第13話 九つの像
待ちの囲いの中は思っていたよりずっと狭かった。
四方を背の高い木の衝立に囲まれて、大人が二人立てばいっぱいになるくらいの広さしかない。衝立の高さは伊吹の背丈の倍ほどもあって、外の様子は何も見えなかった。見えるのは真上に四角く切り取られた天井だけだ。告解告解の間の高い天井に、壁沿いの燭台の明かりが薄くぼんやりと映っている。
先手の白蓮が欠片を納納め終えるまで、伊吹たちはここで待たなければならない。
足元に毛氈が敷いてあるせいで、まったく足音がしなかった。衝立の向こうで、白蓮朔が像の輪の中を歩いているはずなのに、何の音も聞こえない。聞こえるのは観覧席のかすかなざわめきと、自分の心臓の音だけだった。
伊吹は衝立に背中を預けて腕を組んだ。落ち着かなかった。手のひらがじっとりと湿っている。喧嘩の前なら、こんなふうにはならない。殴る相手が目の前にいれば、体が勝手に動く。でもここには殴る相手がいない。勝ち負けを決めるのは目に見えない何かだった。
「ねえ、透。ちゃんと分かってるか確かめたいから、簡単に言って。これ、要するに何を競うゲームなの」
隣で天井を見上げていた透が少しだけ考えた。
「心の当てっこだよ」
「当てっこ」
「うん。お互い、9つの徳のどれか1つに自分の心を預ける。預けられるのは本気で大事にしてる徳だけ。それを先に当てたほうが勝ち。使っていいのは、はいかいいえで答えられる質問だけ。神前だから、相手は嘘がつけない。黙ることはできるけど、黙れば蝋燭が1本消える。当てずっぽうで告発して外しても、1本消える。3本ぜんぶ消えたら、そこで終わり」
透はそこで、ようやく伊吹のほうを見た。
「つまりね、伊吹。これは相手が一番大事にしてるものを、言葉だけで裸にする勝負なんだ。剣も拳もいらない。問い一つで心の扉を一枚ずつ開けていって、最後の一枚を先に開けたほうが勝つ」
伊吹は黙って聞いていた。心の扉。一番大事にしているもの。それを何百人という観客の前で、言葉だけでこじ開けられる。背筋がぞくりとした。怖いのとは少し違った。喧嘩の前、相手と目が合った瞬間に腹の底が熱くなる、あの感じに似ていた。
「上等じゃない」
伊吹は拳を手のひらに打ちつけた。乾いた音がしたはずなのに、毛氈と衝立に吸われて、ほとんど響かなかった。
「開けられる前に、こっちが全部開けてやる」
「うん。伊吹なら、そう言うと思った」
透は少し笑って、また天井に目を戻した。しばらくぼんやりと見上げている。
「……何見てんの?」
「天井」
「見れば分かるよ。何かあるの」
「別に。暇だから」
透は本当に退屈そうに天井を眺めていた。伊吹もつられて見上げた。燭台の明かりが何重にも重なって、天井にはぼやけた薄い影がいくつも揺れているだけだった。人の頭らしき影がゆっくりと動いている。白蓮か朔の影だろう。でもどっちの方向にいるのかさえ分からなかった。
そのとき細い腕の影がすうっと天井近くまで伸びた。
ほかの影よりも少しだけくっきりしていた。腕の先の輪郭がちらちらと揺れている。燭台の火はどれも揺れていないのに、その影の先だけが揺れていた。次の瞬間指の影がびくりと引っ込んだ。それからもう一度ゆっくりと伸びて、止まった。
しばらくして影は下りていった。
伊吹は首が痛くなって、天井から目を離した。透はまだ見上げていた。さっきと同じ、退屈そうな顔のままだった。
「透、本当に暇なんでしょ」
「うん。暇」
衝立が外から叩かれた。見習いの神官が交代を告げに来たのだった。
囲いを出るとき、入れ替わりに白蓮と朔が入ってきた。すれ違いざま、ふわりと甘い匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだった。ボルクの台で、祠の灯明で嗅いだ匂いに似ている。伊吹は一瞬だけ振り返ったが、衝立の扉はもう閉じられていた。
像の輪の中に立つと、観覧席の人々が一斉に自分を見たのが分かった。
九体の像が伊吹をぐるりと取り囲んでいた。水瓶、剣、重荷、蝋燭、書物、天秤、灯明、灯火、鍵。火のともった持ち物のまわりを、灯の子らがふわふわと飛び回っている。手のひらの上に、神官から渡された小さな欠片が載っていた。聖印と同じ、九枚の花弁の形をした、薄い光る石だった。
透が背後に立った。耳元で、ほとんど息だけの声がした。
「一番、伊吹らしくない徳に置いて。そのほうが読まれにくいから」
「らしくない?」
「白蓮たちは伊吹のことを噂でしか知らない。噂の伊吹が一番尊ばなさそうな徳に置けば、最後まで後回しにされる」
伊吹は九体の像を見回した。勇気はたぶんらしすぎる。正義もたぶん読まれる。忍耐は微妙なところだ。それから腰に水瓶を抱えた像に目が止まった。
昨日の夕餉で白蓮に聞かれたばかりだった。あなたの心に、慈悲はございますまいね。ないと思いますよ、と自分は答えた。荒くれ者。男三人を叩きのめした乱暴者。王都中がそう噂している。
