第3話 魔法学院
ペンを受け取ってから、俺は立ち上がった。今日だけで知らない土地に転移して、二百年物のバグを発見して、魔法の仕組みを教わって、スリに遭った。情報量が多すぎた。
「とりあえず」
と俺は言った。
「拠点が必要なので、宿を探したいんですが。この街に安くて長期滞在できるところはありますか」
「あなた、今日来たばかりでしたね」
アリシアが、何かを思い出したような顔をした。
「お金は」
「ありません」
「身分証は」
「ありません」
「この世界の言語は」
「今、話せてますよね」
「たしかに」
「翻訳は神様がやってくれたらしいので。それ以外は何もないです」
アリシアはローブの袖をまた軽く握って、視線を少し逸らして、しばらく考えていた。それから、意を決したように、
「学院に外来研究者用の部屋があります」
と彼女は言った。
「本来は紹介状が必要ですが……」
「その部屋に入る資格が、俺にあると思いますか」
アリシアは俺を見た。
「資格があるかどうか、私が判断します。そして、学院長には私から説明します」
その夜。あてがわれた外来研究者室は、三メートル四方ほどの狭い部屋だったが清潔だった。部屋の隅には、アリシアが運び込んだ魔法書が山積みになっていた。一冊開くと、文字が少なく、図版の多い書物だった。机の上に紙が置かれていたので、俺は横になる前に、今日あったことを思いつくまま書き出した。
今のところ分かっているのは、魔法陣の構造だけは理解できるということ。術式をコードとして解析できる。バグを見つけられる。たぶん修正もできる。
ただし、魔力が自分にあるかどうかはまだわからない。今日は測れなかった。この何も知らない世界で、俺は生き直すことになった。目標を立てた。まず、生き延びること。そのためには食い扶持と信用が必要で、今日アリシアに借りを作ったのはまあ良いとして、返せるだけの価値を出し続けなければならない。それに、文字の読み書きも生きていくには必要だ。
この世界の魔法がバグだらけだとしたら、直す仕事は山ほどあるはずだ。問題は、俺が魔法を何も知らないことだ。一から学ぶ必要がある。アリシアに師事できれば早いが、彼女に頼みすぎるのも関係性として良くない。
あとレンはどこに行ったんだろう。あの服装を見る限り、宿なんて無さそうだった。飯は食えているんだろうか。まあ今日会ったばかりのスリの子の心配をするのも変か。
変か?
……前世でも、後輩の飯の心配ばかりしていた気がする。まあ、この街の規模からして明日もどこかで会うだろう。
俺はベッドに移り、横になった。窓の外で、二つの月が並んで浮かんでいた。太陽が二つなら月も二つなのかと思いながら、俺は意識を手放した。
翌朝。
窓の外に、人影があった。気になって近づくと、レンがいた。外壁に手をかけて、二階の窓から中を覗き込んで、俺を見ていた。
「なんで窓の外にいるの?」
「入口から入ると受付のおじさんにつまみ出されるから」
「それはそう」
「入っていい?」
俺は少し考えた。
「部屋、狭いよ」
「狭くていい」
「なんで俺のところに」
レンは少し黙った。それから、ぶっきらぼうに言った。
「昨日の話」
「続き」
レンは言葉を足した。俺は聞き返した。
「魔法を使えない方が面白いっていう話?」
「そう」
俺は窓を開けた。レンは身軽に飛び込んできた。部屋の隅に積んだ魔法書の山を避け、完璧な重心移動で床に降り立った。
「運動神経もいいね」
「体が軽い。魔力がないからかも」
「なるほど、制約が別の能力を引き出してる」
「また難しいこと言う」
俺はベッドから起き上がり、机に向かった。昨夜、整理しきれなかったメモを手に取った。今日やること。文字を覚える。属性を測定する。学院内の他の魔法陣を調査する。……魔法の基礎を学ぶのは、その後だ。
「ご飯、どこで食べるの?」
とレンが言った。
「学院の食堂があるらしい」
「私も行っていい?」
「アリシアさんに交渉してみるよ」
「あの銀髪のお姉さん?」
「世話になってる人」
「なんか怖い顔してた」
「俺が先祖のバグを指摘したせいかもしれない」
「何、それ」
説明が面倒だったので省略した。俺は立ち上がり、メモをポケットに入れ、ペンを確認した。あった。今度は盗まれていない。窓から見える朝の王都は、赤い光と青白い光に二重に照らされて、建物という建物が二方向に影を落としていた。
この世界の魔法には、二百年放置されたバグがひとつあった。なら、まだある。その確信だけは、不思議と揺るがなかった。
直すべき設計がある。本当の意味で動くようにしなければならないシステムがある。それが、俺がこの世界に呼ばれた理由かもしれない。




