第6話 地脈杭
翌朝、アリシアは来なかった。
昼になっても来なかった。何かあったのかと思ったが、それを聞きに行く相手が彼女しかいないことに気づいて、部屋で待つことにした。
机にメモを広げた。昨夜の三行。
一、属性は後付けの可能性。要検証。
二、レンはなぜ開けたのか。要観察。
三、この本を目録から外したのは誰か。
一は測る手段がない。俺自身の属性すら測れていない。二は待つしかない。レンが次に「隙間」を見つけるまで、こちらから起こせる事象がない。三は書庫の管理記録を見る権限が要る。外来研究員にその権限はない。
できないことばかり並べた紙を、俺は裏返した。裏に一行だけ書いた。
『動くものを、一つ動かす』
前の世界で、行き詰まったときはいつもこれをやった。全部が繋がって見えてくると、どこから手を付けても間違いのような気がしてくる。そういうときは、一番小さくて、一番確実に動くものを探す。
探すまでもなかった。
ひと月前、俺は草原の地脈杭に修正案を書いた。書いただけだ。あれから一度も、あの修正案が正しかったかどうかを確かめていない。
アリシアが来たのは、日が傾いてからだった。
「遅くなりました」
それだけ言った。昨日のことには触れなかった。俺も触れなかった。目の下に隈があった。
「検証したいことがあります」
「何をですか」
「転移してきた日に、俺が落書きした杭です。あの修正案を実際に入れたらどうなるか、まだ誰も確かめていません」
アリシアはしばらく黙っていた。それから椅子に座った。
「学院の管理下にある魔法陣は、術式の変更に評議会の承認が必要です。前例のない変更なら、審査に半年はかかります」
「半年」
「それも、申請できる資格のある者が出した場合です」
俺に資格がないことは、言われなくても分かった。
「ただし」
とアリシアは言った。
「あの杭は、学院の管理下にありません」
「えっ」
「王都から半日の草原に、二百年放置されている支線の末端です。目録にも、管理台帳にも載っていません。誰のものでもない。……つまり、誰の許可も要りません」
即答だった。
「調べたこと、あるんですね」
アリシアは答えなかった。俺を見ずに、窓の外を見ていた。
「明日、行きましょう。道具を用意します」
翌朝、学院の裏門に馬車を待たせた。荷台にアリシアが木箱を積んでいる。
「どこ行くの」
レンだった。いつのまにか荷台の縁に座っていた。
「草原。魔法陣を直しに行く」
「ふうん」
降りる気配がなかった。アリシアが何か言いかけて、やめた。
半日かけて、俺が目を覚ました場所に戻った。
直径三メートルの石の台座。複雑な幾何学模様。ひと月前と何も変わっていない。隅の余白に俺がペンで書いた線は、半分ほど雨に流されていたが、まだ追えた。
「地脈杭って、何本あるんですか」
木箱を下ろすアリシアに聞いた。
「王国全体で、三百本ほどかと」
「全部これと同じ設計で?」
「同じです。エルドレイン卿の設計図を写して作られていますから」
同じ図面から三百個。同じ場所に、同じループ。
アリシアは木箱から、拳ほどの球を取り出した。濁った硝子のように見えた。
「計測球です。術式の発動に使われた魔力量を数値で表示します」
「精度は」
「小数第一位まで」
十分だ。
準備をしている間、俺はアリシアからもう一つの石を借りた。ひと月前、馬車の中で握ったのと同じ、属性判定の石だ。握って、押し出すイメージ、というやつを試した。何も起きなかった。
「まだ時間がかかりますね」
アリシアは道具を並べながらそう言って、それ以上は言わなかった。
俺も、それ以上は考えなかった。
「この杭は、どこへ送ってるんですか」
アリシアは地図を広げた。指が北へ動いて、止まった。
「……ここに、村があったことになっています」
「あった、というのは」
「今はありません」
「いつから」
「記録がありません」
二百年、この石は誰もいない場所へ魔力を送り続けていたことになる。ロスの話をしていたのが、少し馬鹿馬鹿しくなった。
それでも測ることにした。送り先が無かろうと、無駄が出ている事実は変わらない。それに、実験するならこれ以上ない条件だ。壊しても誰も困らないし、直った結果は残りの二百九十九本にそのまま当てはまる。
「動かせますか」
「点検用の手順があります。一回分を、手で送り出せます」
点検の手順は残っている。点検した記録はどこにもない。
アリシアが台座の外に立ち、詠唱した。
石の溝に沿って光が走った。二百年前の術式が、今も動く。光は一周して消えた。計測球に数字が浮かんだ。
「十五・八」
アリシアが言った。球を見ていなかった。
俺は球を見た。十五・八だった。
「……何回、測ったんですか」
「数えていません」
「理論値は」
「十二・〇です」
「三・八の差」
