第20話 第二の関所
二日目は昼を過ぎたあたりから、山道に霧が出てきた。
森を抜けて岩だらけの尾根に出たとたん、谷底から霧が上がってきた。最初は足元を薄く流れるだけだったのが、見る見るうちに膝を越え、腰を越え、気がつけば三歩先の透の背中さえぼやけて見えるほどになっていた。
冷たかった。霧の中を歩いているうちに、体がどんどん冷えていく。外套の前をかき合わせても、指先からかじかんでいった。尾根の左右は切り立った崖で、道幅は人がやっとすれ違えるほどしかない。足を一歩踏み外せば、白い霧の底へ真っ逆さまだった。
「伊吹、足元気を付けて」
「分かってる」
透の声がすぐ前から聞こえた。姿は霧の向こうでぼんやりしている。伊吹は杖で岩を確かめながら、一歩ずつ進んだ。
少し先で誰かが立ち止まっていた。
白蓮だった。朔に手を引かれていたはずなのに、朔の姿が見えない。白蓮は細い道の真ん中で、杖を握ったまま動かずにいた。外套の裾が霧に濡れて、重たく垂れ下がっている。
「白蓮さん」
「伊吹様ですか」
白蓮は声のするほうへ顔を向けた。唇の色が悪かった。
「朔さんは」
「この先の分かれ道を確かめに行っております。霧が深くて、道を見誤るといけないからと。すぐに戻ると申しておりましたので、ここで待っております」
伊吹は白蓮の手を見た。杖を握る指が真っ白になって小刻みに震えていた。
考えるより先に、伊吹は自分の手袋を外して、白蓮の両手を包み込んでいた。氷のように冷たかった。
「ひどい。いつからこんなに冷えてたんですか」
「伊吹様の手が温かいのです」
「温かいとかじゃなくて。こんなの、指が動かなくなりますよ。ほら、こうやって」
伊吹は白蓮の手を自分の両手で挟んで、強くこすり合わせた。それからはあっと息を吹きかけた。母の手がこわばった冬の朝に、いつもそうしていた。何度も、何度も。
白蓮は黙って、されるがままになっていた。やがて白い指先にほんの少しだけ血の色が戻ってきた。
「目が見えないぶん、霧はさほど怖くないのです」
白蓮が小さく言った。
「光は最初から見えませんから。ただ寒さだけはどうにもなりません。それに今は皆様の灯を頼りに歩いております」
「灯?」
「告解の間のあとから、少しだけ感じるようになったのです。人の胸に灯る、温かいもの。この霧の中でも皆様の灯がぼんやりと揺れているのが分かります。朔の灯はこの先の分かれ道のあたりに」
伊吹は手を止めた。
「じゃあ、私のも、見えるんですか」
白蓮は少しだけ黙った。閉じた目を伊吹のほうに向けて、何かを確かめるように首を傾げた。
「温かいですよ」
それだけだった。伊吹はそれ以上を聞けなかった。どうしてか、聞くのが少しだけ怖かった。
霧の向こうから足音がして、朔が戻ってきた。伊吹が白蓮の手を握っているのを見て、朔は一瞬だけ目を見開いた。それから黙って頭を下げた。
第二の祠は尾根の一番高いところにあった。
霧はいくらか薄れていたが、まだ祠の屋根は白くかすんでいた。門の前に張られた縄が霧に濡れて重たく垂れ下がっている。
神官がくじを回して、二の関所の組み合わせを読み上げた。
「セレスティア殿と、リコリス殿。イングリット殿と、アデーレ殿。シルヴィ殿と、ノラ殿」
神官が最後の札を読み上げた。
「ナルミイブキ殿と、白蓮殿」
伊吹は白蓮のほうを見た。白蓮は朔の腕に手を添えたまま、穏やかに微笑んでいた。
伊吹と白蓮の関所はあっという間に終わった。
