第11話 お供
候補の館は大聖堂の裏手の回廊を抜けた先にあった。
白い石造りの三階建てで、八人の候補とそのお供が、選定のあいだここで寝起きする。ルーヴェにあてがわれたのは二階の一番奥の部屋だった。寝台が二つと、小さな卓と、窓辺に置かれた燭台。窓からは大聖堂の尖塔が見える。宿の部屋に比べれば、天と地ほどの差だった。
伊吹は卓の上に置いたランタンを、しばらく黙って眺めていた。小さな火が一つだけ、硝子の中で静かに揺れている。隣のランタンは空のままだった。
「伊吹、見て」
振り向くと、透が扉の前で両腕を広げていた。肩から胸にかけて、灰色の布が斜めに掛けられている。名乗りの儀のあとで、神官から渡されたものだった。お供の印なのだという。
「どう?」
「似合わない」
「即答だね」
「だって灰色だし。透、昔からそういう地味な色、全然似合わないじゃない。顔だけ浮いてる」
「顔だけ浮いてるって、褒めてるのそれ」
「褒めてない」
透は肩布の端をつまんで、困ったように笑った。伊吹は前を向き直った。本当はそんなに似合わなくもなかった。ただそれを口にするのがなんとなく嫌だった。
扉が叩かれたのは日が傾きかけたころだった。
入ってきたのは司祭だった。昼間よりは顔色がいいが、目の下にうっすらと隈が浮いている。その後ろから、黒い外套の男が音もなく続いた。
伊吹は思わず背筋を強張らせた。
「ウィレム殿も、ぜひお二人のお顔を見たいと仰せになりまして」
司祭が申し訳なさそうに言った。結果だけ知らせよ、と言っていたはずの男だった。魔導師は部屋の中をゆっくりと見回し、卓の上のランタンに目を留めた。一つだけ灯った火を見て、魔導師はわずかに唇の端を持ち上げた。
「一つ、でございましたか」
それだけだった。責めるでもなく、驚くでもない声だった。伊吹は胸の奥がざわつくのを感じたが、黙っていた。この男の前では何を言っても、全部見透かされている気がした。
司祭が場を取りつくろうように、手にしていた包みを卓に置いた。王都の菓子屋の焼き菓子だった。
「名乗り、お見事でございました。大神官様に、あのように申し上げられる方は、そうはおられませぬ。肝が冷えましたが」
「すみません。あのとき、司祭さんの手が払われたのを見たら、頭に血が上っちゃって」
「いえ、いえ。わたくしのためにお怒りくださったこと、ありがたく存じております」
司祭は目尻を下げた。それからふと伊吹の手首に目をやった。伊吹は思い出して、聞いてみた。
「司祭さん。徳紐って、何なんですか。市場で、紐を一本も巻いてないって笑われたんですけど」
司祭の顔が少し曇った。
「徳紐は告解の謝礼でございます。神殿で心の内を打ち明けて、灯に浄めていただいた者は、謝礼を納めて、打ち明けた徳の色の紐を授かるのです。慈悲なら水色、勇気なら赤、という具合に。手首に巻いておれば、それだけ告解を重ねた、信心深い者だという証になります」
「じゃあ、お金がない人は」
「巻けませぬ。謝礼を納められぬ者は、紐も授かれませぬので」
司祭は小さくため息をついた。
「本来、告解に謝礼など要らぬのです。灯は誰の心も等しく照らしますゆえ。ですがいつの頃からか紐の数で人を量る者が増えてしまいました。嘆かわしいことでございます」
伊吹は自分の何も巻いていない手首を見下ろした。ネネの手首には紐が一本もなかった。代わりに、火傷の痕だけがいくつも重なっていた。
「じゃあ私、いりません。紐」
「イブキ様」
「お金で買える信心なんて、別にほしくないので」
司祭は目を丸くして、それから困ったように、少しだけうれしそうに笑った。透が卓から立ち上がった。
「司祭さん、少しいいですか。選定のしきたりのことで、いくつか聞いておきたいことがあって。ここだと、伊吹が退屈しちゃうから」
司祭が頷いて、扉のほうへ向かう。透はその後を追いながら、何気ない調子で振り返った。