「文献に報告されている通りです。……誰も、理由は書いていませんが」
念のため三回測った。十五・八。十五・九。十五・八。ばらつきはほとんどない。安定して無駄が出ている。安定しているというのは、こういうときには良い報せだ。原因が一つだということだから。
「ここです」
俺は台座の該当箇所を指した。それから石の上に、ペンで図を書いた。
「魔力はここから入って、ここで回ります。出口がない。永遠に回り続けて、その分が熱になって消える。三・八は、たぶんこれです」
「回っている間、魔力は何をしているんですか」
「何もしていません。それが問題です」
アリシアは図を見ていた。長い間、何も言わなかった。
「……ここに、一本」
彼女が指を置いた。俺が入れようとしていた場所だった。
「一定量を超えたら、外へ逃がす。そういうことですか」
「そうです」
「分かりました」
アリシアは道具を取った。俺は聞いた。
「今、分かって刻んでますか」
彼女の手が止まった。
「……ええ」
「なら、いいです」
刻印は一時間半かかった。
アリシアは膝をついて、彫刻刀のような道具で石を削っていた。線の太さが既存の術式と寸分違わない。指が震えていない。俺は少し離れたところで見ていた。
俺には設計しかできない。彼女には施工ができる。ひと月前、馬車の中で「じゃあ一緒に考えましょう」と言ったとき、口先のつもりはなかったが、こういう形で成立するとは思っていなかった。
「終わりました」
アリシアが立ち上がった。石の粉を払い、計測球を置き、もう一度詠唱した。
光が走った。さっきより速かった。一周して消えた。
十二・三。
二人で、球を見ていた。
「理論値は十二・〇です」
「〇・三、残ってますね」
「はい」
「測定誤差か、別のロスがどこかにあるか。保留にしましょう」
三回測った。十二・三。十二・二。十二・三。
二百年間、誰にも使われないまま消えていた三・五が、消えなくなった。
アリシアは球を見たまま、小さく息を吐いた。それだけだった。俺もそれだけだった。前の世界でも、直ったときはいつもこんなものだった。
「隙間、なくなってる」
レンだった。台座の縁にしゃがんで、石を見ていた。
「何」
「ここ、隙間あったのに。なくなってる」
俺は立ち上がった。
「レン。いつからあった」
「来たときからあった。ずっと」
「どこに」
レンが指を置いた。俺とアリシアが、たった今、線を一本足した場所だった。
頭の中で、いくつかが繋がった。
第三障壁。防護術式がかかっていて、通り抜けられないはずだった。レンは通った。
封緘術式。アリシアが三度試して開かなかった。レンは開けた。
この地脈杭。無限ループがあった。レンには隙間が見えた。直したら、消えた。
「アリシアさん」
「はい」
「仮説があります。まだ仮説ですが」
俺は言った。
「レンが見ている『隙間』は、術式のバグです」
アリシアが顔を上げた。
「壁を通れたのは、あの壁にバグがあったから。本が開いたのは、封緘術式にバグがあったから。この杭に隙間が見えたのは、無限ループがあったから。……そして今、直したら、見えなくなった」
「検証は」
「第三障壁と封緘術式を調べれば済みます。どっちも学院の管理下ですが」
言いながら、俺は自分の言っていることの意味に気づいた。
レンの特性は、世界の欠陥の上に成り立っている。
そして俺の仕事は、その欠陥を一つずつ潰していくことだ。
ひと月前、俺はこの子に「制約があるから見えるものがある」と言った。あれは嘘ではない。ただ、その制約を消して回っているのは俺だ。今日、一つ消した。書庫には何万冊あるか分からない。全部直したら、この子はどこも通れなくなる。
「どうしたの」
レンが俺を見ていた。
「なんでもない」
「変な顔してる」
「腹が減った」
「私も」
帰りの馬車で、レンは荷台に寝転がって寝ていた。アリシアは計測球を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。誰も何も話さなかった。二つの太陽が沈んで、二つの月が出た。
その夜、俺は測定結果を清書した。
修正前、十五・八。修正後、十二・三。三回ずつ。日付と、場所と、変更した箇所の図。
一本あたり三・五。アリシアは三百本と言った。掛けると千五十になる。
この単位が王都で何に相当するのかを、俺はまだ知らない。それでも、誰が見ても再現できる形にしておく必要がある。いずれ、必要になる。
それから、メモを開いた。
二の行に線を引いて、書き直した。
二、レンが見る「隙間」=術式の欠陥ではないか。要検証。
答えが出たわけではない。ただ、形は変わった。観察するしかなかったものが、測れるものになった。
その下に、四行目を書こうとして、やめた。
書けば、検証しなければならない。
検証すれば、たぶん、正しいと出る。