伊吹が運び手になって、麦を2袋と油を1壺詰めた箱を台に置いた。「この箱の中身は、麦が2つと、油が1つだけです」と申告すると、白蓮は「お通りくださいませ」と即座に答えた。白蓮が運び手になったときも、申告は同じようにまっすぐだった。伊吹は迷わず通した。どちらも嘘を一つもつかなかった。疑う理由がどこにもなかった。
関所が終わったあと、伊吹は自分の巡礼袋を開けて、麦の袋を2つ取り出した。
「白蓮さん。これ、持っていってください」
「伊吹様?」
「掟のその7。取引は自由ですよね。だからあげます」
白蓮の手に麦の袋を押しつけると、背後で透が小さく息を呑む気配がした。伊吹は振り返らなかった。
「伊吹」
「分かってる」
「分かってないよ」
透はいつもより低い声で言った。
「伊吹も白蓮さんも、ランタンの火は一つしかない。下の二人に入ったら、二人とも終わりなんだ。白蓮さんに麦を渡したら、その分伊吹の献納が減る。伊吹が下の二人に落ちるかもしれないんだよ」
「分かってるって言ってるでしょ」
伊吹は透に向き直った。
「白蓮さん、さっき霧の中で、指が真っ白になってた。朔さんが道を確かめに行ってるあいだ、一人で立って待ってた。この人は何も言わないけど、たぶん一番きついのはこの人なの。目が見えなくて、灯が一つしかなくて、それでも嘘をつかないで登ってる」
声が少しだけ震えた。
「私、この人を見捨てて上に行ったって、たぶん勝った気がしない。麦2袋で落ちるなら、そのときは透がなんとかして。私は自分が嫌だと思うことはしない」
透は長いあいだ伊吹を見ていた。
何か言い返されると思った。理屈で、掟で、数字で。自分勝手だと。
でも透はふっと目を伏せて、それから小さく笑った。
「伊吹は本当に」
「何」
「何でもない。分かった。麦2袋くらい、なんとかする」
白蓮は麦の袋を両手で抱えたまま、閉じた目を伊吹に向けていた。朔が白蓮の隣で、拳を握りしめていた。
「このご恩は忘れません」
「恩とかいいです。寒いから、早く中に入ってください」
伊吹がぶっきらぼうに言うと、白蓮はくすりと笑った。広場の向こうで、怒鳴り声が上がった。
「ふざけないでよ!」
リコリスの声だった。伊吹が振り向くと、門の前でリコリスが誰かに詰め寄っていた。鼠色の鳥打ち帽を目深にかぶった少女。指の上で銅貨を一枚、のんびりと転がしている。誰だっけ、と一瞬思って、銅貨の動きを見て思い出した。王都の候補、ノラだ。名乗りの儀でも透に言われるまで顔を思い出せなかった少女だった。
「あたしの酒よ! あんたに預けたのは、あたしの酒! 運んでくれるって言ったじゃない!」
「言ったよ」
ノラは肩をすくめて、のんびりと答えた。
「運んであげるって言った。だから運んだ。シルヴィの関所、ちゃんと通したでしょ。精霊にも見つからなかったし、一本も取られてない。約束どおりだよ」
「なら、あたしの献納にしなさいよ!」
「それは言ってないなあ」
ノラはにっこりと笑った。
「運ぶとは言ったけど、あんたの献納にするとは、一言も言ってない。掟のその5。通せば、箱の中身はすべて運び手の献納となる。運び手はあたし。だからあたしの献納」
リコリスの顔が髪と同じくらい赤くなった。
「詐欺よ、そんなの!」
「掟のその7。門の前の約束は、守らずともよい」
ノラは指を一本立てた。
「でもね、あたしは一つも嘘ついてないよ。運んであげるって言って、本当に運んだ。あんたが勝手に、あたしがあんたのために運ぶって思い込んだだけ。商人のくせに、契約書も交わさないで品を預けるなんて、お嬢さまは甘いね」
リコリスは言葉を失って、拳を震わせていた。
