第36話 火から水へ
実験の日は、雨だった。
詰所の一番奥の部屋を使うことにした。窓の無い石の部屋だ。もし、何かが暴れても外に漏れない。……漏れるというのが、何を指すのか、俺にも正確には分からなかった。でも、用心はいくらでもしておきたかった。
部屋の真ん中にアリシアが座った。
その正面に俺。横にレン。
道具を並べた。魔力の計測球。火の強さを測るための標的の蝋燭。水を受けるための皿。ハウゼンから借りた精度の高い計測球もある。……全部、測る。付け替えの前と後で、何がどう変わったか、あるいは変わらなかったか、数字で残す。
「まず、今のアリシアさんの火を測ります」
俺は言った。
「基準です。付け替える前の火の強さ。……これが、後で戻ってくるかどうかの比較になります」
アリシアが手をかざした。蝋燭に火が灯った。安定した強い火だった。計測球が数字を示す。俺はそれを記録した。三回測った。三回ともほぼ同じ。十年あまりの熟練はばらつかない。
「綺麗な火です」
俺は言った。
「これが、アリシアさんの火です。覚えておいてください。……戻ってこなかったら俺の失敗です」
「戻ってきます」
アリシアは静かに言った。
「あなたがやるんですから」
俺はその言葉に応えられなかった。ただ無言で頷いた。
「レン、見えるか」
俺はレンに聞いた。
レンはアリシアの身体をじっと見ていた。いや、身体じゃない、その周りを。
「見える」
レンは言った。
「アリシアの周り。火の膜、……ぐるっと囲んでる。赤っぽい。前に見たあんたの術式の火と同じ境目がある」
人の属性レイヤー。それがレンには膜として見えている。判定石が六つのときに張った火の膜。……そして、その膜と素の魔力の境目も、エルドレインが二十年見えなかったその境が見えていた。
ここでひとつ問題があった。魔力を操作できない俺にはこの膜を剥がせない。異世界人だから、属性の膜が張れないし、素の魔力も扱えない。俺にできるのは構造を読むことだけだ。見えるが手が出せない。
膜に手を出せるのはレンだけだった。
壁を通り抜け封緘を開けた子。属性の膜を持たないレンだけが、膜の外側からそれに触れられる。膜を持つ人間は自分の膜をいじれない。膜の内側にいるからだ。……原型の魔力を持つレンだけが膜に干渉でき、膜を剥がせる。
「レン、……頼みがある」
俺は言った。
「火の膜を剥がすのは、俺じゃできない。レンにやってもらうしかない。俺がどこをどの順で剥がすか、構造を読んで指示する。レンはその通りに境目から火の膜を剥がす。できるか。嫌なら言ってくれ。別の方法を探す」
レンは少し考えて言った。
「やる、壁通るのと似てる気がする。あれも境目に指、入れて抜けるから。たぶんできる」
「無理はしないでくれ。少しでも危ないと思ったら手を引け」
「うん」
俺が構造を読んで指示する。レンが剥がす。アリシアが委ねる。……三人でないとできない作業だった。
「アリシアさん、痛かったら、変な感じがしたら、すぐ、言ってください。我慢はしないで。一番、危ないのは我慢です」
「分かりました」
俺は、深く息を吸った。
地脈杭の一本目を直したときより、手が震えていた。あれは石だった。しかも、自分の手で直せた。……これは、人だ。しかも直すのは俺じゃない。レンの手だ。俺は見て、導くことしかできない。
俺は、アリシアの火の膜の構造を読み始めた。
術式のときと同じだ。でも、違った。術式は止まっていた。アリシアの火の膜は生きていた。呼吸に合わせて揺れる。脈打つ……生きた魔力はこんなに動くのか。術式のときは、俺が自分で図の上の核を切り離せた。紙の上の止まった線だったからだ。でも、これは生きて揺れている。それに、俺には触れることすらできない。
でも、構造は見えた。火の膜。素の魔力。その継ぎ目。
「レン、この赤い膜と下の無色のところの境目、見えるか」
「見える」
「そこに指を入れてくれ。壁を通るときみたいに。ただし、膜と素の魔力の間だ。膜だけを境目から浮かせる。素の魔力には触れるな」
レンがアリシアの身体の脇に手を寄せた。指先をそっと宙の一点に当てた。俺には見えない場所。でも、レンには見えている境目に。
「……入った。膜と下の間、指、入る」
「そのまま、境目に沿ってゆっくり膜を剥がしてくれ。俺がどっちへ進むか言う。……上へ。そう。そのまま、右へ」
俺が構造を読んで進む方向を言う。レンがその通りに指で火の膜を境目から、少しずつ浮かせていく。二人で一つの作業。示す者と剥がす者。