「なら、慈悲でしょ。私に一番似合わない」
「伊吹」
「いいから。どうせ沈まないんだし。沈まなかったら、次を考える」
伊吹は水瓶の像の前に立った。台座の上の小さなくぼみに、欠片をそっと置く。どうせ転がり落ちる。そう思って、手を離した。
欠片が沈んだ。
水面に石を落としたみたいに、音もなく台座の中へ吸い込まれていった。くぼみにはもう何も残っていなかった。台座の表面が一瞬だけ淡く光って、それから元の冷たい石に戻った。
伊吹は動けなかった。
「……え」
嘘でしょ、と言いかけて、唇を噛んだ。指先がかすかに震えていた。慈悲。一番似合わないと思っていた徳だった。ついさっきまで、自分の中にはないと信じていた徳だった。昨日の夜、白蓮の前ではっきり「ない」と言ったのに。あれは嘘ではなかった。本当にそう思っていた。それなのに欠片は迷いもせずに沈んでいった。
「なんで」
声が漏れた。
「なんで沈むのよ。おかしいでしょ、こんなの。私、そんなの持ってない。持ってるわけないじゃない。だって私は」
「伊吹」
透が伊吹の肩を強く掴んだ。
「声。言葉に気をつけて」
はっとした。今、自分は何を言おうとしていたのか。欠片がと言いかけてはいなかったか。この世界の人間なら声にならないその言葉を、ここで口にしていたら。観覧席の何百人という人間がそれを聞いていた。
伊吹は口を押さえて、深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「……ごめん」
「いいよ。言ってない。大丈夫」
透の声は落ち着いていた。それがなぜか余計に腹立たしかった。
「透は知ってたの」
「何を」
「私がこれに沈むって」
透は少しだけ黙った。それから伊吹にしか聞こえない声で言った。
「沈むとは思ってなかった。でも驚いてはいないよ。ネネの手首に軟膏を塗ってたのは、誰だったっけ」
「あれは手が勝手に動いただけ」
「それを、この世界じゃ慈悲って呼ぶんだと思う」
「知ったようなこと言わないでよ」
伊吹は透を睨んだ。透は目を逸らさなかった。
「知ったようなことじゃない。ずっと見てきたんだよ。昔から。いじめられて泣いてた俺の前に、毎回飛び出してきたのは誰だった? あれも手が勝手に動いただけ?」
伊吹は何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。顔が熱かった。怒っているのか、恥ずかしいのか、自分でも分からなかった。
「……置き直さないからね」
「うん。置き直さなくていい。そこが一番いい。白蓮たちは絶対に最後まで慈悲を疑わない」
伊吹は水瓶の像に背を向けた。一度も振り返らなかった。
二人が北と南の台の前に向かい合って立つと、神官が刻限の大蝋燭に火を入れた。
白蓮の前の台にも、伊吹の前の台にも、祈りの蝋燭が3本ずつ灯された。小さな3つの火が伊吹の目の前で静かに揺れている。これが全部消えたら、終わりだ。引き分けでも、終わりだ。
観覧席の最前列に、ほかの候補たちが並んで座っていた。イングリットは背筋を伸ばして、腕を組んでこちらを見ている。リコリスは扇で口元を隠して、面白そうに目を細めていた。セレスティアは完璧な微笑みのまま、膝の上で手を重ねている。その少し後ろ、一段高い席に、白い法衣の大神官が座っていた。大神官は皺の奥の目で、まっすぐに伊吹を見ていた。
「先手、蓮州の候補、白蓮殿。手番をどうぞ」
神官の声が広間に響いた。
白蓮は台の前で、閉じた目を正面に向けていた。背後に朔が立っている。朔が身をかがめて、白蓮の耳元に何かを囁いた。白蓮は小さく頷いて、それから右手をそっと自分の胸に当てた。
「誓言を、立てさせていただきます」
観覧席がざわめいた。初手から誓言。問いの代わりに一度だけ使える手札を、白蓮はいきなり切ってきた。
白蓮は胸に手を当てたまま、静かに、はっきりと言った。
「私は慈悲の徳に心を預けたと、信じております」
広間がどよめいた。
神前の誓言だ。この世界の人間は神前で嘘を口にできない。偽りなら、声にならない。白蓮の声は最後まで一音も途切れずに広間に響いた。つまり、白蓮の欠片は慈悲にある。誰もがそう受け取ったようだった。
伊吹は白蓮を見ていた。胸に当てた白蓮の右手を見ていた。
人差し指の先がほんの少し赤かった。名乗りの儀のときにはなかったはずの赤みだった。その指先のまわりに、小さな橙色の光が一つ、さっきからずっとまとわりついている。灯の子だ。ほかの子らは像の火のまわりを飛んでいるのに、その橙色の子だけが、白蓮の指先から離れようとしなかった。
それが何を意味するのか、伊吹には分からなかった。背後で、透が息を吸う気配がした。
手番が伊吹に移る。神官が伊吹の名を呼んだ。ナルミイブキ殿、手番をどうぞ。伊吹は台の縁を握りしめた。何を問えばいいのか、まだ何も決まっていなかった。
耳元で透が囁いた。いつもの穏やかな声で、少しも迷わずに。
「慈悲を、告発して」




