第34話 刻印士ヨナ
詰所での日々は静かに過ぎた。
昼は丘の下で全面改修の作業が進む。刻印士が来て一本直して次の杭へ移っていく。夜は、俺が、近道をせずに水の術式を読む。なぜこの線がこの形なのか。一本ずつ理解しながら。……遅かった。でも、遅くていいと思うことにした。
レンは詰所の隙間だらけの壁の中で少しずつ落ち着いていった。昼は丘を駆け回って、夜は俺の術式読みを隅で見ている。時々、境目を指でなぞって教えてくれた。
全面改修のために刻印士が足りなくなっていた。
王国中の三百本を直すには二十二人じゃ足りない。だから、王宮は新しい刻印士をを育て始めていた。その一人がよく詰所に来た。
ヨナという若い刻印士だった。
二十歳そこそこの男だった。全面改修で北線の杭を任されている。真面目で手が丁寧だった。ただ、他の刻印士と少し違った。
他の刻印士は、図面を渡されるとその通りに刻んで帰る。何も聞かない。ザイフェルトと同じだ。写す者の矜持だ。……でも、ヨナは、詰所で測定の記録を待つ間に聞いた。
「なぜ、王都側からなんですか」
ヨナが俺に聞いた。
「上流から直してもいいはずでしょう。むしろ、水の流れは上から来るんだから、上から直した方が自然な気がするんです。でも、図面には王都側から順にと書いてある。……なぜですか」
俺はヨナを見た。
この質問をする刻印士は初めてだった。図面には順序が書いてある。ほとんどの刻印士はその通りにやる。理由は聞かない。図面がそうだから。……でも、ヨナはなぜ、と聞いた。
「逃がした魔力が下流に移るからです」
俺は答えた。
「上流から直すと逃がした分が下流に流れて、下流の杭で焼かれる。差引、ゼロだ。……でも、王都側から直せば、逃がした分の行き先がもう直った杭を素通りして、王都に届く。一本目か、効く」
ヨナは、しばらく考えた。
「……ああ。そうか。だから順序が」
彼の顔が明るくなった。理解した顔だった。
「図面には、順序だけ書いてあって。理由は書いてなかった。……ずっと、なぜだろう、と思ってました。誰かが決めたことだから従うしかない、と。でも、理由があったんですね」
「あります。全部に理由があります」
俺は言った。
「ただ、その理由が図面には書いてないだけです」
それから、ヨナは、時々、詰所に来ては聞くようになった。
なぜ、この線はこの太さなのか。なぜ、外周はこの大きさなのか。……俺は答えられるものは答えた。答えられないものは、一緒に考えた。分からないものは、分からない、と言った。
ヨナは、聞くたびに明るくなった。
「知ると面白いです」
ある日、ヨナが言った。
「今まで、ただ、写してました。図面の通りに刻むだけ。……でも、なぜ、って考えると刻むのが面白くなる。同じ線を引いてるのに、全然違う。意味が分かって引くと」
俺は、その言葉、聞いて、胸が少し熱くなった。
写す者から、理解する者へ。……この子は、今、それを渡っていた。誰にも命じられずに。ただ、なぜ、と聞くことで。
俺は、号令をかけていない。旗も掲げていない。ただ、ヨナの問いに答えただけだ。……でも、ヨナは変わった。写す刻印士から理解する刻印士へ。
一人。
一人が変わった。
そのことに気づいたとき、俺は詰所の窓から丘の下を見た。
全面改修で若い刻印士が何人も働いていた。ヨナだけじゃない。王宮が育てている新しい世代。二百年、写すだけだった刻印の技術に、初めて、大勢の若い手が加わっていた。
その若い手の何人かは、たぶん、ヨナと同じだ。図面の通りに刻みながら、なぜ、と、思っている。理由を知りたがっている。……全面改修は、ただ、杭を直すだけじゃなかった。若い刻印士に、なぜ、と問う機会を与えていた。
俺は気づいた。
これが伝播だ。
俺が、一人ずつ、教えて回るんじゃない。全面改修という大きな仕事が、勝手に、若い刻印士を集めて、なぜ、と問わせている。俺はその問いに答えるだけでいい。答えられた一人が、隣の一人に、なぜ、を伝える。……杭が一本ずつ直るように。理解が、一人ずつ広がる。
号令じゃない。仕事が人を変えていく。理解して直した杭は、崩れない。理解して、刻む刻印士は、次の理由を探すようになる。
二百年、失われていた設計思想が、今、丘の下で一人ずつ若い刻印士の中に芽生え始めていた。
