第39話 規則の外側
翌朝、俺はハウゼンに相談した。
詰所の狭い机で二つの束を前に置いて。ハウゼンは腕を組んで聞いていた。俺が話す間、一言も口を挟まなかった。
属性は後付けであり、判定石は属性を差し込む石だったこと。そして、その属性を本人が選び直せる方法まで証明できたこと。
俺は、そのすべてをハウゼンへ話した。
全部、話し終えると、ハウゼンは長いこと黙っていた。
「……これをどうしたい」
やっと、口を開いた。
「正式に出したいんです」
俺は言った。
「叫ぶんじゃなくて。噂で漏らすんじゃなくて。検証してくれて、記録に残してくれる場所に提出したい。地脈杭を委員会に出したみたいに。でも、俺には、その場所への伝手がありません。俺は身分証も無い外来研究員です。ハウゼンさんに、頼めないかと」
ハウゼンは、俺を見た。
「学院長か」
「はい」
「オルグレンは規則で動く男だ」
ハウゼンは言った。
「地脈杭のときもそうだった。規則に外れることはしない。規則に則ることなら、動く。お前のこの話は規則のどっちだ」
俺は答えられなかった。
属性の真実は規則に則っているのか、外れているのか。分からなかった。この国の規則そのものが、属性を前提にできている。その前提を揺るがす記録を規則で動く男が、どう扱うのか。
「分からない、という顔だな」
ハウゼンが言った。
「はい」
「俺にも分からん」
ハウゼンは、腕を組み直した。
「だが、ひとつ、言えることがある。お前のこの記録は正しい。俺は地脈杭でお前の記録の正しさを知っている。測って、確かめて、書いてある。嘘は無い。三十八年、俺は記録を書いてきた。誰にも読まれずに。だから、分かる。記録は読まれるために書くもんじゃない。正しいから書くんだ」
彼は、二つの束を見た。
「俺は、これを、オルグレンに渡す。渡すことはできる。……ただし、オルグレンが、どう、するかは俺には分からん。受け取るか。突き返すか。あるいは、怖がって、燃やすか。それは、あの男の問題だ。俺の仕事は、正しい記録を正しい相手に、届けることだけだ。いいか?」
「お願いします」
俺は、頭を下げた。
「ひとつ聞くが」
ハウゼンが言った。
「お前はこれを渡したらどうなると思ってる。オルグレンが、受け取ったとして、この国はどうなる」
「分かりません」
俺は、正直に言った。
「良くなるのか、悪くなるのか。分かりません。俺に分かるのはこれが事実だ、ということだけです。事実を正しい場所に出す。その後、どうなるかは、俺の手を離れます」
ハウゼンは、少し笑った。初めて見る笑いだった。
「三十八年前の俺と同じことを言う」
彼は言った。
「俺もそう思って、始末書を書いた。事実を書けば、後は誰かが読む。読まれるまで、三十八年、かかったがな」
彼は、二つの束を脇に抱えた。
「今度は、そんなにかからんようにしてやる」
三日後、ハウゼンから報せが来た。
学院長室でオルグレンが、会うという。俺とハウゼンと。アリシアと、レンは、連れて来るな、と。二人の身の安全のためだ、とオルグレンは言ったらしい。
俺は久しぶりに塀は高く、門は立派な学院に戻った。でも、もう、ここは安全な場所じゃないと知っていた。
学院長室で、オルグレンは机の上に二つの束を広げて待っていた。三日で、全部、読んだのだろう。目の下に隈があった。
「桐島君」
オルグレンは言った。
「これを、書いたのは、君か」
「はい」
「全部、事実か」
「確かめたことだけを書きました。確かめていないことは書いていません」
オルグレンは、俺を見た。長い沈黙があった。
「……厄介なものを持ってきたな」
オルグレンは言った。
「これが、事実なら、この国の身分制度は根拠を失う。属性で、貴族と庶民を分けてきたこの二百年が、全部、崩れる。私は学院長だ。この国の秩序の一部だ。その私に、秩序の根拠が嘘だという記録を突きつけた」
「はい」
「私にどうしろと」
「検証してください」
俺は言った。
「俺の言うことを信じてくれ、とは言いません。……徹底的に疑ってください。遺稿の写しが本物か、判定石の図が正しいか、アリシアの実験のデータが確かか。
全部、検証して、それでも事実だと分かったら、そのときに、どうするかを決めてください。俺は、検証に耐える記録を書いたつもりです」
オルグレンは、束を指で叩いた。
「検証はできる」
彼は言った。
「学院には、その能力がある。だが、桐島君。問題はそこじゃない。検証して、これが事実だと確定したとして、その、確定した事実を私がどうするかだ」
