第37話 水から火へ
三日、待った。
アリシアは、水の膜を纏ったまま詰所で、過ごした。俺は、毎日、彼女の様子を測った。魔力の乱れは無いか。素の魔力に遅れて出る傷は無いか。水の膜は安定しているか。全部記録した。三日何も起きなかった。青い膜は彼女の周りに静かに収まっていた。
その間、アリシアは水の練習をしていた。しかし、相変わらず、掌から数滴で、皿を満たすのに多くの時間を要した。火魔法なら一瞬で蝋燭を灯せる人が、水魔法では水たまりひとつ作れない。
「下手ですね、私」
アリシアは笑った。悔しそうではなかった。むしろ、面白がっているようだった。
「十年以上火魔法をやってきたのに、水魔法だと六歳の子供のようです。でも、こんな経験は初めてなんです。火魔法は自然にできていたから、下手だった頃の記憶が思い出せません」
差し込まれた火魔法はいつの間にかできていた。でも、自分で選んだ水は下手なところから始まる。
でも、俺には、まだそれ以上に確かめることが残っていた。
三日目の夜、俺はアリシアに言った。
「そろそろ火に戻します。その前に、ひとつ、試したいことがあります」
「なんですか?」
「水の膜を外すのにレンの手が要るかどうか」
俺は、火の核の紙を机に置いた。
「あなたの家が張った火属性の膜は、レンにしか剥がせませんでした。アリシアさんは、膜の内側にいたから外せなかったと思います。でも、今、纏っている水属性の膜は、あなたの家が張ったものでなく、アリシアさんが自分で張ったものです。だとしたら」
俺は、言葉を選んだ。
「自分で張ったものなら、レンの手を借りずに自分で外せるかもしれない」
アリシアは、俺から差し出された火の核の紙を見た。
「私、一人で?」
「はい。この火の核を握ってみてください。水属性を脱いで、火属性を体に纏うイメージで、もし、外れなかったら、すぐ、やめてください。無理はしない。レンが隣で見ています」
レンが頷いた。
「境目、見てる。おかしくなったら、止める」
「分かりました」
アリシアはそう言うと、火の核の紙を俺から受け取り、目を閉じてその紙を握った。
すると、青い膜がほどけ始め、外れていった。レンがあれほど苦労して剥がした属性の膜が宙に浮く。そして——火の核の紙が光った。
その光の中、無色の魔力を囲むように赤い膜が広がった。
「レン」
俺は思わず聞いた。
「素の魔力に傷は?」
「無い」
レンが目を見開いて言った。
「傷、無い。あたし、何もしてない。アリシアが、一人で、水を、脱いで、火を、着た。あたし、要らなかった」
レンの声が少し震えていた。
この子は、今、自分が要らなかったことに気づいていた。
「そうだ」
俺は言った。
「一度、原型に戻して、一度、自分で選べば、二度目からは、レンの手は要らない。本人が握り替えるだけでいい。アリシアさんは、生涯ずっと自分で属性を選べる身体になった」
レンは、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
要らなかった、という言葉がこの子にどう響いたのか、俺には分からなかった。誇らしいのか、寂しいのか、たぶん、両方だ。だから、俺は勝手に決めつけずに、ただ、事実だけを言った。
「でも、レン。判定石が張った属性の膜を剥がせるのはレンだけだ。アリシアさんが自由になるその最初の一歩はレンが開けた。その事実は消せない」
レンは、小さく頷いた。
でも、まだ、終わりじゃなかった。
一番、大きな確認が残っていた。
アリシアは、今、火の属性を纏っている。二百年前に、アリシアの家が差し込んだあの火の属性じゃない。今、彼女自身が握って、纏った火だ。問題はその火魔法がどれくらいの威力が発揮できるかだった。
フレームが火魔法で作られたはずだから水魔法の威力は弱かったはずだ。十年あまり火魔法で鍛えたフレームに火の核を戻したら魔法の威力は戻るのか。もし、一度、積み上げた熟練を失うことになれば、この付け替えは片道切符だ。そんなものは誰も選ばない。
