第12話 開戦
候補の館の食堂は夕餉の時刻になってもがらんとしていた。
八人の候補のうち、ここで食事をとる者は半分もいないらしい。王女や大商会の娘は自分の部屋に料理を運ばせるのだと、給仕の老人がこっそり教えてくれた。長い卓の端に、伊吹と透は向かい合って座った。豆と根菜の煮込みに、固いパン。宿の食事より少しだけ味が濃かった。
食べ終えかけたころ、食堂の入口に二つの人影が現れた。
先に入ってきたのは黒い髪を短く切りそろえた少年だった。伊吹たちと同じくらいの歳で、東方風の詰め襟の上着を着ている。少年は自分の左腕を軽く曲げて、後ろに続く少女の手をそこに添えさせていた。少女は名乗りの儀で見た、細い肩の候補だった。白蓮。目は今日も閉じたままだった。
少年は少女を卓まで導くと、椅子を引いて、座面に少女の手を触れさせた。少女がそれを確かめて腰を下ろす。少年は皿の位置を一つずつ少女の指先に教え、それからようやく自分も隣に座った。一連の動きに、迷いが一つもなかった。何百回、何千回と繰り返してきたのだろう。
透がその二人を見ていた。正確には二人のあいだの距離を見ていた。肩が触れそうなほど近い。それなのに少年は少女の体には一度も触れていなかった。
「ルーヴェの方ですね」
少年のほうが先に口を開いた。抑揚の少ない、乾いた声だった。
「蓮州の白蓮様のお供をしております、朔と申します。明日、お手合わせいただくことになりました」
「ご丁寧にどうも。透です。こっちが」
「鳴海伊吹さん。存じております」
朔は表情を変えずに伊吹のほうを見た。
「名乗りの儀の前の晩、市場で男三人を叩きのめしたそうですね。王都の酒場では今日はその話でもちきりでした。読売にも載っていましたよ。ルーヴェの新しい候補は、とんでもない荒くれ者だと」
伊吹はパンをちぎる手を止めた。
「先に刃物を抜いてきたのは、向こうですけど」
「そうなんですか。噂にはそこまで載っていませんでした」
朔は本当に初めて聞いたようだった。嫌味ではないのだと分かって、余計に腹が立った。ネネのことも、ボルクの椀のことも、噂にはどこにも書かれていない。残ったのは娘が男三人を地面に転がしたという、それだけだった。
「荒くれ者で結構です。困ってる子を放っておけって言うなら、私は何回でも同じことをします」
「伊吹」
透が小声でたしなめた。伊吹はかまわず白蓮のほうを見た。白蓮は閉じた目のまま、伊吹の声のするほうへ静かに顔を向けていた。
「市場の噂はわたくしも朔から聞きました」
細く澄んだ声だった。
「伊吹様。あなたの心に、慈悲はございますまいね」
責める口ぶりではなかった。白蓮はただ、確かめるようにそっと尋ねた。伊吹は少し考えて、正直に答えた。
「ないと思いますよ。私、そういうの、一番似合わないので」
ここは大聖堂の敷地の中だ。神前の内だった。それでも伊吹の声はまっすぐに出た。白蓮はしばらく黙っていた。それから閉じた目のまま、ほんの少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「嘘をつかないことと、偽らないことは、同じではないのですよ」
「どういう意味ですか」
「いつか、お分かりになると思います」
白蓮はそれだけ言うと、朔に導かれて匙を手に取った。それ以上は何も言わなかった。伊吹は言い返す言葉を探して、見つからなかった。嘘なんかついていない。似合わないものを似合わないと言っただけだ。それなのに胸の奥に小さな棘が刺さったまま、抜けなかった。
その夜、伊吹は部屋の寝台に腰かけて、卓の上のランタンを眺めていた。
夕餉のあと、透は「少し出てくる」と言って部屋を出ていった。すぐ戻るとは言わなかった。行き先も言わなかった。窓の外はもう真っ暗で、廊下の燭台の明かりが扉の隙間から細く漏れている。
ランタンの火がほんのわずかに揺れた。
伊吹は息を詰めて、胸に手を当てた。痛みは来なかった。火は少しだけ細くなったが、昨日のようには縮まない。透はそれほど遠くには行っていないのだ。伊吹は寝台を降りて、扉をそっと開けた。
