第19話 夜の取引
値打ちのないものに値をつけるのが、商いの一番うまい儲け方だ。
リコリスは祠の夕餉の席で、黒パンをちぎりながらそう考えていた。メルクールの大商会の娘に生まれて、物心ついたころから父の膝の上で帳面を眺めてきた。十の歳には港に揚がった積み荷の値打ちを一目で言い当てられた。売り手が値打ちを知らない品を安く買い、買い手が値打ちを知っている場所で高く売る。それが商いだった。
この試練で一番値打ちのある品は灯実の酒だ。1本で値打ち8。ただし申告できない。麦や油だと嘘をついて、箱に隠して通すしかない。
つまり嘘をつけない者にとって、酒は値打ち0なのだ。
嘘をつけない者はこの祠にもいる。リコリスは広間を見回した。
黒パンの硬さに困っている盲目の巫女。
騎士の誇りを何より大事にしている甲冑の娘。
そして門の前で嘘をつくたびに声が震える、森の国の小娘。
「ベルント」
リコリスは隣の会計士を小声で呼んだ。痩せた眼鏡の男が帳面から顔を上げた。
「今夜のうちに、酒を買い集めるわ。正直者の酒よ。あの人たちには使い道のない品だもの。安く買って、あたしが運ぶ」
「心得ました。相場は」
「1本、麦2袋。向こうにとっては0の品なんだから、それでも大盤振る舞いよ」
最初に声をかけたのは甲冑の娘だった。
シュタール家のアデーレは祠の外の岩に腰かけて、剣の手入れをしていた。リコリスが近づいても顔を上げなかった。
「こんばんは、騎士さん。いい夜ね。ちょっと商いの話をしてもいい?」
「断る」
「まだ何も言ってないじゃない」
「酒だろう。広間でお前の会計士が品を数えているのが聞こえた」
アデーレは剣の刃に布を滑らせながら、静かに言った。リコリスは肩をすくめて、隣の岩に腰を下ろした。
「なら話が早いわ。あなた、門の前で嘘なんかつかないでしょ。騎士の誇りってやつで。だったら、その酒はあなたにとって、持って歩くだけ重い荷物なの。あたしが麦2袋で引き取ってあげる。損はさせないわよ」
「損得の話ではない」
アデーレは初めて顔を上げた。月明かりの下で、アデーレは灰色の目でまっすぐにリコリスを見据えた。
「嘘をつけない者から酒を買い、自分が嘘をついて運ぶ。それはつまり、私の品でお前が嘘をつくということだ。私は騎士として、嘘の片棒は担がない」
「片棒って、大げさね。あたしが嘘をつくのはあたしの勝手でしょ。あなたは品を売るだけ」
「同じことだ」
「同じじゃないわよ!」
思わず声が大きくなった。リコリスは自分で驚いて、扇を開いて口元を隠した。
「掟で許されてるのよ。門の前の嘘は。取引は自由。あなたのその誇りとやらで、あなた、このままだと下の二人に入るわよ。告解の間で灯を一つ失ってるんでしょ。次に落ちたら終わりなのに、使い道のない酒を抱えたまま、正直に麦と油だけ運んで。それで本当にいいの?」
アデーレは何も答えなかった。ただ剣を鞘に収めて、立ち上がった。
「心配してくれたことには礼を言う。だが、断る」
それだけ言って、アデーレは祠の中へ戻っていった。背筋を伸ばしたまま、一度も振り返らなかった。
リコリスは扇を閉じて、ため息をついた。馬鹿な人だ。損をすると分かっていて、誇りのために損を取る。商会ではそういう人間から順に潰れていく。
それなのになぜか胸の奥が少しだけざわついた。二人目は盲目の巫女だった。
白蓮は広間の隅で、お供の少年に髪を梳かしてもらっていた。リコリスが同じ話を持ちかけると、白蓮は閉じた目のまま、穏やかに微笑んだ。
「ありがたいお話ですけれど、お断りいたします」
「どうして? あなたも門の前で嘘はつかないでしょう」
「ええ。今度ばかりは」
白蓮は少年の手にそっと触れた。
「この子と約束したのです。今度は偽りのない道を行こうと。わたくしの酒であなたが偽りの申告をなさるなら、それは、わたくしが偽りの道を行くのと同じことのように思えますので」
少年は黙って白蓮の髪を梳き続けていた。けれど少年がほんの一瞬だけ手を止めたのを、リコリスは見逃さなかった。
また同じ理屈だった。リコリスは礼を言って引き下がった。
三人目は森の国の小娘だった。
シルヴィは祠の裏手の崖っぷちに、膝を抱えて座っていた。肩の上で、小さな光の玉がしょんぼりと明滅している。精霊のミルだ。リコリスが近づくと、シルヴィは慌てて目元を袖で拭った。
「な、なんですか」
「泣いてたの?」
「泣いてません」
嘘だった。ここは門の外だから、声にはなる。でも声が震えていた。
「セレスティアに酒を取られたんでしょ。見てたわ。あの人、怖いわよね。顔は笑ってるのに、目がちっとも笑ってないんだもの」
シルヴィはしばらく黙っていた。それから膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「わたし、嘘が下手なんです。門の前で言うだけなら言えるのに、神前に入ったら、すぐ声が止まっちゃう。ミルに中身を覗いてもらって、皆の箱の中身は分かるのに、自分の嘘は、全然うまくつけない」
「なら、酒は持ってても仕方ないわね」
リコリスはシルヴィの隣にしゃがんだ。
「1本残ってるでしょ。あたしに売って。麦2袋」
