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負けたら王都が沈むので、嘘の通じない聖女選定を嘘つき幼馴染と頭脳戦で勝ち抜く  作者: 宵星 凪


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第14話 嘘で勝つのはダサい

 慈悲(じひ)を、告発して。


 透の言葉を伊吹は頭の中で繰り返した。台の縁を握ったまま、向かいの白蓮(はくれん)を見た。閉じた目。胸に当てた右手。たった今、神前(しんぜん)で一音も途切れずに言い切られた誓言(せいげん)。この世界の人間は神前で嘘をつけない。だったら、白蓮の心は慈悲にある。


 迷う理由はどこにもなかった。


「白蓮さんにお聞きします」


 声が広間に響いた。自分の声が思っていたよりずっと大きく聞こえた。


「あなたは慈悲の徳を、何より尊(とうと)びますか」


「はい」


 白蓮は迷わず答えた。その声もまた、まっすぐに広間に響いた。伊吹は息を吸った。


「慈悲を、告発します」


 観覧席の人々が息を呑んだ。神官が水瓶の像の前へ進み出て、白蓮の側の台座に手をかざす。灯の子らが何かを待つように一斉に動きを止めた。


 台座は光らなかった。


「外れ、にございます」


 神官がそう告げた瞬間、伊吹の前の祈りの蝋燭が一本、ふっと消えた。細い煙が一筋、まっすぐに立ちのぼっていく。


 広間が大きくどよめいた。


「外れだと」


「慈悲に預けたと、誓言で言ったではないか」


「神前で、偽りが通ったというのか」


 観覧席のあちこちで、貴族たちが腰を浮かせていた。神官たちが顔を見合わせている。大神官だけが一段高い席で微動だにせず、静かに目を細めていた。


 伊吹は消えた蝋燭を見下ろしていた。煙の匂いが鼻をついた。残りは2本。たった1手で、3本のうちの1本が消えた。指先が冷たくなっていくのが分かった。


 振り返ると、透の顔から血の気が引いていた。


 初めて見る透だった。ボルクの台の前でも、魔導師の前でも、透はいつも穏やかな笑みを崩さなかった。その透が唇をわずかに開いたまま、白蓮の台座を見つめて固まっていた。何かを必死に数え直しているようだった。外れたのだ。透の読みが。


「後手、ナルミイブキ殿の手番は、これにて終わりにございます。先手、白蓮殿、手番をどうぞ」


 白蓮の背後で、朔が身をかがめた。


 朔は白蓮の台座でも観覧席でもなく、まっすぐに伊吹の顔を見ていた。何かを見つけたようだった。伊吹は自分の顔に手をやりかけて、止めた。さっき、慈悲という言葉を自分の口で言ったとき、自分はどんな顔をしていたのだろう。水瓶の台座に吸い込まれていった欠片のことを、ほんの一瞬でも思い出さなかったと言えるだろうか。


 朔が白蓮の耳元に何かを囁いた。白蓮が小さく頷いた。


「伊吹様にお聞きいたします」


 白蓮の細い声が静まり返った広間に響いた。


「あなたは慈悲に、心を預けましたか」


 心臓が一度大きく跳ねた。


 はい、と答えれば終わりだ。白蓮は次の手番で慈悲を告発して、それで決着がつく。黙れば蝋燭が1本消える。残りは1本になる。どちらを選んでも、後がなくなる。


 耳元で、透の声がした。


「伊吹。いいえ、って言って」


 息が止まった。


「伊吹だけは言えるんだ。この世界の人は神前で嘘をつけない。でも伊吹は違う。いいえって言っても、声は出る。誰にも分からない。白蓮さんは慈悲を候補から外す。それで、まだ戦える」


 囁く声が震えていた。透の声が震えるのを、伊吹は初めて聞いた。


 伊吹は口を開いた。


 いいえ。たった三つの音だ。それを言えば、まだ戦える。負けたら、透も、王都も、あの魔導師の指一本で全部が終わる。言えばいい。言うだけでいい。


 喉の奥で、最初の音が形になりかけた。その瞬間、胸の奥が焼けた。


 召喚の夜に魔導師が指を上げたときとも、昨日の夜ランタンが細くなったときとも違う痛みだった。もっと深いところ、心臓の真ん中に、焼けた針を一本まっすぐ突き立てられたような痛みだった。伊吹は台の縁を握りしめて、歯を食いしばった。声は出なかった。出さなかった。


 十二の冬だった。病院の廊下で、父が言った。すぐ戻る。父は上着を掴んで出ていって、それきり戻らなかった。父は嘘ばかりつく人だった。調子のいい嘘で母を笑わせ、調子のいい嘘で金を借り、最後には一番大事な嘘で、家族を全部置いていった。あの日、伊吹は決めたのだ。私は絶対に嘘をつかない。あの人のようには絶対にならない。


 伊吹は口を閉じた。広間は長いあいだ静まり返っていた。


「沈黙にございます」


 神官の声と同時に、伊吹の前の蝋燭がまた1本消えた。残りは1本。煙が二筋、並んで天井へのぼっていく。観覧席がざわめいた。胸の痛みはまだ引いていなかった。額に汗がにじんで、こめかみを伝って落ちた。


 白蓮は動かなかった。


 蝋燭は3本と1本。白蓮が慈悲を告発すれば、当たって決着がつくかもしれない。でも外れれば、白蓮の蝋燭が1本消えて、偽りの告発を受けた伊吹の蝋燭が1本ともる。2本と2本。並んだまま刻限を迎えれば、引き分けで二人ともランタンを一つ失う。白蓮は告発しなかった。朔が何かを耳打ちし、白蓮はゆっくりと首を横に振った。