「伊吹、ちょっと司祭さんと話してくる。すぐ戻る」
すぐ戻る。胸の奥がひやりと冷たくなった。
十二のときだった。台所で母が倒れて、救急車を呼んで、病院の廊下で父がそう言った。すぐ戻る。父は上着を掴んで出ていって、それきり戻らなかった。あの日の病院の廊下の消毒液の匂いを、伊吹は今でも覚えている。
何も言えずにいるうちに、透は扉の向こうへ消えていた。閉まる直前、透が一瞬だけ伊吹の顔を見つめた気がした。
部屋には伊吹と魔導師だけが残された。
魔導師は窓辺に立ったまま、何も喋らなかった。伊吹も何も喋らなかった。廊下を遠ざかっていく二人分の足音が、階段を下りていく。一階に着いて、回廊のほうへ曲がる。それも聞こえなくなった。
そのときだった。卓の上のランタンの火がぐらりと大きく傾いた。
風は吹いていない。窓も閉まっている。それなのに硝子の中の小さな火が誰かに吹き消されかけたように細く、細く縮んでいく。
胸に焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。
「っ、あ」
息が詰まった。伊吹は胸を押さえて、椅子ごと床に崩れ落ちた。椅子が倒れる音がやけに大きく響いた。痛い。召喚の夜、魔導師が指を一本持ち上げたときと同じ痛みだった。凍えるように冷たいのに、内側から焼かれている。
伊吹は床に手をついたまま、顔を上げた。
魔導師は窓辺から一歩も動いていなかった。指も上げていない。ただ床に這いつくばる伊吹と、消えかけたランタンの火を、面白い芝居でも眺めるように見下ろして、薄く笑っていた。
「あんたがやってるの」
声がかすれた。魔導師は答えなかった。首をほんの少しだけ傾げて、それから窓の外へ目をやった。何かを待っているようだった。
階段を駆け上がってくる足音がした。
一段飛ばしの、乱れた足音だった。扉が乱暴に開いて、透が飛び込んできた。肩で息をして、灰色の肩布がずり落ちかけている。
「伊吹!」
透が部屋に踏み込んだ瞬間、胸の痛みがすっと引いた。
卓の上のランタンの火が何事もなかったように元の大きさに戻って、静かに揺れていた。伊吹は床に手をついたまま、肩で息をした。額から汗が一粒、床に落ちた。
透が膝をついて、伊吹の肩に手を伸ばした。伊吹はその手を払いのけた。
「触んないで。平気だから」
「平気な顔じゃないよ」
「平気だって言ってるでしょ」
自分の声が震えているのが分かって、伊吹は唇を噛んだ。透は払われた手を引っ込めずに、宙に浮かせたまま、じっと伊吹を見ていた。
遅れて、司祭が息を切らして戸口に現れた。床の伊吹と、卓の上のランタンを見比べて、司祭の顔からみるみる血の気が引いていった。
「今、回廊の窓から、こちらの窓の明かりが、ふっと消えかけるのが見えまして。トオル殿がそれを見るなり駆け出して」
司祭は震える手で胸の聖印を握りしめた。
「お二人が離れたとたんに、灯が細くなった。そういうことで、ございましょうか」
誰も答えなかった。透は眉を寄せて、ランタンと伊吹と、それから戸口のほうを順番に見ていた。何かを数えているようだった。
窓辺で、魔導師だけが笑っていた。
「理由はさておき」
魔導師はゆっくりと戸口のほうへ歩きながら言った。
「どうやら、そういうことのようでございますな。大事になさいませ。その灯は一つしかございませぬゆえ」
魔導師が戸口をくぐって出ていく。司祭は魔導師の背中と伊吹の顔を何度も見比べてから、深く頭を下げた。
「イブキ様。わたくしにもなぜこのようなことが起きたのか分かりませぬ。分かりませぬが、お供は候補のおそばを、あまり離れぬほうがよろしいかと。どうか、お気をつけて」
扉が閉まって、部屋に二人きりになった。
伊吹は倒れた椅子を起こして、それに座り直した。膝にまだ力が入らなかった。透は卓の向かいに腰を下ろしかけて、やめて、伊吹のすぐ横の床に座った。
「ごめん」
「何が」