でも、俺は、同時に怖くもなった。
ヨナのような問う者が増えれば、いつか、誰かが地脈杭の次を問う。この杭が写されて理由を失っていたなら、他の術式もそうじゃないか、と。防護術式も。結界も。……属性の術式も。
問う者は、いつか属性に辿り着く。
俺が話さなくても。問う者が増えれば、増えるほど、誰かが、なぜ、と聞いて辿り着く。……そして、その誰かは俺のように慎重とは限らない。レンのことを考えて、時期を選ぶとは限らない。
真実は、俺の手を離れて広がっていく。良いことだ。……でも、制御はできない。
ある夜、ヨナが帰り際に言った。
「桐島さん。……ひとつ、変な話をしていいですか」
「なんですか」
「僕、全面改修でいろんな土地を回りました。杭を直しながら、王都側から辺境の方まで。……その間にいろんな人の属性を見たんです。刻印の仕事で判定の記録に、触れることもあって」
ヨナは、少し、声を落とした。
「王都の近くは、光とか、火の属性が多いんです。貴族の多い土地です。……でも、辺境の庶民の村に行くと。土の属性ばっかりだ。ほとんど、土。たまに、火が、いるくらい」
俺は、ヨナを見た。
「属性は、血筋で決まるって言いますよね。親から、子へ。……でも、それなら、おかしくないですか。血筋なら、貴族の家からも、土が出るはずだし、庶民の家からも、光が出るはずだ。もっと、ばらばらになるはずでしょう。……なのに、身分の高い土地は格の高い属性ばかり。身分の低い土地は土ばかり。きれいに分かれてる。血筋なら、こんなにきれいに揃いますか?」
俺は、息を止めた。
「……まるで」
ヨナは言った。
「身分に合わせて、属性が指定されてるみたいだ」
ヨナは、まだ、何も知らない。名簿のことも。判定石のことも。……ただ、大勢の属性を見て回る刻印士の目で、血筋ならばらけるはずのものが、身分に沿って、きれいに並んでいることに気づいた。統計の偏りから、属性が生まれつきじゃないことに、手を伸ばしかけていた。
来た、と思った。
問う者は辿り着く。俺が思っていたより、ずっと早く。しかも、一番鋭い入口から。血は、言い訳にならない。偏りは血じゃ説明できない。……この子は、名簿を見なくても、名簿の存在を当ててしまった。
「……その話は」
俺は慎重に言った。
「いつかできると思います。ちゃんと確かめて、ちゃんと渡せる形にしてから。……今は、まだ、その時じゃないと思っている。でも、ヨナ。その問いは正しい。血筋ならばらけるはず、というのは正しい疑い方です。忘れないでいてください。……いつか答えれると思う」
ヨナは頷いた。
「分かりました。……待ってます」
そして、帰っていった。
その夜、俺はメモを開いた。
『ヨナという若い刻印士。なぜ、と問う者。写す者から理解する者へ変わった。全面改修が若い刻印士に問いの機会を与えている。伝播が始まっている』
その下に書いた。
『だが、問う者はいつか属性に辿り着く。ヨナは、もう、その入口に立った。しかも統計の偏りから、属性と身分の相関は血筋では説明できない。名簿を見ずに、名簿の存在を推論しうる。……真実は、俺の手を離れつつある。制御できない。』
そして、一番下に。
『時間が無い。フレームワークを渡せる形にするまでに、問う者が辿り着くまでに。……間に合うか。』
書いて、俺は窓の外を見た。
丘の下の杭が、月に照らされていた。一本ずつ直された杭。その一本ずつが若い刻印士に、なぜ、を教えていた。
伝播は始まっている。止められない。
良いことだ。俺が望んだことだ。……でも、始まってしまえば俺のものじゃない。杭が直れば、王都が明るくなるように、問いが広がれば、いつか、属性の真実に届く。俺がいようが、いまいが。
だったら、と俺は思った。
間に合わせるしかない。問う者がめちゃくちゃな形で、真実に、辿り着く前に。ちゃんと確かめて、ちゃんと選べる形にして、俺が形にして渡す。
急ぐな、と書いてきた。
でも、初めて急がないと、間に合わないかもしれない、と思った。
急ぐと間違える。間違えると人が壊れる。……でも、遅れると真実が騒ぎ出して、今までの秩序が壊れていく。その、二つの間に、俺はどこかで線を引かないといけなかった。
しかし、まだ、引けなかった。




