第5話 変わってしまった魔法
書棚の奥に手を伸ばした。
背表紙に題名がない。革の装丁は他の本と変わらないのに、俺の目にはそこだけ構造が浮き上がって見えた。引き出して机まで運ぶとアリシアが横から覗き込んだ。
「その本は」
「知りませんか」
「見たことがありません」
アリシアは目録を持ってきて、書棚の番号と照らし合わせた。しばらく指で行を追ってから顔を上げた。
「載っていません。この区画は四百年前の蔵書で、目録は毎年更新されているはずですが」
「じゃあ、誰かが載せなかったんですね」
俺は表紙を開こうとした。開かなかった。
糊付けではない。金具もない。ページに指をかけても、紙同士が離れない。力を入れると、押し返してくる感触があった。
「封緘術式です」
アリシアが言った。
「危険な術式書に施す処置です。学院の規定で、劇薬に相当する術式は封緘して管理することになっています」
「目録に載せずに?」
アリシアは答えなかった。
俺は表紙に手を置いたまま構造を追った。
円がある。魔法陣と同じだ。ただし術式としては単純で、処理はほとんどない。入力があって、判定があって、二つに分かれる。開くか、開かないか。
「これ、鍵じゃないですね」
「鍵ではない?」
「条件分岐です。触った人間の何かを見て、条件に合えば開く。合わなければ弾く。……認証ですね。合言葉でも、鍵でもない。誰でもいいわけじゃないんです、この本」
「何を見ているんですか」
「そこが見えません」
俺は正直に言った。分岐があることは分かる。判定に使っている値が何なのかは分からない。構造は見えても、中身の意味は読めない。転移してきた日から、そこは何も変わっていなかった。
「私が試してみます」
アリシアは袖をまくり、両手を表紙に置いた。
指が滑った。押さえた場所から逃げるように、本が動いたわけでもないのに、手だけが逸れた。彼女は三度やって、三度とも同じだった。
「……開きません」
「魔力は通しましたか」
「通しています。反応がありません」
黒板の前で、二人して仮説を出しては消した。
血統。エルドレイン家の人間なら開く——アリシアが弾かれた時点で消えた。
役職。学院長なら開く——それなら目録から外す理由がない。
年代。四百年前の人間しか開けない——検証のしようがない。
魔力量。多い者だけが開く——アリシアより多い人間は学院に数えるほどしかいない、と彼女が言った。
「桐島さんは試したんですか」
「最初に触りました。開きません」
黒板が消し跡だらけになった頃、窓の外が暗くなり始めていた。
扉が開いた。
「ご飯」
レンだった。書庫に来たのは初めてだ。
「もう時間?」
「とっくに過ぎてる」
レンは返事を待たずに入ってきて、机の上を覗き込んだ。本を見た。それから、なんでもないことのように言った。
「隙間、あるけど」
俺とアリシアは同時に顔を上げた。
「今、何て」
「隙間。ここ」
レンが表紙に指を置いた。俺には何も見えない。アリシアが息を止めたのが分かった。
「開けていい?」
誰も答えないうちに、レンは指を差し込んだ。
紙が、分かれた。
なぜ開いたのか、俺には分からなかった。分からないまま、開いた本を見ていた。
「レン、今、どうやった」
「隙間に指入れただけ」
「隙間はどう見えた」
「隙間は隙間」
それ以上は聞いても無駄だった。第三障壁のときと同じだ。見えている人間には、見えていない人間の見えなさが分からない。後回しにした。今は中身だ。
開いた本には、日付が並んでいた。
『三百八十二年、春。火球術式、外周円を二重に変更。理由——単円では詠唱中に魔力が偏り、術者の右手側が過熱する事例が二件。二重にすることで偏りを吸収。副作用として発動が半拍遅れる。許容と判断。記録者・ミルド』
三百八十二年。
今が何年かをアリシアに聞いて、頭の中で引き算した。四百年前になる。
俺は声を出して笑った。アリシアが驚いた顔でこちらを見た。
「すみません。……これ、変更履歴です」
「変更、履歴」
「いつ、誰が、どこを、なぜ変えたか。さっき言ったでしょう。どうしてこの形になったのかが一文字も書いてない、って。全部ここにあります」
アリシアは俺の手から本を奪うようにして、そのまま動かなくなった。
俺はページをめくった。四百年前。三百九十年前。三百七十年前。記録は年を追うごとに短くなっていった。理由の欄が消え、変更点だけになり、やがて日付と記録者の名前だけが並ぶようになった。字も、はじめの几帳面な楷書から、だんだん崩れていった。最後の数十ページは白紙だった。
白紙の手前に、最後の記入があった。二百年前——俺が転移してきた日にバグを見つけた、あの魔法陣と同じ時代だった。
急いで書いたような字だった。
『属性は、後から加えたものである。原型には、無い』
その下に『エルドレイン』と署名があった。
誰も何も言わなかった。
レンが俺の袖を引いた。
「なんて書いてあるの」
字は拾えた。意味も分かった。分かってしまった。
「……属性は、後から付けたものだって」
「後から?」
「元々の魔法には、属性は無かったって書いてある」
レンは首を傾げた。それから、自分の手を見た。
アリシアが本を閉じた。留め金もないのに、彼女の手の下で、それは静かに閉じた。
「桐島さん」
「はい」
「今日は、ここまでにしましょう」
声が硬かった。彼女は貴族で、エルドレインで、この学院の講師だ。属性が後から加えたものだとしたら、その三つが何の上に立っているのか、俺よりも彼女の方がよく知っている。
「分かりました」
俺は立ち上がった。レンが扉のところで待っていた。
その夜、部屋のメモに三行だけ書いた。
一、属性は後付けの可能性。要検証。
二、レンはなぜ開けたのか。要観察。
三、この本を目録から外したのは誰か。
三つとも、今の俺には調べる手段がない。手段がないことを書き残すのも仕事のうちだ。エルドレインはそれをやった。二百年、誰も読まなかったが。