シルヴィは顔を上げて、リコリスを見た。泣きはらした目だった。胸の奥がちくりと痛んだ。リコリスは扇を開きかけて、やめた。
「……3袋でいいわ。それと、一つお願いがあるの。ミルに、今夜だけ皆の袋を覗いてきてほしいのよ。誰が何を残してるか知りたいの。その分も払う。油を1壺つけるわ」
「麦3袋と、油1つ?」
シルヴィは目を丸くした。リコリスは自分でも、なぜ値を吊り上げたのか分からなかった。相手にとって0の品に、麦3袋と油1壺。帳面に書けば、ベルントが眉をひそめるだろう。
「なによ。いらないの?」
「い、いります!」
シルヴィは慌てて頷いた。ミルが肩の上で、ぴかぴかと明るく光った。
ミルが戻ってきたのは夜も更けたころだった。
シルヴィを通して聞いた報告はほぼリコリスの読みどおりだった。アデーレの袋には酒が2本、手つかずのまま残っている。白蓮も同じだ。イングリット殿下は1本を一の関所で通したらしく、残りは1本。セレスティアの袋にはシルヴィから取り上げた分を合わせて3本。ノラの袋だけはミルがいくら探しても見つけられなかったという。
「ルーヴェの候補は?」
「酒が2本、そのまま残ってるって。麦と油は一の関所で通した分だけ減ってる。薬草は2束。片方に、何か小さな札がついてるって」
リコリスは扇を口元に当てて考えた。
嘘がつけないのに、酒を2本も残している。正直者の酒だ。値打ち0の荷物を、なぜ手放さないのか。
リコリスは広間を抜けて、祠の外に出た。
ルーヴェのお供は門の前の縄のそばに一人で立っていた。灯明の明かりがぎりぎり届く場所で、何かを待つように腕を組んでいる。
「こんばんは、トオル。夜風に当たってるの?」
「リコリスさん。こんばんは」
「単刀直入に言うわ。あなたのところの酒、売ってくれない? 2本とも。1本につき麦3袋。破格よ」
透は少しだけ考えるふりをして、それから穏やかに首を振った。
「すみません。売りません」
「どうして? あの子、嘘つけないんでしょ。門の前でも。一の関所の申告、見てたわよ。声がまっすぐすぎて、逆に気持ち悪いくらいだった。あの子にとって、酒は値打ち0の荷物よ」
「そうかもしれませんね」
「なら」
「でも売りません」
透はにこりと笑った。リコリスは透の顔をじっと見た。何も読めなかった。穏やかで、柔らかくて、底が見えない。港で百人の商人の顔を見てきたリコリスが、この男の顔からは何一つ値打ちを読み取れなかった。
そのとき祠の陰から白い衣の少女が現れた。
セレスティアだった。後ろに、若い神官のお供が控えている。ヨアンとかいう男だ。セレスティアは透の前で足を止めて、完璧な微笑みを浮かべた。
「トオル様。先ほどのお話の、薬草でございます」
ヨアンが布に包んだ薬草の束を差し出した。3束。透はそれを受け取ると、懐から小さな木札を出してヨアンに渡した。伊吹の名で書かれた、麦の譲り札らしかった。いつの間に、そんな取引をしていたのか。
「それと、お約束を一つ」
セレスティアが微笑んだまま言った。
「第二の関所で、もしわたくしとルーヴェの候補様が組になりましたら、わたくしの箱は検めないでくださいませ」
「門の前の約束ですね」
「はい。門の前の約束でございます」
「分かりました。お約束します」
透はあっさりと頷いた。リコリスは扇の陰で眉を寄せた。
門の前の約束は守らなくてもいい約束だ。掟のその7。それを、セレスティアはわざわざ持ちかけて、透はわざわざ受けた。守る気のない約束を、守らせる気のない相手と交わす。何のために。
セレスティアが去っていくと、リコリスは透に向き直った。
「今の、何? 門の前の約束なんて、紙切れ以下よ」
「そうですね」
「分かってて受けたの?」
「はい」
「なんで」
「薬草が欲しかったので」
透は手の中の薬草の束を軽く持ち上げて、また笑った。リコリスは扇を閉じた。
分からない。何一つ分からない。酒を売らない理由も、薬草を買う理由も、守る必要のない約束を受けた理由も。この男は何かを一つずつ仕込んでいる。それだけは分かる。でも何をしようとしているのか、さっぱり見えない。
悔しかった。ひどく悔しかった。商いの場で相手の手が読めないのは、生まれて初めてだった。
「ねえ、トオル」
「はい」
「あなた、どこの生まれ?」
透は笑顔のまま、少しも表情を変えなかった。
「ルーヴェの片田舎です。何もないところですよ」
縄の外だった。神前の外。この男の言葉が本当かどうか、確かめる方法はない。
リコリスは祠の中へ戻りながら、一度だけ振り返った。
透はまた縄のそばに立って、灯明の火をぼんやりと眺めていた。やっぱりこの男だ、とリコリスは思った。告解の間では天井の影を数えて、一の関所では箱の中の音を聞き分けた。何もかもを値踏みして、何もかもを覚えている。
この男、商会に欲しい。
帳場に座らせて、港に揚がる積み荷を全部見させたい。この男がいれば、メルクールで一番の商会になれる。
リコリスは扇で口元を隠して、小さく笑った。
「……婿でもいいわね」
口に出してから、自分で驚いた。冗談のつもりだった。神前の外だから、冗談でも本気でも、誰にも分からない。それなのに頬が少しだけ熱かった。




