第15話 灯火を掲げる者
瞬きが止まった。
大丈夫。全部、読んであるから。そう言った透の瞬きが一度だけ止まったのを、伊吹は見ていた。嘘だ。透は全部なんて読めていない。少なくとも今この瞬間には。
それなのに不思議と腹は立たなかった。
伊吹は前に向き直った。大蝋燭はもう指の幅ほどしか残っていない。自分の前には蝋燭が1本。白蓮の前には3本。この手番で当てなければ、たぶん次はない。外せば、最後の1本が消えて終わる。
耳元で、透の声がした。
「伊吹。これを聞いて」
囁かれた言葉に、伊吹はまた眉を寄せた。さっきよりもっと意味が分からなかった。それでも透の声はもう震えていなかった。伊吹は一つ息を吸って、白蓮をまっすぐに見た。
「白蓮さんに、お聞きします」
広間が静まり返った。
「あなたは慈悲の徳は灯火を掲げると、信じていますか」
観覧席がざわめいた。何を聞いているのか、誰にも分からないようだった。慈悲の像が抱いているのは水瓶だ。この広間にいる誰もがそれを知っている。灯火を掲げているのは希望の像だ。子どもでも知っていることを、なぜわざわざ聞くのか。
白蓮は少しだけ首を傾げた。閉じた目のまま、何かを思い出すように、ほんのわずかに黙った。
「はい」
白蓮の答えはまっすぐに広間に響いた。その瞬間、白蓮の背後で朔が目を閉じた。
顔色が変わったのではなかった。朔はただ静かに目を閉じて、何かを諦めたように、細く長く息を吐いた。
耳元で透の声がした。
「希望を、告発して」
伊吹は動けなかった。
希望。白蓮の口から一度も出てこなかった徳だった。慈悲でもなく、勇気でもなく、希望。外せば終わる。蝋燭が一本消えて、ランタンの火が消えて、それで全部が終わる。さっき「全部読んである」と言ったとき、透の瞬きは止まっていた。
「透」
振り向かずに、小さな声で聞いた。
「今度は本当?」
背後で、透が一瞬だけ黙った。
「本当だよ。今度はちゃんと読めた」
伊吹は肩越しに振り返った。透の目を見た。透は伊吹の目をまっすぐに見返していた。
瞬きは止まらなかった。
伊吹は台の縁から手を離した。手のひらの汗を上着の裾で拭いて、背筋を伸ばして、広間の天井まで届くように声を張った。
「希望を、告発します」
観覧席がどよめいた。
神官が希望の像の前へ進み出た。灯火を頭上高く掲げた像だった。その火のまわりを、橙色の灯の子らがふわふわと飛び回っている。神官は白蓮の側の台座に手をかざした。
伊吹は息を止めていた。心臓の音が自分の耳にもうるさいほど響いていた。祈る神さまなんていない。それでも何かに祈っていた。
台座が光った。
淡い、橙色の光だった。台座の奥から、白蓮が納めた欠片がゆっくりと浮かび上がってきて、神官の手のひらの上に静かに載った。
「的中、にございます」
神官の声が広間に響き渡った。
「告解の間、第一の対局。勝者、ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿」
広間じゅうが一斉にどよめいた。
観覧席の貴族たちが総立ちになっていた。何が起きたのか分からずにいる者と、信じられずにいる者と、手を叩いている者が入り混じっている。伊吹の前の最後の蝋燭はまだ小さな火を灯したまま、静かに揺れていた。
膝から力が抜けた。
伊吹は台の縁にしがみついて、崩れ落ちそうになるのをどうにかこらえた。勝った。勝ったのだ。最後の一本で。手が震えていた。笑いたいのか泣きたいのか、自分でも分からなかった。振り返ると、透が一歩後ろに立っていた。いつもどおり穏やかに笑っていた。ただその額にも汗がびっしりと浮いていて、肩が大きく上下していた。
「透」
「うん」
「勝った」
「うん。伊吹が勝ったんだよ」
