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負けたら王都が沈むので、嘘の通じない聖女選定を嘘つき幼馴染と頭脳戦で勝ち抜く  作者: 宵星 凪


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第21話 第三の関所

 三日目の朝、霧は嘘のように晴れていた。


 尾根の上から見下ろすと、昨日歩いてきた道が、一面の雲海の下に隠れていた。見上げれば、頂上の祭壇はもうすぐそこだった。灰色の岩肌のてっぺんに、小さな石の建物が陽を浴びて光っている。その手前の岩棚に、三つ目の祠があった。


 伊吹は巡礼袋の口を開けて、中を覗いた。


 麦が3袋。油が1壺。灯実の酒が2本。それから薬草の束が5つ。


「透。薬草、増えてるんだけど」


「うん。昨日の夜、セレスティアさんから買った」


「いつの間に」


「伊吹が白蓮さんのパンを浸してあげてたころかな」


 透はさらりと言った。伊吹は薬草の束を一つずつ数え直した。5つ。そのうちの一つに、あの木札が結ばれている。おかあさんの、びょうきが、なおりますように。震える線で刻まれた、小さな字。


「今日の箱には薬草を5つ詰めて」


 透が言った。


「申告はそのまま言えばいい。薬草が5つだけです、って」


「酒は?」


「袋に入れたまま。箱には入れない」


「それだけ?」


「それだけ」


 伊吹は透の顔を見た。透はいつもどおり穏やかだった。何を考えているのか、少しも読めなかった。聞かないと決めたのは自分だった。知らないまま門に立つと、昨日の夜、自分で言ったのだ。


 それでも胃の奥がきりきりと痛んだ。


 祠の前の広場で、神官がくじを回した。三の関所の組が読み上げられていく。伊吹は最後の札を待ちながら、手のひらの汗を外套で拭った。


「ナルミイブキ殿と、リコリス殿」


 広場の向こうで、赤い髪が揺れた。


 リコリスがゆっくりとこちらを振り向いた。扇で口元を隠したまま、まっすぐに伊吹を見ていた。昨日までのように値踏みしているのではなかった。獲物を見つけた猫のようだった。


 伊吹の背筋が冷えた。


 リコリスとの約束は二の関所までだった。今日はもう、何の誓いもない。リコリスは伊吹の箱を検めてもいい。昨日ノラに酒を取られ、セレスティアに詫びを払わされたリコリスが、今日、何もしてこないはずがなかった。


 関所が始まった。先に運び手になったのは伊吹だった。


 伊吹は献納箱の前に膝をついて、薬草の束を一つずつ詰めていった。最後に、木札のついた束を手に取った。指先で札をそっと撫でてから、一番上に置いた。頂上まで持っていく。そう約束した束だった。箱に封をして、両手で抱えて、門の前の台に置いた。


 縄の向こうに、リコリスが立っていた。


「さあ、どうぞ。申告して」


 リコリスは扇を閉じて、にっこりと笑った。


 伊吹は息を吸った。喉が渇いていた。声がちゃんと出るか分からなかった。透は何も教えてくれなかった。この箱で何が起きるのか、伊吹は何も知らない。知らないまま、ここに立っている。


「この箱の中身は」


 声が少しだけ震えた。


「薬草が、5つだけです」


 言い終えたとき、手が小さく震えているのに気づいた。伊吹は慌ててその手を外套の陰に隠した。隠してから、しまったと思った。これでは何かを隠しているように見えてしまう。


 リコリスは目を細めた。


「ねえ、イブキ」


 リコリスは扇の先で、伊吹の手を指した。


「その手、震えてるわよ」


「寒いだけです」


「霧はもう晴れたけど?」


 伊吹は答えられなかった。寒いだけ、と言った瞬間、胸の奥がちくりと焼けたのだ。嘘ではないはずだった。半分は本当に寒かった。でも半分は違った。


 リコリスは扇を開いて、口元を隠した。


「あなたの袋、まだ灯実の酒が2本残ってるでしょう。知ってるのよ。一の関所でも二の関所でも、あなたは酒を1本も通してない。嘘がつけないから。でも薬草が5つ。値打ち15。あなたの手持ちの薬草は2束だったはず。その箱、本当に薬草しか入ってないの?」


「入ってます」


「なら、どうしてそんな顔してるの?」


 リコリスは扇をぱちりと閉じた。


「昨日まで、あなたの申告はまっすぐすぎて気持ち悪いくらいだった。それが今日は声が震えて、手を隠した。ねえ、気づいてる? あなた今、一の関所のシルヴィとおんなじ顔してるわよ」


 伊吹は唇を噛んだ。違う、と言いたかった。でも何が違うのか、自分でも分からなかった。この箱には本当に薬草しか入っていない。それなのになぜこんなに怖いのだろう。


「検めるわ」


 リコリスが言った。


「祠の中で、もう一度言い直してちょうだい」


 伊吹は箱を抱えて、縄をくぐった。


 祠の中はひんやりとしていた。軒下の灯明がまっすぐに火を立てている。神前だった。リコリスと、リコリスの会計士と、神官が一人、伊吹の後ろに続いて入ってきた。透は縄の外で待っていた。お供は申告も検めもできない。


