第16話 新月
ランタンの温もりが半分になっていた。
白蓮は膝の上に置いた二つのランタンに、そっと両手をかざしていた。右のランタンからはいつもと変わらない柔らかな熱が手のひらに伝わってくる。左のランタンは冷たかった。硝子の表面を指でなぞっても、もう何の温もりも返ってこない。
告解の間で敗れた者は聖灯を一つ失う。分かっていたことだった。分かっていても、冷えた硝子の手触りは、胸の奥にまで沁みてきた。
大広間の裏手の、小さな控えの間だった。分厚い扉の向こうでは二組目の対局が始まっている。観覧席のどよめきが壁を通してくぐもって聞こえてくる。けれどこの部屋には白蓮と朔の二人きりだった。
朔は扉の脇に立ったまま、さっきから一言も喋っていなかった。
息の音で分かる。浅くて、速い。八つの頃から、この子の息の音を聞いてきた。笑うときの息も、怒るときの息も、熱を出して寝込んだときの息も、全部知っている。今の朔は泣くのを必死にこらえていた。
「朔」
白蓮が呼ぶと、朔は一瞬、息を止めた。
「こちらへ、いらっしゃい」
衣擦れの音がして、朔が近づいてくる。白蓮の前で膝をつく気配がした。床の石に膝が当たる、硬い音だった。
「白蓮様」
朔の声はひどくかすれていた。
「申し訳、ありません。俺の、せいです。俺が、あなたに嘘を教えた。前の晩に、像の持ち物を入れ替えて覚えさせた。慈悲の像は灯火を掲げているって。本番で、あなたの手を灯火まで連れていったのも、俺です。あなたは何も知らないまま、俺の嘘を信じて、神前で誓言まで立てて」
朔の声がそこで詰まった。
「そのせいで、あなたは灯を一つ失った。俺が余計なことをしなければ、あなたは慈悲に置いて、正面から戦えたのに。俺が」
「知っていましたよ、朔」
白蓮は静かに言った。朔が息を呑んだ。
「あなたは嘘をつくとき、声が少しだけ震えるから。前の晩、慈悲の像は灯火を掲げていますと教えてくれたとき、あなたの声は、ほんの少しだけ震えていました」
「じゃあ、なんで」
朔は声を跳ね上げた。
「分かってたなら、なんで黙ってたんですか。なんで、そのまま信じたふりなんか。あなたが一言聞いてくれれば、俺は」
「ふりではありません」
白蓮は手を伸ばした。朔の頬に触れる。濡れていた。泣くのをこらえていたのではなかった。もう、とっくに泣いていたのだ。この子はいつもそうだった。声を立てずに泣く。白蓮に気づかれないように。
「あなたが何かを隠していることには、気づいていました。でも何を隠しているのかは分からなかった。分からないまま、わたくしは、あなたを信じることにしたのです。あなたが教えてくれたことを、本当のこととして信じると決めた。だから神前の誓言も、声になったのですよ」
白蓮の指先が朔の濡れた頬をそっと拭った。
「あなたの策は見事でした。わたくしの心は慈悲にあると誰もが思う。だから慈悲を外して、ほかの徳に隠した。そしてわたくし自身にさえ慈悲だと信じ込ませれば、誓言は神前を通る。相手は誓言を信じて、慈悲を告発して、外す。本当に、見事な策でした」
「見事なもんか」
朔が吐き捨てるように言った。
「負けたんだ。あの異国の男に、全部見抜かれた。天井の影まで見られてた。俺はあなたの目の代わりのくせに、あいつの目に負けたんだ」
「いいえ」
白蓮は首を横に振った。
「負けたのはわたくしがあなたを信じたからです。それで良かったのです」
「良くない!」
朔が叫んだ。控えの間に、その声が響いた。
「良くなんかない! あなたは聖女にならなきゃいけないんだ。蓮州のために。寺院の連中にいいように使われないために。あなたが灯を一つ失ったら、もう次で負けたら終わりなんですよ。それを、俺が。あなたの目の代わりをしろって言われて、ずっとそばにいた俺が、あなたの足を引っ張ったんだ。良かったなんて、言わないでください。お願いだから」
最後のほうはもう嗚咽になっていた。
白蓮は黙って、朔の頭を胸に抱き寄せた。十五になったばかりの、まだ細い肩だった。初めて会ったとき、この子は八つで、名前もなかった。寺院の下働きの孤児で、寺の持ち物として扱われていた。白蓮の目の代わりをしろと命じられて、おずおずと手を差し出してきた小さな手を、白蓮は今でも覚えている。
名前がないのは寂しいでしょう。白蓮はあの日、そう言った。あなたを朔と呼びましょう。新月のことです。目には見えなくても、ちゃんとそこにある月。
聖女になりたい理由は蓮州のためではなかった。本当はたった一つだけだった。聖女の誓約の力があれば、寺院と朔のあいだの契約を解ける。この子を、寺の持ち物から自由にしてやれる。それだけのために、白蓮はこの選定に来たのだ。そのことは朔には一度も話していなかった。
「朔。一つ、教えてくださいな」
胸の中で、朔の肩が小さく震えた。