透はそう言って、少しだけ笑った。伊吹は何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。代わりに、透の肩布の端を拳で軽く殴った。透は避けなかった。
向かいの台で、白蓮が立ち尽くしていた。
神官の手のひらの上の欠片に、白蓮は閉じた目を向けていた。その顔から、いつもの穏やかな微笑みが消えていた。
「希望、でございますか」
白蓮の声がかすかに震えていた。
「わたくしは慈悲に置いたと、信じておりました。水瓶に、この手で触れたと。それなのに」
朔は何も言わなかった。白蓮の背後で、目を伏せたまま立っていた。
透が台の前に進み出た。決着がついたあとなら、お供が声に出して話しても咎められない。透は白蓮にではなく、その後ろの朔に向かって、静かに口を開いた。
「朔さん。準備のとき、白蓮さんの手を導いたのは、あなたですね」
朔は答えなかった。
「白蓮さんは目でなく手で徳を見分ける。だからどの像が何を持っているかは、あなたが教えるしかない。あなたは白蓮さんに、慈悲の像は灯火を掲げていると教えた。白蓮さんはそれを本気で信じて、灯火に手を伸ばした。灯火は頭の上の高さにあって、本物の火がついてる。指が火に触れて、一瞬だけ引っ込んだ。待ちの囲いの天井に、その影が映っていました」
観覧席が静まり返っていた。
「欠片は心から尊ぶ徳にしか沈まない。白蓮さんの心には、慈悲も希望もあった。だから希望の台座に置いても沈んだ。白蓮さんは慈悲に置いたと信じていたから、神前で誓言を立てても声になった。嘘じゃなかったんです。間違ったことを、本気で信じていただけで」
透はそこで、白蓮の右手に目をやった。
「その人差し指の赤み、火に触れた痕ですよね。灯実の油の匂いがついてたから、橙色の灯の子が、ずっと指先にまとわりついてた。希望の灯火の子です」
白蓮はゆっくりと自分の右手を胸の前に持ち上げた。指先のまわりを、橙色の小さな光がまだ一つ、名残惜しそうに漂っていた。
「朔さん。違っていたら、違うと言ってください」
朔は黙っていた。
神前だった。違うなら、違うと言える。言えないのは違わないからだ。広間にいる全員がそれを分かっていた。沈黙が何よりはっきりした答えだった。
伊吹はかっと頭に血がのぼった。
「なんで」
気づいたら、声が出ていた。
「なんで、そんなことしたの。白蓮さんはあんたを信じて手を引かれてたんでしょ。あんたしか頼れないって分かってて、あんたに全部預けてたんでしょ。その手を、なんで」
「伊吹様」
白蓮が伊吹の言葉を遮った。
静かな声だった。震えはもう、どこにも残っていなかった。白蓮は閉じた目を伊吹に向けて、それからほんの少しだけ、いつもの微笑みを取り戻した。
「どうか、朔を責めないでくださいませ。この子にはこの子の考えがあったのです」
「でも」
「わたくしの負けです。あなたは見事に勝たれました」
白蓮は深く頭を下げた。その背後で、朔がゆっくりと顔を上げた。伊吹と目が合った。朔は怒ってもいなかったし、悔しがってもいなかった。ひどく静かな目をして、何かを決めたようだった。
伊吹はそれ以上、何も言えなかった。白蓮が許しているものを、自分が責めることはできない。言えなかった言葉が悔しさと一緒に喉の奥に残った。
四組の対局がすべて終わったのは日が傾き始めたころだった。
候補たちは大聖堂の中庭に集められた。噴水のまわりに神官たちが並び、その中央に大神官が立っている。観覧席から流れてきた見物人が回廊の柱の陰にまで溢れていた。
伊吹は透の隣で、ほかの対局のことをほとんど覚えていなかった。自分の対局が終わってから、ずっと頭がぼうっとしていた。イングリットが勝ったことと、セレスティアがあっという間に勝ったことだけは、なんとなく覚えている。