オルグレンは、立ち上がって窓の方を向いた。
「規則で動く、と私は言われている。その通りだ。私は規則に従う。規則があるから、学院は回る。個人の思いつきや正義感で動けば組織は壊れる。だから、私は規則で動く」
彼は振り返った。
「だが、この記録は、規則の外にある。この国の規則そのものが、属性を前提にできている。属性が身分だという前提の上にあらゆる規則が乗っている。その、前提が嘘だとしたら、私が従うべき規則はそもそも間違った土台の上に建っているということだ。私は、間違った土台の規則に従い続けるべきか。それとも」
オルグレンは、言葉を切った。
「……分からん」
彼は言った。正直だった。
「何回も言う。私は規則で動く男だ。だが、この記録は、私が従ってきた規則の正しさそのものを問うている。規則で動く男は、規則が間違っているとき、どう、動けばいい。私には、その規則が無い」
部屋が、静かだった。
俺は、この人が逃げていないことに気づいた。怖がって、突き返すことも燃やすこともできた。でも、この人は正面から悩んでいた。規則で動く自分とその規則の土台が崩れる事実の間で。
「オルグレン先生」
俺は言った。
「ひとつだけ。俺は、この国を壊したくて、これを持ってきたんじゃありません」
オルグレンが、俺を見た。
「壊すんじゃなくて。選べるようにしたいんです。今は属性を勝手に差し込まれて、それで身分が決まる。誰も選べない。それを、選べるようにする。その道具も、一緒に持ってきました。真実だけじゃなくて。先生にお願いしたいのは、この国を壊す決断じゃありません。人が選べるようにする、その最初の一歩を規則の中に作ってほしいんです」
オルグレンは、長いこと、俺を見ていた。
「……六歳の儀式か」
彼は言った。記録を読み込んでいた。
「判定石を、この、核とやらに置き換える。差し込むんじゃ、なくて、選ばせる。それを規則にしろ、と」
「いきなり、全部じゃなくていいんです。ひとつの学区でも、試験的に行う。一人の子供が、儀式で初めて自分で属性を選ぶ。それが、できれば、後は、広がります。一人ずつ」
「一人ずつ、な」
オルグレンは呟いた。
「地脈杭と同じか。……お前は、いつもそれだな」
オルグレンは、椅子に座り直した。
「時間をくれ」
彼は言った。
「まず、検証する。この記録が事実かどうか。それには、時間がかかる。数ヶ月。あるいは、もっと。その間、この束は私が預かる。安全な場所に置く。家にも、王宮にも渡さん。それは約束する」
「ありがとうございます」
「礼は早い」
オルグレンは、言った。
「検証して、事実だと分かっても、私が、儀式を変える決断をするとは限らん。私は、一人の学院長だ。この国の身分制度を、私一人で変える権限は無い。できるのは、せいぜい、事実を確定させて、しかるべき所に上げることだけだ。その先は、私の手にも負えん」
「それで、十分です」
俺は言った。
「事実が確定して、記録に残れば、それは、もう、消せません。誰かが、いつか、読む。先生が、決断しなくても、確定した事実は残ります。それだけで十分です」
オルグレンは、俺を見て、少し、疲れたように笑った。
「お前と話していると、規則で動くのが馬鹿らしく思えてくる」
「そんなつもりは」
「いや、いい」
彼は、束を引き寄せた。
「預かる。検証する。久しぶりに規則の外のことを考える。学院長になって初めてだ」
学院を出るとき、雨が降っていた。
ハウゼンが、隣を歩いていた。
「どう、思いますか」
俺は聞いた。
「オルグレン先生。……受けてくれると思いますか」
「分からん」
ハウゼンは言った。
「だが、あの男は逃げなかった。突き返さなかった。燃やさなかった。正面から、悩んでいた。それは、俺が知っているオルグレンじゃなかった。規則で動くだけの、男じゃなかった」
彼は、雨の空を見上げた。
「正しい記録は、人を変える。……三十八年、誰にも読まれなかった俺の記録が、お前に読まれて、王国の工事を動かしたようにな。お前の記録も、たぶん、あの男を動かし始めた」
俺は、その言葉を聞きながら、学院長室の窓を振り返った。
明かりが灯っていた。オルグレンが、まだ、あの束を、読んでいるのだろう。規則の外のことを考えながら。
真実は、俺の手を離れた。
あとは、記録が歩く。
地脈杭がそうだったように。
誰かが読み、誰かが確かめ、また次の誰かへ渡る。
世界は、そうやって少しずつ変わる。
急がず。
一歩ずつ。




