第7話 学院長
「この数字、何に相当するんですか」
翌朝、俺は清書した紙をアリシアに見せた。千五十という数字を指した。
「王都の街灯を一晩灯すのに必要な魔力が、八百ほどです」
「……街灯」
「主要な通りだけですが」
三百本の杭が、毎日一回ずつ送る。そのたびに三・五が消える。合わせて千五十。街灯一晩分より、少し多い。
国が傾く量ではなかった。むしろ、だから誰も気にしなかったのだろう。毎日、街灯一晩分をどぶに捨てても、王都は普通に明るい。
それが二百年続いている。
「学院長に、報告します」
アリシアが言った。
「私が説明しますので、桐島さんは記録の内容についてだけ答えてください」
「無理です」
俺は言った。
「魔法陣を刻んだのはアリシアさんですけど、設計したのは俺です。俺が答えないと、質問が一往復無駄になります」
学院長室は、書庫よりも本が少なかった。
机の上に紙が一枚もない。学院長オルグレンは白髪の男で、俺たちが入ってきても立ち上がらなかった。ただ、手を出した。
「記録を」
俺は清書を渡した。オルグレンは読んだ。目が上から下へ動き、また上に戻った。二度読んだ。
「測定は何回だ」
「修正前に三回、修正後に三回です」
「間隔は」
「連続です。杭が回復する時間を置いていません」
「なら、修正後の値が低いのは疲労のせいかもしれん」
俺は少し黙った。
「……その可能性は排除できていません」
「排除しろ。日を変えて測り直せば済む」
これは正しい。俺が見落としていた。
「計測球は学院の備品だな」
「はい」
「持ち出しの記録がある。馬車の手配記録もある。裏門から、三人で出ている」
オルグレンは顔を上げなかった。読みながら喋っていた。この人は、俺たちが来る前から全部知っていたのだと分かった。
「誰が刻んだ」
「私です」
アリシアが答えた。
即答だった。
俺は隣を見た。彼女は学院長を見ていた。
草原で、俺が設計図を石に書いたとき、彼女は道具を取った。俺には施工ができないからだと思っていた。それだけではなかったのだと、ここで気づいた。無資格者が刻めば違法行為で、有資格者が刻めば手続き違反だ。罰の重さが二桁違う。彼女は最初から、そういう配分で立っていた。
「ハウゼンを呼べ」
オルグレンが言った。
施設管理長ハウゼンは、腕の太い、六十くらいの男だった。学者には見えなかった。記録を渡されると、その場で立ったまま読んだ。
読み終えて、最初に言った。
「この修正は、余った魔力を外へ逃がす経路を足したものだな」
「そうです」
「逃がした先はどこだ」
「……台座の外です。地面に散ります」
「三・五が、地面に」
「はい」
ハウゼンは記録を机に置いた。
「あの杭は、送り先を失った支線の末端だ。逃がしても、何も起きん。次に繋がっていないからな」
「はい」
「本線の杭は次に繋がっている。逃がした魔力が隣の杭に流れ込んだらどうなる。隣は、想定より多い入力を受ける。そこにも同じループがある。過剰な入力がループに入ったら、何が起きる」
俺は答えられなかった。分からなかったからだ。計算していない。
「分かりません」
「分からんことを、三百本に適用しようとしたわけだ」
「はい」
「君は」
ハウゼンは俺を見た。
「副作用が出ない場所だけを選んで、実験した」
部屋が静かになった。アリシアが何か言おうとして、俺は手で止めた。
「その通りです」
俺は言った。
「検証条件が甘かった。あの一本は、実験しやすいから選びました。実験しやすい条件で出た結果を、そのまま他に当てはめようとしていました。俺の落ち度です」
ハウゼンは何も言わなかった。
「一つ聞かせてください」
俺は続けた。
「どこを、どう測れば、あなたは納得しますか」
ハウゼンの眉が動いた。
「……何だと」
「あなたは俺より、この設備を知っています。俺が測るべきだったものを、あなたは言えるはずです。教えてください。その通りに測ります」
長い沈黙があった。ハウゼンは腕を組んで、天井を見た。それから言った。