二人でないと剥がせなかった。
最初はうまくいった。
境目に沿って、火の膜の端が素の魔力から浮き上がる。素の魔力には触れずにいける。
でも、半分ほど剥がしたところで
「待て、そこ、境目ぼやけてる。膜と下が混ざってるみたいになってる。剥がしたら、下も一緒に来る」
俺が言うと、レンは手を止めた。
火の膜と素の魔力が混ざっている。十年あまり、火を使い続けた場所、膜と素の魔力が馴染んで境目が、曖昧になっている。ここを、無理に剥がせば素の魔力ごと削れる。エルドレインが壊したのと同じことになる。
俺は、額に汗を感じた。
「アリシアさん、大丈夫ですか」
「少し、引っ張られる感じがします。痛くはないです。でも、変な感覚」
素の魔力が引っ張られる。危険な兆候だ。ここで、無理をしたらまずい。
やめるか。
一瞬、そう思った。半分、剥がしたところで戻す。今日は、ここまでで、仕切り直す。安全策だ。地脈杭でも危険ならすぐ戻した。
でも。
半分剥がした状態で戻せるのか。それも確かめていない。剥がしかけを、また、貼り直す。それこそ、やったことが無い。中途半端が一番危ないかもしれない。
進むか、戻るか。どっちも確かめていない。
「桐島さん」
アリシアが言った。落ち着いた声だった。
「あなたの判断を信じます。進むも、戻るも、あなたが決めてください」
俺は、アリシアを見た。それからレンを。
「レン、混ざってるところ、境目は全く見えないか。それとも、細くても見えるか」
レンは、目を凝らした。長い時間だった。
「細い。すごく細い。でも見える。糸みたいな境目。ここ。たどれば、たどれる。でもずれたら、一発で素の魔力に傷をつける」
レンには細くても見える。だったら、俺には、この子の目とこの子の手を信じるしか無い。
「進みます」
俺は言った。
「でも、ここから先は、構造が重なり合っているようで、俺には境が読めない……レン、ここから先はレンの目だけが頼りだ。俺は方向を言えない。レンが、自分で糸みたいな境目をたどって剥がすしかない。……できるか?俺は、アリシアさんの様子を見てる。少しでも、おかしかったら止める」
「……やってみる」
レンは、アリシアの身体の脇に手を寄せた。糸のような境目に指先を当てた。
今までは、俺が方向を読んで、レンが剥がした。でも、ここから先は違う。レンが見て、レンがたどって、レンが剥がす。俺にできるのは、アリシアの顔色を見て、異常があれば止めることだけ……剥がすのは、完全にレンの手に委ねられた。
細い、細い、糸を、たどるように、レンの指がゆっくりと動いた。一ミリでもずれれば、素の魔力が傷つく。それを、この子は、たった一人でたどっていた。
俺は息を詰めて、アリシアの顔を見ていた。
「アリシアさん、感覚は」
「……引っ張られる感じは、さっきと同じ。……増えてはいません」
増えていない。素の魔力は、まだ、削れていない。レンが境目を、正確にたどれている証拠だ。
「レン、その調子だ、ゆっくりでいい」
レンは答えなかった。額に汗を浮かべて、ただ、指を動かし続けた。この子がこんなに集中しているのを、俺は初めて見た。飄々としたいつもの顔が消えて、真剣な職人の顔だった。
そして、
「……取れた」
レンが言った。
火の膜が素の魔力から完全に外れた。赤い薄い膜が宙に浮いていた。アリシアの素の魔力が、無色のまま剥き出しになった。
「アリシアさん!」
俺は叫んだ。
「大丈夫ですか、素の魔力傷ついてないか。レン、見てくれ」
「傷、無い」
レンが言った。
「アリシアの魔力。無色のまま。傷、ひとつも無い。……綺麗。剥がす前と同じ」
アリシアが、目を開けた。
「……軽い、です」
少し、驚いた顔で彼女は言った。
「何か、ずっと、身体に貼りついていたものが無くなったみたい。……軽い」
六つのときから、十年以上、彼女は火の膜を覆って生きてきた。それが、無くなった。生まれて初めて、彼女は無色の素のままの魔力を持つ体に戻っていた。レンと同じ状態にだ。
でも、まだ、終わりじゃなかった。素の魔力を、剥き出しのまま置いておくわけにはいかない。空白を作らない。それが付け替えの肝だ。すぐ、次を纏わせる。今度は、本人が選ぶ番だ。
「アリシアさん。ここから先は、レンでも俺でもない。……アリシアさん自身です」
俺は、用意していた水の核の紙を彼女に差し出した。遺稿の図からレンとアリシアと三人で組み上げた水の属性の核だ。