「離れたこと。あんなふうになるって分かってたら、離れなかった」
「分かるわけないでしょ。誰も分かってなかったんだから」
伊吹は膝の上で拳を握った。悔しかった。痛かったことより、怖かったことより、あの男の前で床に這いつくばって、透が戻ってくるまで何もできなかったことが、どうしようもなく悔しかった。
「冗談じゃない」
声が漏れた。
「透がそばにいないと、立ってもいられないなんて。そんなの、冗談じゃないわよ。私は自分の足で帰るの。誰かがいないと駄目になるなんて、絶対に嫌。ずっとそうやってきたのに、なんでこんなところに来て、急に」
喉が詰まって、続きが出てこなかった。伊吹は顔を背けた。泣いてはいなかった。泣くつもりもなかった。
透はしばらく黙っていた。
「じゃあ、俺が伊吹の隣にいる」
静かな声だった。
「伊吹が自分の足で立ってられるように、ずっと隣にいる。伊吹が歩くほうに、俺もついて歩く。それなら、伊吹は自分の足で歩いてることになるだろ。誰かに支えてもらってるんじゃなくて、隣に誰かがいるだけなんだから」
「屁理屈」
「屁理屈だよ。でも本当だよ」
伊吹は透の顔を見た。
正確には目を見た。屋敷の夕飯で、お供になるのを「そのつもりだった」と言ったあのときも、伊吹は透の目を見ていた。あのとき、瞬きは止まらなかった。嘘ではなかった。それでも全部を話してはいない気がした。何を隠しているのかまでは分からない。分からないまま、ここまで来てしまった。
今の透の瞬きは一度も止まらなかった。
「前にも言ったけど」
伊吹はぶっきらぼうに言った。
「足引っ張ったら、殴るから」
「うん。知ってる」
透は笑った。伊吹は鼻を鳴らして、司祭が置いていった焼き菓子の包みを乱暴に開けた。一つを口に放り込むと、やけに甘かった。張りつめていた肩から、少しだけ力が抜けた。甘いものは苦手だったはずなのに、なぜか全部食べてしまった。
伊吹が焼き菓子の包みを畳んでいると、透がぽつりと口を開いた。
「さっき、しきたりのことって言ったけど。……あれ、半分だけホントなんだ」
伊吹は手を止めた。透は少しだけ目を伏せてから、声を落とした。
「伊吹がこうなったの、たぶん俺のせいだから。黙ってるのは違うと思って。……大神官様に会えないか、司祭さんに聞きに行ったんだ。ウィレムさんに知られないように、こっそり全部打ち明けられないかなって」
「それで」
「無理だった。選定のあいだは候補もお供も、自分から大神官様を訪ねられない決まりなんだって。試練を決める人だから、誰か一人と内緒で会っただけで選定が汚れる。書状を出しても、灯守の神官が何人も目を通す。会えるのは、大神官様のほうから呼ばれたときだけらしい」
透は卓の上のランタンに目をやった。小さな火はもう何事もなかったように揺れていた。
「それに、俺が司祭さんにその話を切り出して、ほんの何分かでこれだよ。偶然だとは思えない。どうやって知ったのかは分からないけど、あの人は分かってたんだと思う。俺たちが動こうとしたことを」
伊吹は胸に手を当てた。さっきの痛みを思い出しただけで、背中がすっと冷たくなった。
「次に同じことしたら、今度は脅しじゃ済まないよね。あいつ、本当に私の胸の火を燃やして、王都ごと沈める気でしょ」
「うん。だから、もうやらない。頼れないなら、頼らずに済むくらい勝てばいい」
その日から、透は一度も「すぐ戻る」と言わなくなった。伊吹がそれに気づくのはずっと後のことになる。
日が沈みきったころ、また扉が叩かれた。
今度は白い法衣の若い神官だった。蝋で封をした書状を両手で差し出して、儀礼通りの抑揚のない声で読み上げた。
「ルーヴェの候補、ナルミイブキ殿に申し上げます。第一の試練は告解の間。明朝、二の鐘より執り行います」
神官は一度言葉を切って、書状の最後の行に目を落とした。
「ルーヴェの候補のお相手は、蓮州の候補、白蓮殿にございます」




