってて、全部一人で決めて、それで勝って。……勝ったのは分かってる。あんたが黙ってたから勝てたのも、分かってる。でも私はまた終わってから知るの。嬉しいのか悔しいのか、自分でも分かんなくなる。そういうの、ずるい」
「うん」
透は否定しなかった。
「ずるいと思う。ごめん」
謝られても何も楽にならなかった。伊吹は唇を噛んで、また歩き出した。透も黙って隣を歩いた。二人のあいだに、ランタンの火一つ分だけの距離ができていた。
麓の祠に下りると、白蓮が目を覚ましていた。
祠の軒下の毛布にくるまって、朔に支えられながら、温かい汁物を少しずつすすっていた。伊吹と透が近づくと、白蓮は閉じた目をこちらに向けた。
「伊吹様。透殿」
「白蓮さん。もう、大丈夫なんですか」
「ええ。アデーレ様のおかげで。それに伊吹様の麦のおかげで」
白蓮は椀を膝の上に置いて、少しだけ首を傾げた。
「お二人に、申し上げておきたいことがございます。見届け人になれば、もうお二人と試練の場で向き合うことはありませんから」
白蓮は閉じた目のまま、伊吹と透を順番に見るように、ゆっくりと顔を動かした。
「お二人には灯りが視えません」
伊吹は息を止めた。透も隣で動かなくなった。
「伊吹様の灯はどこか遠いところからお借りしてきたような、細い灯です。透殿には灯そのものが視えません。初めは恐ろしいと思いました。灯のない方など、この世にいるはずがないと教わってきましたから」
白蓮はそこで、ふわりと微笑んだ。
「けれど温かい方々です。霧の中で握っていただいた手も、分けていただいた麦も。灯が視えなくても、わたくしには、お二人の温もりがちゃんと分かります。それだけはお伝えしておきたかったのです」
伊吹は何も言えなかった。灯が借り物。透には灯がない。意味が分からなかった。分からないのに、胸の奥が冷たくなった。透の顔を見ると、透はいつもの穏やかな顔をしていた。ただランタンの取っ手を白くなるほど強く握っていた。
白蓮が朔に支えられて祠の中へ戻っていったあと、朔が一人で引き返してきた。
朔は透の前で足を止めた。伊吹のほうは見なかった。
「借りを、返しに来ました」
朔は低い声で言った。
「白蓮様に麦を分けていただいた分です。白蓮様は恩を返さないまま国に還ることを、きっと気に病まれる。だから俺が返します」
「借りなんて、何も」
伊吹が言いかけると、朔は首を横に振った。それから透の目をまっすぐに見て、声をさらに低くした。
「次の試練のために、神官たちが病人を集めています。施療院の寝台を、二十いくつも空けさせて」
朔は一度、言葉を切った。
「その中に、本物じゃない者が混じっています」