 伊吹は灯明の前に箱を置いて、もう一度息を吸った。


「この箱の中身は、薬草が5つだけです」


 声が最後まで出た。


 祠の中に、まっすぐに響いた。一音も途切れなかった。伊吹自身が驚くほど、はっきりとした声だった。


 リコリスの顔から、笑みが消えた。


 神官が箱の封を切った。蓋を開ける。中には薬草の束が5つ、きちんと並んでいた。一番上の束に、小さな木札が結ばれていた。それ以外には何もなかった。


「申告は真にございます」


 神官が言った。


「掟のその6に従い、関守のリコリス殿は、申告された品の値打ちと同じだけ、ご自身の品を運び手にお払いくださいませ。薬草5つ、値打ち15」


 リコリスは動かなかった。


 会計士が青ざめて帳面をめくって、リコリスの袋から品を数え始めた。麦、油、薬草。値打ち15。昨日ノラに酒を取られ、セレスティアに詫びを払ったリコリスの袋は、それでほとんど空になった。


「……やってくれたわね」


 祠を出ると、リコリスは縄の外にいた透の前で足を止めた。


 声が低かった。扇を握る手が白くなるほど力を込めていた。


「最初から、これを狙ってたのね。二の関所までって期限も、酒を売らなかったのも、セレスティアから薬草を買ったのも。全部」


「はい」


 透はあっさりと頷いた。


「リコリスさんはミルさんに袋を覗かせて、伊吹の酒が残ってることを知ってた。だから伊吹がいつか酒を箱に隠すと読んでた。でも伊吹は嘘がつけない。酒を隠すことは絶対にない。それなら、酒を袋に残したまま、一番値打ちの高い品だけを箱に詰めて、正直に申告すればいい。あとはリコリスさんが検めてくれるのを待つだけです」


「待つだけって」


「伊吹には何も教えてませんでした」


 透は伊吹のほうをちらりと見た。


「伊吹は嘘がつけない。でも怖がることはできる。何も知らないまま、何かが起きると分かってる門の前に立てば、伊吹は本当に怖がる。その顔は嘘で作った顔より、ずっと本物らしく見えるんです。リコリスさんほどの人なら、必ずその顔を読む。読んで、検める」


 リコリスは長いあいだ黙っていた。


 悔しさで、唇が震えていた。目の縁が赤くなっていた。それでもリコリスは泣かなかった。大きく息を吸って、吐いて、それから扇を開いて、口元を隠した。


「最低ね、あなた」


「よく言われます」


「褒めてないわよ」


 リコリスは扇の陰で、小さく笑った。泣いているのか笑っているのか、分からなかった。


「でも商いとしては満点。悔しいけど、満点よ」


 それだけ言うと、リコリスは踵を返して去っていった。赤い髪が朝の光の中で揺れていた。


 伊吹はその場に立ち尽くしていた。


 膝が震えていた。勝ったのだ。たぶん、勝ったのだ。リコリスから値打ち15をもらって、薬草5つは献納になって、木札の束は頂上へ届く。なのに、喜ぶより先に、胸の奥がもやもやとしていた。


「透」


「うん」


「私の顔を、使ったの」


 透は少しだけ黙った。


「うん。ごめん」


 言い訳はしなかった。伊吹は透の顔を見た。透はいつもどおり穏やかに見えた。でも透はほんの少しだけ、伊吹から目を逸らしていた。


 怒るべきなのかもしれなかった。何も知らせずに、自分の怯えた顔を餌にした。それを、目の前の相手にしれっと説明してみせた。腹が立って当然だった。でも伊吹は昨日の夜、自分で言ったのだ。知らないまま門に立つ。その代わり、勝って。透は勝った。


「……勝ったから、今日はいい」


 伊吹は足元の小石を、靴の先で軽く蹴った。


「でもなんか、もやもやする」


「うん」


 透はそれ以上、何も言わなかった。広場の端で、小さな人だかりができていた。


 伊吹が近づくと、アデーレが白蓮の前に片膝をついていた。アデーレの足元には自分の巡礼袋から出した麦や油の壺が並べられていた。白蓮は困ったように首を振っていた。


「アデーレ様、いけません。わたくしは、もう」


「黙って受け取れ」


 アデーレの声はいつもより硬かった。


「お前の献納は少なすぎる。このままでは下の二人に入る。灯は一つしか残っていないのだろう」


「それはアデーレ様も同じでは」


「私のことはいい」


 白蓮の後ろで、朔が拳を握りしめていた。顔色が悪かった。朔はアデーレに向かって、低い声で言った。


「白蓮様はこの二日、ずっと加護を使っていました。霧の中で、皆の灯を頼りに歩いていたんです。目覚めたばかりの加護は、使えば使うほどお体の力を削る。昨日の夜から、ほとんど何も口にできていません」


 伊吹は白蓮の顔を見た。唇の色がなかった。頬がこけて、閉じた瞼の下に青い影ができていた。昨日、霧の中で握った手の冷たさを思い出した。胸がぎゅっと締めつけられた。


 アデーレは白蓮の手を取って、品の一つを握らせた。


「これは施しではない。騎士の務めだ。倒れそうな者がいれば、手を貸す。それだけのことだ」


 伊吹は思わず口を開いていた。


「それ、同じだよ」


 アデーレが顔を上げて、灰色の目で伊吹をまっすぐに見た。


「騎士の務めでも、施しでも、慈悲でも。呼び方が違うだけで、たぶん全部同じ。私が昨日、白蓮さんに麦を渡したのと、同じ」


 アデーレは何か言い返そうとして、口をつぐんだ。それからほんの少しだけ口の端を緩めた。


「そうかもしれんな」


 そのときだった。白蓮の体がふらりと傾いた。


「白蓮様!」


 朔が叫んだ。白蓮は手にしていた品を取り落として、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちていった。アデーレが咄嗟に腕を伸ばして、地面に倒れる寸前でその細い体を抱きとめた。


 白蓮の顔は真っ白だった。


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