「告発はいたしません。手番を、お渡しいたします」


 観覧席のあちこちで、ため息が漏れた。


 沈黙は当たりだと言っているようなものだ。でも外れでもわざと黙ることはできる。蝋燭を1本捨てて、相手に告発させて、外させる。外させれば、捨てた1本は戻ってくる。白蓮たちはそれを警戒したのだ。3本と1本。このまま刻限まで逃げ切れば、白蓮の勝ちは動かない。危ない橋を渡る理由が白蓮の側にはどこにもなかった。


 それに、もう慈悲のことは聞かれない。沈黙で守った徳はこの試練のあいだ二度と問われない。その掟のおかげで、伊吹はまだ首の皮一枚で残っていた。


 伊吹は祭壇の中央に目をやった。刻限の大蝋燭はもう半分以上が溶けて、台の上に白い蝋の山を作っていた。


 背後で、透が低い声で言った。


「なんで」


 伊吹は振り返らなかった。


「なんで、言わなかったの。言えば、まだ2本残ってた。今ごろ白蓮さんは慈悲を外して、別の徳を探してた。伊吹、分かってるの? あと1本なんだよ。あと1本なくなったら、伊吹のランタンは」


「分かってる」


「分かってるなら」


「嘘で勝つのはダサいでしょ」


 伊吹は前を向いたまま言った。胸がまだ焼けていた。痛くて、声がかすれた。それでも言葉だけはまっすぐに出た。


「あんたが王都のこと考えて言ってるのは分かってる。私が負けたら、何もかも終わるのも分かってる。でもここで嘘ついて勝ったら、私は一生、あの人と同じになる。それだけは絶対に嫌なの。負けるより嫌なの」


 背後で、透が息を呑む気配がした。


「あの人って」


「勝つなら、本当のことだけで勝つ。それができないなら、最初からこんなところに立ってない」


 伊吹は台の縁から手を離して、背筋を伸ばした。胸の痛みが少しずつ引いていく。代わりに、腹の底が熱くなってきた。喧嘩の前の熱さだった。


「だから透。嘘以外で、勝ち方を考えて。あんたなら、できるでしょ」


 透は長いあいだ黙っていた。


 観覧席のざわめきも、大蝋燭のはぜる小さな音も、全部が遠くに聞こえた。伊吹は振り返らずに待った。透がどんな顔をしているのか、見なくても分かる気がした。


「……一つだけ、聞いてほしいことがある」


 透の声はもう震えていなかった。


「意味はあとで説明する。今はそのまま聞いて」


 耳打ちされた言葉を聞いて、伊吹は眉を寄せた。わけが分からなかった。それでも伊吹は顔を上げて、白蓮をまっすぐに見た。


「白蓮さんに、お聞きします。あなたは手で触れて、徳を見分けましたか」


 観覧席が静まった。何を聞いているのか、誰にも分からないようだった。白蓮もほんの少しだけ首を傾げて、それから答えた。


「はい」


 その瞬間、白蓮の背後で、朔の顔から血の気が引いた。


 ほんの一瞬だった。すぐに無表情に戻った。それでも伊吹は見逃さなかった。昨日の夕餉から一度も表情を崩さなかった朔が、今、確かに顔色を変えた。白い頬がさらに白くなっていた。


「告発はしません」


 伊吹は言った。透の耳打ちの続きはそれだけだった。


 手番が白蓮に移った。朔が白蓮の耳元に何かを囁く。さっきより長い囁きだった。


 伊吹は息を詰めて、その囁きを見ていた。心臓の音が耳の奥でうるさかった。慈悲のことはもう問われない。でも告発なら、どんな問いのあとでもできる。白蓮が腹をくくれば、いつでも慈悲を撃てるのだ。さっき自分が黙ったことを、朔は見ていた。次に白蓮の口から慈悲という言葉が出たら、それで終わる。ランタンの火が消えて、透も、王都も、あの魔導師の指一本で全部が終わる。


 言わないで。


 祈るような気持ちになっている自分に、伊吹は驚いた。神さまに祈ったことなんて、一度もなかったのに。台の縁を握る指が白くなっていた。白蓮は少しだけ間を置いてから、閉じた目を伊吹に向けた。


「伊吹様に、お聞きいたします。あなたは勇気に心を預けましたか」


 勇気。


 膝から力が抜けかけた。慈悲じゃない。伊吹は台の縁にすがるようにして、まっすぐに立ち直った。


「いいえ」


 声が出た。本当のことだからだ。それでもまだ息はつけなかった。問いのあとには告発がある。白蓮がここで慈悲を告発すれば、何もかも同じことだった。白蓮の唇がわずかに動いた。伊吹は奥歯を噛みしめた。


「告発はいたしません。手番を、お渡しいたします」


 伊吹は長く、細く息を吐いた。吐ききるまで、自分がずっと息を止めていたことに気づかなかった。背中に汗がびっしょりと張りついていた。手番がまた伊吹に戻ってくる。


 大蝋燭の炎が蝋の山の中で低く揺れていた。残りはもう、指の幅ほどしかない。次の手番がたぶん最後になる。伊吹の前には蝋燭が1本。白蓮の前には3本。


 伊吹は台の縁を握り直した。手のひらが汗で滑った。


「透」


 振り向かずに、小さな声で聞いた。


「勝てるの」


 背後で、透が答えた。


「大丈夫。全部、読んであるから」


 伊吹は肩越しに、ほんの少しだけ振り返った。


 透は笑っていた。いつもどおりの穏やかな笑みだった。瞬きが一度だけ止まった。


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