長い廊下の一番奥だった。ルーヴェの部屋の並びの突き当たりに、もう一つ扉がある。司祭と魔導師が選定のあいだ寝泊まりする部屋だと聞いていた。その扉の前に透が立っていた。透は扉を一度だけ叩いて、中からの返事を待たずに入っていった。扉が閉まる直前、部屋の奥に黒い外套の裾が見えた気がした。
伊吹は扉の陰で、しばらく突き当たりの扉を見つめていた。どうしてあの男のところへ、自分に黙って行くのか。胸の奥がざわざわして、いつまでも落ち着かなかった。
透が戻ってきたのはそれから一時間ほどしてからだった。伊吹は寝台の上で膝を抱えたまま、顔も上げずに聞いた。
「どこ行ってたの」
「奥の部屋。司祭さんのところ」
「あいつもいたでしょ」
透は少しだけ黙った。
「いたよ」
「何、話してたの」
「明日のこと」
伊吹は顔を上げかけて、やめた。透の目を見れば、瞬きで嘘かどうかは分かる。でも見たくなかった。もし止まっていたら、明日の告解の間で、透の言うことを信じられなくなる。透はそれ以上何も言わずに、自分の寝台に横になった。背中を向けて、灰色の肩布を枕元に畳んで置く。
「透」
「何」
「……別に。おやすみ」
「うん。おやすみ」
伊吹は布団をかぶった。聞けばよかったのかもしれない。でも聞いて答えてもらえなかったら、たぶん自分はもっと腹が立つ。それが分かっていたから、聞けなかった。ランタンの火は透が戻ってきたときから、また元の大きさで静かに揺れていた。
*
翌朝、二の鐘が鳴る前に、候補たちは大聖堂の奥の大広間に集められた。
告解の間、と呼ばれているらしい。円い広間だった。高い天井の真ん中が丸く開いていて、そこから朝の光が差し込んでいる。壁沿いにはいくつもの燭台が並び、何十本もの蝋燭が灯っていた。広間の外周は階段状の観覧席になっていて、もう貴族や神官たちで埋まりかけている。
広間の中央に、石の像がぐるりと輪になって並んでいた。
全部で九体。どれも人の背丈ほどの大きさで、それぞれ違うものを手にしている。台座には一体ずつ、徳の名が刻まれていた。伊吹には読めない。透が隣で、小声で一つずつ読み上げてくれた。
・慈悲 腰に水瓶を抱えた像
・勇気 剣の切っ先を天に掲げた像
・忍耐 背に重荷を負い、縄をかけられた像
・純潔 清めの蝋燭を腰の前で捧げ持つ像
・知恵 胸元に開いた書物と燭台を抱く像
・正義 天秤を胸の前に提げた像
・謙遜 膝元に灯明を置いて膝をつく像
・希望 灯火を頭上高く掲げた像
・信仰 胸の前で鍵を握る像
「九つの徳、か。徳紐の色も、たぶんこの九つなんだろうね」
透はそう言って、もう一度だけ像の輪をぐるりと見回した。持ち物の高さを、一つずつ確かめるように。
そのうちの四体の持ち物には本物の火がともっていた。清めの蝋燭と、書物の燭台と、膝元の灯明と、頭上の灯火だ。火のまわりを、豆粒ほどの小さな光がいくつもふわふわと飛び回っている。白、赤、青、金、橙。蛍のようにも、生き物のようにも見えた。
「あれ、何」
伊吹が小声で聞くと、透も首を傾げた。答えたのは広間の中央に進み出た年配の神官だった。
「お気づきの方もおられましょう。あれなるは灯の子らにございます」
神官は像の火を手で示した。
「神前の灯に寄ってくる、小さきものたちでございます。害はございませぬ。灯実の油の火をことのほか好みますゆえ、試練のあいだも、ああして火のまわりを飛び回っておりましょう。どうぞお気になさらずに」
神官は咳払いを一つして、手にした巻物を広げた。
「これより、第一の試練、告解の間の掟をお伝えいたします」
広間がしんと静まった。
・その1 候補は衝立の陰で、自らの祭壇の9体の像のうち1体の台座に、聖印の欠片を納める。欠片は納める者が心から尊ぶ徳の台座にしか沈まない。尊ばぬ徳に置けば転がり落ちる。置き直しは何度でもかまわない
・その2 欠片を納めるのは候補本人の手で行う。ただし、身体に障りのある候補は、お供の手を借りることを許す