観覧に来ていた神官たちが気まずそうに目を逸らしている。リコリスの会計士が帳面を握りしめたまま青い顔をしていた。ノラは銅貨を指で弾いて宙に飛ばし、受け止めたときにはもう手の中から消えていた。軽く手を振って、何事もなかったように祠の中へ入っていった。
伊吹は呆然と、その背中を見送った。
「今の、ありなの」
「ありだね」
透が隣で、少し感心したように言った。
「ノラさんは嘘を一つもついてない。本当のことだけで、リコリスさんを転がした。神前でもあの人は一音も詰まらないと思うよ」
そのあと、もう一つの関所でも、リコリスは痛い目を見た。
セレスティアが運び手になって、リコリスの前に箱を置いた。セレスティアは申告の前に、ほんの一瞬だけためらうように目を伏せた。それからいつもの完璧な微笑みで言った。
「この箱の中身は、麦5つだけでございます」
リコリスは目を細めた。ノラの件で頭に血が上っていたのかもしれない。セレスティアの一瞬のためらいを、リコリスは見逃さなかった。麦が5つ。値打ちはたった5。そんなつまらない箱を、あの本命がわざわざ運ぶはずがない。何かが隠してある。
「検めるわ」
セレスティアは微笑んだまま、祠の中へ入っていった。神前で、もう一度申告を言い直す。
「この箱の中身は、麦が5つだけでございます」
声は最後まで途切れなかった。
箱を開けると、本当に麦の袋が5つ入っているだけだった。リコリスは掟のその6に従って、申告された品の値打ちと同じだけ、自分の品をセレスティアに払わなければならなかった。値打ち5。リコリスの会計士が震える手で油の壺を2つと麦を1袋、セレスティアの付き人に差し出した。
「お詫び、ありがたく頂戴いたします」
セレスティアは深く頭を下げた。顔を上げたとき、その口元の微笑みは少しも変わっていなかった。目だけが相変わらず笑っていなかった。
リコリスは扇を握りしめたまま、何も言わずに祠を出ていった。すれ違うとき、伊吹はその横顔を見た。リコリスは唇を噛み切りそうなほど、悔しそうにしていた。
「わざと、怪しく見せたんだ」
透がぽつりと言った。
「正直な申告を、わざと怪しく見せる。疑って検めた関守から、詫びを取る。ためらって見せた一瞬も、たぶん計算のうちだよ。セレスティアさんのお供、相当な切れ者だ」
「怖い」
「うん。怖いね」
伊吹はセレスティアの後ろ姿を見ていた。白い法衣の背中は霧の中でひどく遠く見えた。
祠の夕餉のあと、伊吹は透を広間の隅に呼んだ。
「ねえ。リコリスさんとの約束、二の関所までだったよね」
「うん」
「じゃあ明日は、あの人は私たちの箱を検めてもいいってことでしょ。今日あれだけ損をしたあの人が、明日、何もしてこないはずがない」
透は答えなかった。灯明の火を見つめたまま、黙っていた。
「透。明日、何をするつもりなの」
「伊吹」
「分かってる。言えないんでしょ。何も知らないでいてほしいんでしょ」
伊吹は膝を抱えた。手首の水色の紐が目に入った。
「それでいいよ。もう聞かない。透がそうしたいなら、私は知らないまま明日の門に立つ。その代わり」
伊吹は顔を上げて、透をまっすぐに見た。
「勝ってよ。白蓮さんに麦を渡したぶんも、全部ひっくるめて。私が知らないまま立った門で、絶対に勝って」
透は伊吹を見返した。灯明の明かりの中で、透がほんの少しだけ迷ったように見えた。
「うん。勝つよ」
瞬きは止まらなかった。伊吹は小さく息を吐いた。胸の奥のこわばりがゆっくりとほどけていった。それだけで、明日の門に立てる気がした。