「どうして、希望だったのですか。勇気でも、忍耐でもなく。わたくしの心に希望がなければ、欠片は転がり落ちて、あなたの策はすぐに露見していたでしょう。それでもあなたは希望を選んだ。どうしてですか」
朔は長いあいだ黙っていた。
「……あなたが、俺のことを、灯って呼ぶから」
かすれた声だった。
「私の灯って、ときどき呼んでくれるから。だから希望にしました。あなたの心に希望があるなら、そこに俺もいるのかもしれないって。賭けたんです。欠片が沈んだとき、俺は」
朔はまた言葉に詰まった。
白蓮は朔の髪に頬を寄せた。この子はその賭けに勝ったのだ。試練には負けたけれど、一番大事な賭けには勝った。欠片は迷わず沈んだ。白蓮の心の、希望という場所に。
「ええ」
白蓮は微笑んだ。
「いますよ、朔。ずっと、そこに」
朔が落ち着くのを待って、二人は観覧席の隅に戻った。
ほかの三組の対局はもう始まっていた。白蓮には盤面は見えない。けれど問いと答えの声と、観覧席のどよめきと、蝋燭の消える小さな音を聞いていれば、だいたいの流れは分かった。
二組目はヴァルディアのイングリット殿下と、メルクールのリコリス殿だった。殿下は正攻法だった。最初の問いから、まっすぐに慈悲を聞いた。リコリス殿は沈黙のはったりで蝋燭を一本捨て、殿下に慈悲を告発させようとした。けれど殿下は乗らなかった。知恵を問い、知恵を否定させ、そこから一歩ずつ詰めて、最後は慈悲を告発して当てた。慈悲を守るために慈悲を囮にしたリコリス殿の策が、殿下の律儀な詰め方の前で崩れていくのが、音だけでもよく分かった。ヴァルディアの王女は人の言葉の傾きを感じ取るのだと、あとで朔が教えてくれた。リコリス殿の沈黙が何を守るための沈黙なのか、殿下には最初から分かっておられたのかもしれない。
三組目は大聖堂のセレスティア殿と、シュタール家のアデーレ殿だった。
それはあっという間に終わった。三手だった。
白蓮は眉を寄せた。音がおかしかったのだ。問いが発せられてから答えが返ってくるまでの間は、どの組でも、人が考えて口を開くまでの長さがある。ところがセレスティア殿の側だけ、その間が短すぎた。アデーレ殿が問いを言い終えるより先に、セレスティア殿の背後のお供が、もう耳打ちを始めていた。若い神官だった。ヨアン、と呼ばれていた。まるで問われる前から、何を問われるか分かっていたような速さだった。
四組目は王都のノラ殿と、森の国のシルヴィ殿だった。ノラ殿は最初の問いで慈悲を当てた。シルヴィ殿の肩の精霊が衝立を越えて盗み見をしていたことに、ノラ殿は気づいていたらしい。準備のあいだに何度も置き直しを繰り返して、精霊に偽りの場所を見せていたのだと、観覧席の誰かが感心したように囁いていた。
四組の対局が終わり、中庭で欠片が返された。
白蓮の手のひらに載った欠片はほんのりと温かかった。敗れた者の欠片にも、加護の蕾が宿るのだという。その温もりはまだ固く閉じた花のつぼみのように、手のひらの真ん中で小さく丸まっていた。
勝った候補の欠片に宿った加護が一つずつ読み上げられていった。イングリット殿下は正義。胸の前に天秤を提げた像の徳だった。人の言葉の傾きを感じ取る王女に、これほど似合う徳もないだろうと、白蓮は思った。
そのとき中庭がどよめいた。
「ルーヴェの候補は、慈悲に心を預けておられた」
神官の声のあとに、驚きのざわめきが広がっていく。白蓮には見えなかったけれど、周りの人々の息の呑み方で分かった。伊吹様の聖印に、今、色がともったのだ。
慈悲。
白蓮は小さく笑った。昨日の夕餉で、あの方は「ないと思いますよ」と言った。神前で、声はまっすぐに出ていた。本気でそう信じていたのだ。嘘をつかないことと、偽らないことは、同じではない。あの方は嘘をついていなかった。ただ自分の心を知らなかっただけだった。
手のひらの欠片がかすかに脈打った。
白蓮は息を止めた。閉じた瞼の裏に、何かが見えた気がしたのだ。光ではない。七つの夏に熱病で目を失ってから、白蓮は一度も光を見ていない。それでも今、瞼の裏のどこか遠いところに、小さな温もりのようなものがいくつも灯っていた。隣にいる朔のあたりに、ひときわ近く、温かいものが一つ。中庭のあちこちに、大きいもの、小さいもの、揺れているもの、静かなもの。
人の灯だ、と白蓮は思った。希望の蕾がほんの少しだけ開きかけているのかもしれない。
中庭の噴水のほうから、二人分の声が聞こえてきた。
伊吹様と透殿の声だ。
白蓮はその声のするほうへ閉じた目を向けた。
瞼の裏で、その場所だけが妙だった。伊吹様のいるはずのところに、灯は確かに一つあった。けれどそれはほかの誰の灯とも違っていた。どこか遠いところから借りてきたような、細くて、心もとない灯だった。
そしてその隣、透殿がいるはずの場所には、何も灯っていなかった。
温もりも、揺らぎも、何一つ。まるでそこには誰もいないかのように。
背筋がすっと冷たくなった。白蓮は思わず、隣にいる朔の袖を握りしめていた