もし、火魔法の威力が戻れば属性を着替えても、フレームの中に属性の熟練度は残っていたと証明できる。そして、その証明によって、今回の属性を変更する仕組みが完成する。
「アリシアさん、前と同じ蝋燭で火魔法を試してください」
俺は計測球を構えた。基準は記録してある。付け替える前の彼女の火魔法は、安定した強い火をつくることができた。それと比べる。
アリシアが蝋燭に手をかざした。
息を吸って吐いた。
火が。
灯った。
安定した、まっすぐな力強い火だった。水魔法の頼りない数滴とは比べものにならない。俺は計測球の数字を見た。
事前に測った値とほぼ同じだった。三日前に測った彼女の火。付け替える前の火。それと、同じ数字だった。十年あまりの熟練度が、そっくり、そのまま戻っていた。
「戻っています」
俺の声は掠れていた。
「アリシアさんの火魔法、……試験前と同じ強さです。熟練度は消えておらず、全部、残っていました」
アリシアは、自分の掌の先で燃える蝋燭の火を見ていた。
「同じ火だと思います」
彼女は言って、続けた。
「いや、正確には違います。前の火は、判定石が差し込んだ火魔法でした。今の火は、私が水魔法を経て自分で取り直した火魔法です。これは私が長年の修行で身に着けた火です」
彼女の目から涙がこぼれた。
「私の修行の日々は残っていました。私が十年あまりかけて作ったものはちゃんと私のものだったのです」
俺は、記録を取った。手が震えて、字が乱れた。
全部、証明された。
これからは、素の魔力を傷つけずに属性は付け替えられるようになる。しかし、付け替えた属性を上手く使うためには、最初から訓練をしていかなければならない。近道は無いのだ。
でも、元の属性に戻せば、元の熟練度はそっくり戻る。熟練により作られたフレームは、本人特有のもので、属性を入れ替えても消えない。
そして、一度、原型に戻せば、以後は、本人が、握り替えるだけで、いつでも属性を選べる。レンも、俺も要らなくなる。その人は、生涯、自由に属性を選べる。
完成だ。
いや——新しい属性付与の証明だ。
その夜、俺は詰所の机で長いこと考えていた。
この仕組みを、どう広めるか。一人ずつ、レンが剥がして回るのか。
無理だ。
今居る何百万人の魔法使いの纏う属性をレン一人で剥がすのは現実的じゃない。でも、俺は、途中で気づいた。全員をやり直す必要は無い。既に属性を差し込まれた大人たちは、望む者だけ順にやればいい。急がず、一人ずつ。
しかし、これから生まれてくる子は、六歳の儀式で判定石代わりに俺の核を使えば、子供たちは身分に関係なく望む属性を選ぶことができる。以後は、ずっと生涯にかけて自由に属性を変更できるようになるのだ。
俺は、息をのんだ。
何十年かすれば、差し込まれた世代がいなくなって、選ぶ世代だけになる。
そのとき、エルドレイン家の二百年の呪縛は、自然にほどけていく。
エルドレイン家と戦う必要も無い。
俺は、メモを開いた。
『水→火、成功。本人が握り替えるだけで属性変更可能。二度目以降、レン不要。火の熟練、完全に復帰(基準値と一致)。熟練は本人のもの。着替えても消えない。仕組み証明完了。』
その下に書いた。
『普及の道:既存の大人は、望む者から順に(レンが最初の一度だけ剥がす)。これから生まれる子は、六歳の儀式の判定石を核に置き換える。差し込まれず、自分で選ぶ。以後、生涯自由。』
そして、一番下に。
『エルドレイン家を、倒す必要は無い。判定石を核に置き換えれば、割り振る力は自然に意味を失う』
書いて、俺はペンを置いた。
窓の外で、丘の下の杭が、月に照らされていた。今日も、俺の見つけた順序で、王都側から順に、一本、直されただろう。
あの杭と同じだ。
派手な革命は要らない。号令も旗も要らない。ただ、正しい仕組みを作って、ひとつずつ置き換えていく。杭を、一本ずつ。子供を、一人ずつ。……気づいたら、世界が、変わっている。
二百年、動かなかったものが動き始めていた。




