第8話 三十八年の記録
「行く」
出発の朝、レンが荷台の縁に座っていた。前と同じ場所だった。
「今回は駄目だ」
「なんで」
「学院の人と一緒だから。人が多い」
嘘ではなかった。全部でもなかった。
レンはしばらく俺を見ていた。それから、何も言わずに荷台から降りた。降り方は身軽だった。門のところで立ち止まって、こちらを見なかった。
「一週間で戻る」
返事はなかった。
馬車が動き出してから、アリシアが小さく言った。
「よかったんですか」
「よくないです」
それ以上、二人とも話さなかった。
北線・第十七杭は、王都から半日の丘の上にあった。
草原の杭と同じ形をしていた。同じ直径、同じ幾何学模様、同じ位置に同じループ。三百本が同じ図面から写されているというのは、こういうことだった。
違うのは、繋がっていることだ。上に第十六杭があり、下に第十八杭がある。汲み上げた魔力は北から南へ、杭から杭へ渡されて、最後に王都へ入る。第十七杭の下流には、家がある。
ハウゼンは先に着いていた。木の箱を三つ、地面に並べている。
「計器です」
箱を開けた。中の球は、学院の計測球より一回り小さく、金具で台に固定されていた。
「精度は」
「小数第二位まで」
俺はハウゼンを見た。
「学院の備品は第一位までですが」
「学院の備品は、年に一度しか較正せん。これは月に一度、私が合わせている」
ハウゼンは三つ目の箱から、革の手帳を出した。分厚い。角が丸くなっている。
「三十八年分だ」
開いて見せた。日付と、杭の番号と、数字。それだけが、びっしり並んでいた。
ハウゼンが数ページめくった。どのページも同じだった。日付、番号、数字。
理由が、どこにも書かれていない。
最初の三日は、何もしなかった。
三本の杭に計器を据えて、毎日同じ時刻に一回分を送り出し、値を記録する。それだけだ。
第十七杭の理論値は二十・〇。実測は、初日が二十六・一、二日目が二十五・四、三日目が二十六・八だった。
「……ばらつきます」
「当たり前だ」
ハウゼンは手帳に書きながら言った。
「地脈の流れが日によって違う。雨の後は増える。乾けば落ちる。汲み上げる量が違えば、送る量も違う」
「草原の杭では、ばらつきませんでした」
「あれは末端で、送り先もない。汲み上げる量も知れとる。使われとらんものは安定する」
俺は自分の清書を思い出した。十五・八、十五・九、十五・八。三回測って、ばらつかないから信用できると書いた。
ばらつかない理由が、誰も使っていないからだとは書かなかった。書けなかった。気づいていなかったからだ。
「上の杭は、何のために測るんですか」
「その日の地脈の強さが出る。十六が高い日は、十七も高い。比べるなら、そこを見ろ」
三本を要求した理由が、ここで分かった。上流は物差しだ。下流は結果だ。真ん中だけ測っても、その日が強かったのか弱かったのかが分からない。
「三日で足りますか」
「足りん。だから一週間と言った」
四日目の朝、アリシアが刻んだ。
草原のときと同じ作業だった。膝をついて、線の太さを合わせて、一時間半。違うのは、隣に施設管理長が立っていて、彼の手帳に開始時刻と終了時刻が書かれたことだった。
「終わりました」
その日の測定。
第十六杭は前日とほとんど同じ値だった。地脈の条件は揃っている。
第十七杭、二十・四。
俺は数字を二度見た。理論値が二十・〇だから、差は〇・四。前日は二十六・八だったから、六・四下がったことになる。
アリシアが息を吐いた。ハウゼンは何も言わずに、次の箱へ歩いていった。第十八杭の計器だ。
俺もついて行った。
三十一・九。
「……前日は」
「二十五・九だ」
六・〇、増えていた。
丘の上で、三人とも黙っていた。
計算するまでもなかった。第十七杭で六・四減って、第十八杭で六・〇増えている。差引〇・四。この日の測定誤差より小さい。
「捨てる場所が、変わっただけです」
俺は言った。