「告解の間を越えられた皆さまに、申し上げます」
年配の神官が巻物を広げた。
「勝たれた方の欠片には、預けた徳の加護が宿りましょう。敗れた方の欠片にも、加護の蕾が宿りましょう。いずれ、しかるべきときに開くものと思われます」
神官が一人ずつ、候補の手に欠片を返していった。伊吹の手のひらに、九枚の花弁の欠片が載せられた。台座に沈んだときと同じ、薄い光る石だった。でも手のひらに載った瞬間、それはほんのりと温かくなった。春の日向に手をかざしたときのような温かさだった。手の甲の聖印がそれに応えるように淡く光った。
慈悲の加護。
一番似合わないと思っていた徳が今、自分の手の中で温かかった。なぜか目の奥がじんと熱くなって、伊吹は欠片を握った手をそっと胸に引き寄せた。
「ルーヴェの候補は、慈悲に心を預けておられた」
神官がそれを読み上げると、中庭の見物人たちがざわめいた。
「慈悲だと」
「市場で男三人を叩きのめした、あの荒くれ者が」
「神前の欠片は偽れぬ。あの娘の心には慈悲があったということだ」
ざわめきは中庭に広がって、回廊の向こうまで伝わっていった。伊吹は顔が熱くなるのを感じて、うつむいた。隣で透が笑いをこらえているのが分かった。肘で小突くと、透は「痛い」と小さく言った。
「それから」
神官が巻物の続きを読み上げた。
「名乗りの儀にて大神官様が仰せになったとおり、試練の順位は、決着の夜の灯油となりましょう。告解の間に勝たれた方には、灯油を一目盛り。決着の夜、その目盛りがランタンの灯を支えることになりましょう」
伊吹はランタンに目を落とした。一つだけ灯った火の下、硝子の底に、細い線が一本、淡く浮かび上がっていた。一目盛り。それが何の役に立つのか、伊吹にはまだ分からなかった。ただ隣で透がその線をじっと見つめているのは分かった。
儀が終わって、候補たちが散り始めた。
「透。さっきの、全部読んであるってやつ」
噴水の縁に腰を下ろしながら、伊吹は言った。透は少しだけ目を泳がせた。
「ばれてた?」
「嘘っぽかった」
「だよね」
透は困ったように笑って、伊吹の隣に座った。
「あの時点では半分くらいしか読めてなかった。白蓮さんが慈悲は灯火を掲げると信じてるかどうか、最後の答えを聞くまで確かめようがなかったんだ」
「影なんて見てたんだ。あんなに暇そうな顔して」
「高いところで、一回だけ指が引っ込んだ。熱いものに触ったときの動きだよ。それだけじゃ分からない。火がついてる像は四つある。でも手を頭の上まで伸ばして火に触れる像は、一つしかない」
伊吹は噴水の水面を見下ろした。自分の顔が水の揺れに合わせて崩れたり戻ったりしていた。
「次からはさ」
「うん」
「半分しか読めてないなら、半分って言って。全部分かってるふりされるより、そのほうがずっと踏ん張れるから。私、そんなに弱くないよ」
透はしばらく黙っていた。それから小さく息を吐いた。
「努力する」
約束する、とは言わなかった。それが透なりの正直さなのだと、伊吹にはなんとなく分かった。瞬きは止まらなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。噴水の水音だけが聞こえていた。伊吹は水面に映る透の横顔を見ていた。
立ち上がりかけたとき、伊吹はふと、中庭を見下ろす回廊の二階に目をやった。
柱の陰に、白い法衣の大神官が立っていた。手には小さな革の帳面を持っている。大神官は中庭の伊吹をしばらく見下ろしてから、帳面に何かを書きつけた。それから顔を上げて、もう一度伊吹を見た。
大神官は相変わらず穏やかな顔をしていた。それでも手番三で伊吹が黙ったあの瞬間を、大神官が少しも見逃していなかったことだけは分かった。




