第18話 第一の関所
山道は最初のうちは森の中を縫うように続いていた。
頭上で枝葉が重なり合って、木漏れ日が石段の上にまだらな影を落としている。どこかで鳥が鳴いていた。麓の広場の喧騒が嘘のように静かで、聞こえるのは候補たちの足音と、杖が石を突く乾いた音だけだった。
真っ先に山道へ踏み込んでいったのは、アデーレだった。銀の甲冑を鳴らしながら、重い巡礼袋を軽々と背負って、一度も振り返らずに登っていく。その後ろを、寡黙な従士が黙ってついていった。白蓮は朔に手を引かれて、一段ずつ確かめるようにゆっくりと石段を上っていた。
伊吹は巡礼袋の口を開けて、中の品を一つずつ確かめていた。麦の袋が4つ。油の壺が3つ。薬草の束が2つ。灯実の酒が2本。歩きながら数え直していると、薬草の束の一つに、小さな木札が麻紐で結ばれているのに気づいた。
「透。これ、何て書いてあるの」
木札には細い字で何かが刻まれていた。伊吹にはこの世界の字が読めない。透は札を受け取って、しばらく黙って眺めていた。
「おかあさんの、びょうきが、なおりますように」
透はゆっくりと読み上げた。
「子どもの字だね。線の太さがばらばらで、途中で何度も手を止めてる。たぶん、薬草を摘んだ村の子が、献納の束に結びつけたんだと思う。頂上の祭壇に届けば、神さまに願いが届くって」
伊吹は札を受け取って、刻まれた字を指先でなぞった。
線がところどころ震えていた。一生懸命に彫ったのだろう。小さな手で、何度も何度も小刀を握り直しながら。伊吹は母の手を思い出した。体を壊して長く病院に通っていて、朝になるとこわばって、指がうまく開かなくなる手。その手で、それでも湊の弁当を作ろうとしていた。おかあさんの、びょうきが、なおりますように。同じことを、伊吹は何度願ったか分からなかった。
胸の奥がきゅっと痛んだ。伊吹は札のついた薬草の束を、巡礼袋の一番奥にしまった。
「重いなら、俺が持ちたいところなんだけどね」
透が言った。お供は巡礼者の荷を持ってはならない。それも掟の一つだった。
「いいよ。これは私が持ってく。頂上まで」
伊吹は袋の紐を固く締め直した。
日が傾き始めたころ、森が途切れて岩肌の斜面に出た。その先に、最初の祠が見えた。
石を積んだ小さな建物で、軒下に灯明が一つ灯っている。祠の門の前には太い縄が一本張られていて、その手前に献納箱を置く台が並んでいた。縄のこちら側が神前の外で、向こう側が神前。掟のその10だった。
透は祠に着くなり、灯明と縄のあいだを何度か行き来していた。縄の手前に立って灯明の火を見上げ、それから縄の位置を目で測るように眺めている。
「何してるの」
「確かめてた。灯明の火がどこまで届くか」
「ボルクのときみたいに?」
「うん。でも駄目だね」
透は少しだけ苦笑いした。
「祠の灯明には触れてはならない。縄の外は神前の外。灯りがどこまで届こうが、縄で線が引いてある。あのときの手は最初から塞がれてる」
神殿の誰かが灯実当ての噂を聞いて掟を足したのだろうか。透はそれ以上何も言わずに、縄から離れた。
祠の前の広場で、神官がくじの箱を回した。一の関所の組み合わせが読み上げられていく。
「セレスティア殿と、シルヴィ殿。イングリット殿と、ノラ殿。アデーレ殿と、白蓮殿」
神官が最後の札を読み上げた。
「ナルミイブキ殿と、リコリス殿」
広場の向こうで、赤い髪が揺れた。
リコリスが扇を手にこちらへ歩いてくるところだった。高く結い上げた赤い髪に、巡礼の外套の下からのぞく上等な布地。後ろには眼鏡をかけた痩せた会計士が帳面を抱えて付き従っている。リコリスは伊吹の前を素通りして、透の隣で足を止めた。
「ルーヴェのお供さん。トオル、だったわよね」
「はい。リコリスさん」
「ちょっと話があるの。関所が始まる前に、少しだけいい?」
リコリスは扇で口元を隠して、にっこりと笑った。透は伊吹のほうをちらりと見てから、頷いた。
三人は広場の端に寄った。リコリスは声を落とした。
「回りくどいのは嫌いだから、単刀直入に言うわね。第二の関所まで、お互いの箱を検めない。そういう約束、しない?」