「あなたの家が張った属性の膜はレンにしか剥がせませんでした。……膜を持つ本人には、自分の膜をいじれない。膜の内側にいるからです。だから、レンの手が必要だった。でも、今、アリシアさんは原型に戻った。何も纏っていない。次に何を纏うかは──アリシアさんが選ぶんです。誰にも差し込まれるんじゃない。自分で握って選ぶ」
アリシアは、その紙を見つめた。
「私が選ぶ」
「はい。その核を握って、水を、思ってください」
アリシアが水の核の紙を握り締めた。
すると、さっき火の膜があったその同じ場所に、無色の魔力を囲むように青い膜が広がった。俺は構造を追った。ずれは無い。アリシアが、自分で握った膜が素の魔力に被さっていく。
「被さった」
レンが言った。自分は、もう手を出していない。ただ、見守っていた。
「アリシアさん、水を意識してみてください。掌に、火じゃなくて水を」
アリシアが手を皿にかざした。
目を閉じて集中した。掌から水が滴った。
……少なかった。ほんの数滴。ぽたぽたと皿に落ちるだけ。さっきの力強い火とは比べものにならない頼りない水だった。
でも、水だった。
十年以上火属性だった人が、今、水を出していた。
アリシアがその数滴の水を見ていた。
「……水、です」
彼女は言った。声が震えていた。
「私が、……火のエルドレインの娘が、水を……こんなに少ないけど出した」
「フレームが火用だからです」
俺は言った。
「アリシアさんの身体は、十年あまり火を扱う練習をしてきた。そのフレームに、水の核を入れても、まだ、水の魔法は上手く使えなくて当然です」
アリシアの目から涙が落ちた。
「使えた……」
「はい」
「良かった。これでエルドレイン家は救われる」
彼女は属性を入れ替えることができることが分かり、今までの張りつめた気持ちが一気に気が緩んだのかもしれない。
俺は、そこで一度記録を取った。
水魔法の強さ。数滴。ほとんど、初心者の値。火魔法の十分の一も無い……予想通りだ。核は替えられても熟練は写せない。熟練はフレームに宿っていて、火のフレームのままでは、まだ、上手く水魔法は使えない。
ここまで証明された。
レンの目があれば、素の魔力を傷つけずに人でも属性は付け替えられる。
そして、付け替えた属性は未熟。熟練はついてこない。近道は無い。
残るは、最後のひとつ。
水をまた、火に戻して、その熟練が戻ってくるか。アリシアの十年あまりが、彼女のものとして残っているか。
でも、それは今日じゃなかった。
「今日は、ここまでにします」
俺は言った。
「え」
アリシアが顔を上げた。
「一気に火まで戻すのは危険です。水魔法の膜を張ったばかりで、アリシアさんの身体に負担がかかりすぎる。少し、馴染ませて、アリシアさんに異常が無いことを確かめてから、次に、火に戻します」
アリシアは少し笑った。
「……あなたらしい」
「怖いんです」
俺は正直に言った。
「ひとつうまくいったからって、次も、うまくいくとは限らない。火に戻すのは、また、別の一歩です。確かめてからやります」
「はい」
アリシアは、水の膜を纏ったまま頷いた。青い膜を身に纏ったエルドレインの娘。……たぶん、二百年で初めての姿だった。
その夜、俺はメモに書いた。
『火→水、成功。素の魔力に損傷なし(レン確認)。付け替え人でも可能。……ただし、膜を剥がし・張るのはレン。俺は魔力に触れられない(構造を読み、指示するのみ)。原型の魔力を持つ者だけが、属性の膜に干渉できる。レンなしでは一歩も進まなかった。熟練は付け替え不可。水は弱い(火の十分の一以下)。フレームに宿る。近道なし』
その下に書く。
『アリシア、水の膜のまま経過観察中。異常あれば即、火に戻す。火への復帰は後日。熟練が戻るかはまだ未検証。……最大の山はこれから』
書いて、俺はペンを止めた。
半分終わった。属性は付け替えられた。でも、まだ、半分だ。アリシアの火が戻ってくるか。彼女の十年あまりが彼女のものとして残っているか。それが、証明できなければ、この付け替えは片道切符だ。自分の積み上げてきたものを捨てることになるなら、誰も選ばない。
アリシアの火魔法が熟練とともに戻ってこなければならない。
俺は、窓の無い部屋の奥で水の膜を纏って眠るアリシアを思った。でも、それは、彼女の火魔法が待っていてくれるという前提の上での選択だった。
火魔法が戻らなければ、俺はレンの手を使って、アリシアから十年の努力を奪ったことになる。レンにも、一生、消えない傷を負わせることになる。
急ぐな、と、また書いた。
でも、今度ばかりは、その言葉が祈りのように聞こえた。