「上下の隣接杭を、同時に測れ。三本同時だ」
「はい」
「一回では駄目だ。一週間、毎日測れ。日ごとの変動を出せ」
「はい」
「計器は私のものを使え。学院の備品は精度が揃っていない」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ承認していない」
オルグレンが指を組んだ。
「本線から一本。ハウゼン立ち会い。彼の計器。一週間の連続観測。上下の隣接杭を含む。副作用が確認された時点で、その日のうちに元へ戻す」
「はい」
「三百本の話は、それが終わるまで一切するな。数字が出るまで、君は何も証明していない」
「はい」
「アリシア・フォン・エルドレイン」
「はい」
「手続き違反は記録に残す。処分は結果を見てから決める」
アリシアは頭を下げた。
俺は、もう一枚の紙を出した。
第三障壁の術式を調査したい、という申請だった。昨夜書いたものだ。
オルグレンは受け取り、目を通した。
「理由が書いていない」
「……防護術式の欠陥の分布を、調べたいと考えています」
「地脈杭と何の関係がある」
「今のところ、ありません」
「なぜ第三障壁なのだ。防護術式なら学院内にいくつもある」
答えられなかった。
あの壁を通り抜けた子がいます、と言えば済む。属性を持たない、庶民街の子です。そう言えば、たぶん調査は通る。学院は彼女を調べたがるだろう。研究対象として、あるいは保安上の問題として。
あの本の一行が浮かんだ。属性は、後から加えたものである。あれと繋がれば、レンは単なる珍しい子では済まなくなる。
「言えません」
俺は言った。
オルグレンは紙を机に置いた。押し返した。
「理由を言えない申請は、通せない」
「分かりました」
「不服か」
「いえ。俺が逆の立場でも、通しません」
廊下に出た。
中庭を横切るとき、学生が三人、噴水のところで話していた。声が途切れた。こちらを見ていた。
通り過ぎるとき、後ろで小さな声がした。
「あの人だって」
「エルドレイン卿の術式に、間違いがあったとか」
「二百年前のが、全部だめだって」
俺は歩調を変えなかった。アリシアも変えなかった。中庭を出てから、彼女が言った。
「早すぎます」
「学院長室を出て、まだ十分ですよ」
「ええ」
誰かが漏らしたのではないかもしれない。備品の持ち出し記録も、馬車の手配記録も、見ようと思えば誰でも見られる。三人で裏門から出て、半日かけて戻ってきた。それだけの事実が、勝手に形を作ったのだろう。
どちらにしても、もう止まらない。
食堂に行くと、レンがいた。
二人分の皿を前に置いて、片方を食べていた。もう片方は俺の分らしい。
「遅い」
「怒られてた」
「なんで」
「石に落書きしたから」
「私も怒られたことある」
レンは自分の皿に戻った。何も聞かなかった。今日どこへ行ってきたのか、あの数字が何を意味するのか、この子は知らない。
俺はスープを飲んだ。冷めていた。
その夜、面談の記録を書いた。
日付。出席者。オルグレンの指摘——測定間隔を置いていないこと。ハウゼンの指摘——逃がした先の未計算、隣接杭への影響、条件選択の偏り。それに対する俺の回答。承認された条件。却下された申請とその理由。
全部書いた。自分が間違っていた部分は、間違っていたと書いた。あとで読み返す人間がいるとして、その人間に必要なのは俺の正しさではなく、何が検証されて何がされていないかだ。
書き終えて、俺はもう一度読み返した。
どこにも、レンの名前がない。
第三障壁の申請を出した理由も、なぜ却下されたかの本当のところも、この紙には無い。この記録だけを読んだ人間には、俺が意味もなく壁を調べたがって断られたようにしか見えないだろう。
記録に残らないものは、無かったことになる。
俺はそれを、二百年分、見てきたばかりだ。書かなかった人間たちを、書いていないという理由で責めてきたばかりだ。
それでも、書かなかった。
メモの四行目は、今夜も空けたままにした。