「検めない」
「そう。あなたたちの箱も、あたしの箱も、二の関所までは黙って通し合うの。疑い合って品を削り合うより、そのほうがお互いに得でしょ。告解の間を勝ち抜いたルーヴェの候補さんとは、早めに手を組んでおきたいのよ」
伊吹は眉を寄せた。話がうますぎる気がした。
「それ、門の前の約束でしょ。掟のその7だと、門の前の約束は守らなくてもいいって」
「だから、祠の軒下で神前に誓うのよ。それなら破れないでしょ」
リコリスはあっさりと言った。透が口を開いた。
「いいですよ。受けます」
「透」
「ただし、一つだけ条件があります」
透は穏やかな声のまま続けた。
「誓いを立てるときに、麦を3袋、伊吹に払ってください。神前で」
リコリスはほんの一瞬だけ扇を止めた。
「へえ。どうして?」
「伊吹は門の前でも正直な申告しかしないので」
透はさらりと言った。
「リコリスさんのほうは、たぶんそうじゃない。検めないって約束は、嘘をつく側のほうがずっと得をするんです。だからその差額をいただきたい。麦3袋なら、安いものだと思いますけど」
リコリスはしばらく透の顔を見つめていた。扇の陰で、リコリスが目を細めた。笑っているのか、値踏みしているのか、伊吹には分からなかった。
「ほんと、嫌な目してるわね、あなた」
リコリスは扇をぱちりと閉じた。
「いいわ。麦3袋、払ってあげる。商談成立ね」
伊吹は透の袖を引いた。
「ちょっと待って。それ、ずるくない? この人が箱に何を隠してても、私たちは黙って通すってことでしょ。それって、見て見ぬふりじゃない」
「掟のその7。取引は自由、だよ」
「掟の話をしてるんじゃないの」
伊吹は声を低くした。
「隠してるって分かってて通すのって、嘘に加担してるのと同じじゃない。私は嘘つかないって決めてる。人の嘘に乗っかるのも、同じくらい嫌なの」
透は少しだけ黙った。それから伊吹の目をまっすぐに見た。
「伊吹は嘘をつかない。それは変わらないよ。伊吹は自分の箱の中身を、正直にそのまま言えばいい。リコリスさんが何を隠すかは、リコリスさんが決めることだ。それを見抜くのは関守の役目で、関守は検めるか通すかを自由に選べる。俺たちは通すほうを選んで、その代わりに麦を3袋もらう。それだけだよ」
「……じゃあ、一つだけ決めとく」
伊吹は透の目を見返した。
「あの人の嘘は、あの人のもの。でも私の箱には、何があっても嘘は入れない。透が何を考えてても、それだけは変えないから」
「うん。それでいい。たぶんそれが一番強い」
伊吹は唇を噛んで、それ以上は言わなかった。納得したわけではなかった。それでも自分の線だけは自分で引いておきたかった。リコリスが扇の陰で、二人のやりとりを面白そうに眺めていた。
「仲いいのね、あなたたち」
「よくないです」
伊吹が即答すると、リコリスはころころと笑った。
祠の軒下で、リコリスは灯明の前に立って誓いを立てた。第二の関所まで、ルーヴェの候補の箱を検めない。そして麦を3袋、ルーヴェの候補に払う。伊吹も同じ誓いを立てた。灯明の火はまっすぐに立ったままで、二人の声は一つも途切れなかった。リコリスの会計士が帳面に何かを書き込んでいた。
関所が始まった。
伊吹は透に言われたとおり、献納箱に麦を2袋と油を3壺詰めて封をした。門の前で、関守のリコリスに向かって申告する。
「この箱の中身は、麦が2つと、油が3つだけです」
声はまっすぐに出た。リコリスは扇を揺らしながら、にっこりと笑った。
「いいわよ。通って」
次はリコリスの番だった。リコリスは献納箱を台に置いて、伊吹に向かって申告した。
「この箱の中身は、麦が5つだけよ」
リコリスが箱を台に置いたとき、中で何かが小さく鳴った。硬いものが触れ合うような音だった。伊吹は思わず箱を見た。麦の袋なら、あんな音はしない。
背後で、透が小さく息を吐いた。
伊吹は奥歯を噛んだ。検めれば、きっと何かが出てくる。でも誓いを立ててしまった。祠の軒下で、神前で。破れない約束を。
「……お通りください」
声は出た。約束を守る言葉だからだ。リコリスは扇の陰で、満足そうに目を細めた。