仕組みは分かった。逃がした魔力は地面に散るのではなく、そのまま下流へ流れていた。第十八杭には、同じループがある。上流から余計に入ってきた分は、そのループに入って、そこで熱になって消える。
第十七杭は綺麗になった。第十八杭が、その分を引き受けた。全体としては、一滴も減っていない。
「元に戻す条件でしたね」
「その日のうちにな」
アリシアが道具を取った。
自分が今朝刻んだ線を、彼女は削った。同じ姿勢で、同じ手つきで、元の形に戻していく。三十分ほどで終わった。石の表面には、削り直した跡がわずかに残った。
再測定。第十七杭、二十六・五。第十八杭、二十六・〇。前の値に戻った。
日が傾いていた。
「三十八年前だ」
ハウゼンが言ったのは、片づけを終えた後だった。
「南線の第九杭で、同じことをやった」
俺は顔を上げた。
「若い頃にな。ループを見つけたわけじゃない。消費が多いのは知っていたから、外へ抜く経路を足せば減ると思った。減った。下流が増えた。差引ゼロだ」
ハウゼンは手帳を出した。前の方のページを開いて、俺に渡した。
三十八年前の日付があった。南線・第九杭。二十九・七。翌日、二十三・一。その下の行に、南線・第十杭。二十四・〇が、二十九・八になっていた。
俺が今日見たものと、同じ形の数字だった。
「戻したんですか」
「戻した。三日で始末書だ」
「その後は」
「その後は、何もない。三十八年、測っとるだけだ」
俺は手帳を返さずに、次のページをめくった。次のページも、その次も、日付と番号と数字しかない。
「ハウゼンさん」
「何だ」
「なぜ、書かなかったんですか」
「何をだ」
「差引ゼロになった理由です。下流に移るだけだから一本ずつ直しても無駄だと、あなたは三十八年前に知っていた。書いてあれば、俺は今日、同じことをしなくて済みました」
ハウゼンは手帳を見ていた。
「……誰も読まん」
「読みます」
「読む奴がおらんかった。三十八年、一人もな」
「今日、来ました」
風が吹いていた。ハウゼンは俺の手から手帳を取って、閉じた。それから開き直して、今日のページを見た。
しばらくして、鉛筆を出した。
数字の隣に、一行書き足した。何を書いたのかは見えなかった。
その夜、宿で記録を書いた。
三日間のばらつき。上流を物差しにしたこと。修正後の値。下流の増加。差引〇・四。元に戻した時刻。それから、俺が最初に立てた仮説が間違っていた理由を書いた。
千五十という数字は、意味を失った。一本あたり三・五の無駄は本当にある。ただし、一本だけ直しても、その三・五は隣へ移るだけだ。三百本を掛け算した俺の計算は、直せる前提が間違っていた。
直すなら、末端から順に、全部やるしかない。三百本を一度に。最後の一本を直したとき、初めて、捨てる場所が無くなる。
それがどれだけの仕事量になるのかは、まだ計算できない。
書き終えて、俺はもう一枚、同じものを写した。写しの最後に一行だけ足した。
『この方法は失敗する。理由は上記の通り。次に同じことを考えた者は、ここから始めてほしい』
翌朝、ハウゼンに渡した。彼は受け取って、読んで、手帳に挟んだ。
「三十八年後に、誰か来るかもしれません」
「来んだろう」
「来なくても、置いておくものです」
ハウゼンは何も言わなかった。ただ、挟んだ紙が落ちないように、革紐を一周多く巻いた。
一週間後、学院に戻った。
裏門を入ると、レンが石段に座っていた。いつからいたのかは聞かなかった。
「戻った」
「ふうん」
「飯、食った?」
「まだ」
立ち上がって、先に歩き出した。振り返らずに、少し先で待っている。俺はついて行った。
この一週間に起きたことを、俺はほとんど全部、紙に書いた。失敗も、間違いも、三十八年前に同じ失敗をした男のことも書いた。書いておけば、いつか誰かが読む。
書かなかったことが、まだ一つある。
メモの四行目は、今夜も空いたままだ。