・その3 手番の者は相手に「はい」か「いいえ」で答えられる問いを1つする。問いに含めてよい徳の名は1つだけとする
・その4 答える者は「はい」「いいえ」「沈黙」のいずれかで答える。沈黙した者は祈りの蝋燭を1本失う
・その5 問うた者は続けて徳を1つ告発できる。外れれば、告発した者は自らの蝋燭を1本失い、偽りの告発を受けた者の消えた蝋燭が1本ともる
・その6 問いの代わりに1度だけ、自らについての誓言を立てられる。誓言の手番は告発できない
・その7 沈黙で答えた徳について、相手はこの試練のあいだ2度と問うことはできない。ただし、告発はできる
・その8 告発が当たるか、相手の蝋燭が尽きれば決着とする。刻限の大蝋燭が燃え尽きたときは、残りの蝋燭の多い者を勝ちとする。同じ数なら、両者とも聖灯を1つ失う
・その9 お供は候補の背後に立ち、手番ごとに1度だけ耳打ちをしてよい。声に出して語ってはならない
「沈黙は罪にあらず、と申します。神は一度口を閉ざした心を、重ねて暴かせはなさいませぬ。そして偽りの告発を受けた者には、神が償いをお与えになる。その5とその7は、そういう掟にございます」
神官は巻物を巻き戻しかけて、ふと思い出したように顔を上げた。
「なお」
「欠片、像、納める、隠す。そして場所や数を示す言葉。これらは告解の間の神前では、声になりませぬ。何番目の像か、右か左か、などと問うことはできませぬので、お心得おきくださいませ」
誰かが伊吹の袖を引いた。透だった。顔は前を向いたまま、唇だけをほとんど動かさずに囁いた。
「伊吹。今の言葉、絶対に口に出さないでね」
「なんで」
「伊吹だけは声が出ちゃうからだ。この世界の人なら神前で声にならない言葉が、伊吹の口からは普通に出る。そうなったら、ここにいる全員に、伊吹がこの世界の人間じゃないってばれる」
伊吹は息を呑んだ。透の横顔は笑っていなかった。
「それと、さっきの掟のその8。引き分けなら、両方とも聖灯を1つ失う」
言われなくても分かった。伊吹のランタンには火が1つしかない。1つ失えば、それで終わりだ。
「引き分けだけは絶対に駄目だ。負けるのも駄目だけど、引き分けは、伊吹にとっては負けと同じなんだ」
「分かってる」
伊吹は膝の上で拳を握った。分かっているのに、手のひらに汗がにじんだ。
神官の説明は続いた。欠片を納めるのは一人ずつ。先手が先に納め、後手はそのあいだ、輪の真ん中に置かれた「待ちの囲い」に入って待つ。四方を背の高い衝立で囲った小さな部屋で、天井だけが開いている。中からは外の様子が何も見えない。像の輪の内側の床には厚い毛氈が敷き詰められていて、足音一つ立たないようになっていた。告解は心を明かす場だから、昔からそういう習わしなのだという。
伊吹は毛氈を靴の先で踏んでみた。本当に何の音もしなかった。
「祈りの蝋燭はお一人に三本ずつ」
神官が言うと、見習いの神官たちが各候補の前に小さな台を運んできた。台の上に、白い蝋燭が三本並んでいる。祭壇の中央には一際太い刻限の大蝋燭が据えられた。
「四組の対局はこの大広間にて順に執り行います。皆さまには互いの対局をご覧いただくことになりましょう。最初の組はルーヴェの候補と、蓮州の候補」
観覧席がざわめいた。噂の荒くれ者と、東方の盲目の巫女。初戦にしては見物人にとってこれ以上ない組み合わせなのだろう。
広間の反対側に、白蓮と朔が立っていた。朔は白蓮の手を自分の腕に添えさせたまま、昨日と同じ無表情で、まっすぐこちらを見ていた。白蓮は閉じた目を、伊吹のほうへ向けていた。
神官が小さな木の箱を差し出した。中に、くじの札が二枚入っている。
「先手と後手を、くじにてお決めくださいませ」
朔が白蓮の手を導いて、箱の中へ差し入れた。白蓮は札を一枚つまみ上げて、指先でその表をそっとなぞった。刻まれた印を確かめるように、ゆっくりと。
それから閉じた目のまま、静かに微笑んだ。
「先手を、いただきました」