広場の向こうではほかの組の関所が続いていた。
セレスティアがシルヴィの箱を前にしていた。シルヴィが「この箱の中身は、油が4つだけです」と申告すると、セレスティアは完璧な微笑みのまま、迷わず「検めます」と言った。
祠の中から、シルヴィの声が聞こえてきた。
「この箱の中身は、油が4つ、だ」
声がそこで止まった。
だけ、の「だ」の一音だけが漏れて、あとは喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。箱の中には油のほかに灯実の酒が1本入っていた。祠から出てきたシルヴィは肩の上の小さな光の玉を両手で抱きしめるようにして、泣きそうな顔をしていた。セレスティアは酒の瓶を受け取って、相変わらず口元だけの微笑みを浮かべていた。目は少しも笑っていなかった。
伊吹は手のひらに汗をかいていた。
これがこの試練なのだ。門の前で嘘をつく。見抜かれれば、神前で一音だけ漏らして、全部を失う。見抜かれなければ、全部を持っていく。
祠の夕餉は硬い黒パンと豆と干し肉の入った熱いスープだった。
祠の奥の小さな広間に、候補とお供が肩を寄せ合って座った。伊吹がスープをすすっていると、隣で小さな音がした。白蓮が黒パンを両手で持ったまま困ったように首を傾げていた。朔は祠の外で、明日の道を祠番に尋ねに行っているらしかった。
白蓮はパンの端を噛もうとして、うまく歯が立たずに口を離した。もう一度噛もうとして、また離した。
「白蓮さん」
伊吹は自分の椀を置いた。
「それ、そのまま噛んでも無理ですよ。石みたいに硬いから。スープに浸して、柔らかくしてから食べるんです。ちょっと貸してください」
「まあ」
白蓮は素直にパンを差し出した。伊吹はパンを小さくちぎって、白蓮の椀のスープに一つずつ沈めていった。
「少し待ってから、匙ですくってください。底のほうに沈んでるのから。熱いので、気をつけて」
白蓮は言われたとおりに、匙で椀の底を探って、ふやけたパンをすくい上げた。そっと口に運ぶ。それからふわりと微笑んだ。
「美味しい」
「でしょ。うちの近所の、貧乏な家の知恵です」
「伊吹様は優しい方ですね」
「そういうんじゃないです。見てられなかっただけ」
白蓮はくすりと笑った。伊吹は顔をしかめて、自分のスープをすすった。告解の間で負かした相手に、何を世話を焼いているのだろう。でも放っておけなかった。それだけだった。
その夜、伊吹は祠の外の岩に腰かけて、星を見上げていた。
山の夜は冷えた。外套の前をかき合わせると、手首の水色の紐が目に入った。隣に透が座る気配がした。
「透。一つ聞いていい」
「うん」
「リコリスさんとの約束、なんで二の関所までなの」
透は答えなかった。
「三つ関所があるのに、二つ目まで。三つ目はどうするつもりなの。あの人の箱、何か鳴ってた。たぶん酒が入ってた。それを分かってて通したのに、三つ目で何かするつもりなんでしょ」
「伊吹」
「教えて。私、何も知らないまま、透の言うとおりに動くのは嫌。告解の間のときもそうだった。意味はあとで説明するって言われて、そのまま聞いて、勝って。勝てたのは嬉しかった。でも私が何も分かってないまま勝っても、それって私が勝ったことになるの?」
声が少しだけ震えた。寒さのせいだと思いたかった。
透は長いあいだ黙っていた。星明かりの下で、横顔がひどく静かに見えた。
「伊吹は嘘がつけないよね」
「……だから、何」
「三つ目の関所で伊吹が立つとき、伊吹の顔も、声も、手の震えも、全部本物じゃないといけないんだ。俺が何を考えてるか知ってたら、伊吹は知ってる顔になる。伊吹は嘘がつけないから、隠すこともできない。だから」
透は伊吹のほうを向いた。
「ごめん。でも言えない」
穏やかな声だった。それなのにそこだけはどうしても動かない壁のようだった。
「伊吹には何も知らないでいてほしいから」
伊吹は膝を抱えて、外套に顎を埋めた。腹が立つよりも寂しかった。すぐ隣にいるのに、透の考えていることにだけは手が届かなかった。




