第28話 六冊目の本
六冊目を読むのに二か月かかった。
急ぐ必要は、もう、無かった。写しは手元にある。誰にも奪われない。だから、俺たちは、一枚ずつ、丁寧に読んだ。急いで写した五日間とは逆の速さで。
その二か月の間に、外でもことは動いていた。
地脈杭は、王都側から五本目まで直った。ハウゼンの立会いで一本ずつ。五本目を直したとき、王都の受入量が初めてはっきりと変動幅を超えた。七日測って、六日、超えた。もう、偶然では説明できない数字だった。
「証明の何枚目だ」
ハウゼンが聞いた。
「もう、枚数は数えてません」
俺は答えた。
「積み上げが証明に、変わりました。五本で変動幅を超えた。残り二本は確認のためです」
委員会は、七本目の後、工事全体の続行を審議する。数字は揃いつつあった。地脈杭の方は、勝ちが見えていた。
でも、俺の頭はそこには無かった。
六冊目の最後の数枚にあった。
六冊目は五冊目の続きだった。
五冊目で、エルドレインは属性を抜こうとして失敗していた。何度も、描き直して。人から属性を抜く。周りを傷つけずに。……できなかった。
六冊目はその答えだった。
最初の数枚で、彼は、まだ抜く方法を探していた。図が続く。だが、途中から図が消えた。
文字だけになった。
アリシアが読んだ。一字ずつ。彼女の声が、だんだん低くなっていった。
「『我、二十年、この術を探した。人より属性を抜く術を。……成らず』」
「成らず」
「『抜くことはできぬ。二十年、生きた魔力から後より加えしものだけを抜くこと、能わず。試みるたび、魔力そのものを損なう。人を壊す。……属性を抜くとは、人を壊すことであった』」
「なぜ壊れるんですか」
俺は聞いた。アリシアが次の行を読んだ。
「『後より加えし属性と生まれ持ちし素の魔力、その境目、我には、見えず。境の見えねば、属性を抜くとき、素の魔力まで共に削れり。ゆえに、人、壊る』」
境目が見えない。
俺は写しを見た。文字は拾い読みしかできない。でも、アリシアの声で、意味は入ってきた。
エルドレインは諦めていた。人から属性を抜く方法を。抜けば人が壊れる。境目が見えないから、属性だけをきれいに抜けない。素の魔力まで一緒に削れてしまう。二十年かけて、その結論に達していた。
「じゃあ、取り消しは」
俺は言った。
「取り消しはできないってことですか。属性を入れてしまった世界は、もう、元に戻せない?」
アリシアが、ページをめくった。
「……続きがあります」
彼女は読んだ。
「『されど、我、ひとつの誤りに気づけり。我は取り消そうとして、また、力に頼りたり。入れたるものを、力にて抜かんとしたり。……これ、入れたるときと同じ過ちなり』」
「同じ過ち」
「『我、属性を力にて、人に入れたり。今また、力にて抜かんとす。入れるも、抜くも、我が人の魔力を勝手に決めておる。……人に問わずして』」
俺は息を止めた。
エルドレインは気づいたんだ。属性を入れたことの本当の問題に。
問題は、属性を入れたことそのものじゃない。人に問わずに入れたことだ。判定と偽って、勝手にひとつ差し込んだ。本人に知らせずに。選ばせずに。……そして、それを抜くときも、彼は、また、勝手に抜こうとしていた。本人に問わずに。同じ過ちを二度。
「じゃあ、どうすれば」
俺は誰にともなく聞いた。
アリシアが、次のページを開いた。
図は無かった。文字も少なかった。急いで書いたような乱れた字。五冊目より、もっと乱れていた。
「『我に残されし、時、少なし』」
アリシアの声が震えた。
「『彼ら来たる。我が取り消しを止めんとして。地脈杭の我が修正を削り、この書を封ぜんとして。……我が家の者が』」
止められる瞬間を、彼は、書いていた。家の者が来る。修正を消し、遺稿を封じるために。それを書きながら。
「『我、抗わず。抗えば、我が魔力を損なわれ、書くこと、能わずなる。ゆえに、我、書くことを選ぶ。抗うより、書くことを』」
抗わなかった。戦えば書けなくなる。だから、戦わずに書くことを選んだ。最後の時間を、抵抗ではなく、記録に使った。
「『我が、成し得ざりしこと、これなり』」
アリシアは、最後の数行に入った。声が、ほとんど、聞こえないくらいになった。
「『属性は、抜けぬ。力にて、世を、元に、戻すこと、能わず。我が二十年の結論なり』」
「『されど、ひとつ、成し得ることあり。……知らせることなり』」
「『属性は、後より加えしものなり。生まれつきにあらず。人の選びしにあらず。我ら、家の者が勝手に差し込みしものなり。……これを知らせよ』」
「『力にて抜くにあらず。真実を遺して、後の者に知らせよ。己の属性が、後より、入れられしものと知れば、人は初めて、それを、己のものとして選べる。あるいは、拒める。……選ぶことを、後の者に委ねる。それが、我が成し得る唯一の取り消しなり』」
部屋が静かだった。
俺は動けなかった。
力で世界を元に戻すことはできない。属性を抜けば人が壊れる。……でも、真実を知らせることはできる。属性が後付けだとみんなが知れば、人は、自分の属性を初めて自分で選べる。あるいは拒める。知らないうちは選べない。知って、初めて、選べる。
それが、エルドレインの、たどり着いた取り消しだった。
力じゃない。真実だ。
書いて、遺して、知らせる。
……それは。
俺が、ずっとやってきたことだった。
「桐島さん」
アリシアが言った。俺を見ていた。
「あなたは、地脈杭を直しながら、記録を遺してきました。事実を、書いて、読んだ人が、自分で判断できるように。……初代が、最後に、書いていることと同じです」
「……ああ」
俺は、やっと、声を出した。
「同じだ。俺は知らずに、この人の、続きをやってた。杭だけじゃ、なかった。……やり方も、同じだった」
力で、変えるんじゃない。真実を遺して、自分で選べるようにする。
俺が事実だけを書いて、結論を書かなかったのも。号令をかけずに、読んだ人が考えるのに任せたのも。……全部、この人が、二百年前に、たどり着いた答えと同じだった。
俺は、この人の方法を知らずに受け継いでいた。
最後の一枚が残っていた。
アリシアがめくった。
そこには、たった、二行だけ書かれていた。字は、もう、ほとんど崩れていた。最後まで、書ききれなかったのか、途中で、力尽きたのか。
「『この書を、読む者へ』」
アリシアの声が詰まった。
「『我が成し得ざりしことを——』」
そこで、字は途切れていた。
その先は、無かった。白紙だった。
エルドレインは、最後の一文を、書き終える前に、止められたか、あるいは、力尽きた。二百年、この一文は、途中のまま封じられていた。
我が、成し得ざりしことを——
その先を、書けなかった。
でも、俺には、分かった。
その先に、彼が、書こうとした言葉が。
我が成し得ざりしことを、成してくれ。
二百年後の、読む者へ。それが、彼の最後の依頼だった。書き終える前に、途切れたその依頼。
その夜、俺はメモを開いた。
六冊目の、内容を起こした。属性は抜けない。抜けば、人が壊れる。取り消しは、力ではなく、真実で、知らせること。人が自分で選べるようにすること。……そして、最後の一文は途切れていること。
全部書いた。
書き終えて、俺は、ペンを置かなかった。
エルドレインは、「知らせよ」と、書いた。
俺は、まだ、知らせていない。遺稿の記録を書いた。でも、出していない。俺の手元に留めてある。書くことと、出すことは、違う、と言って。……その、言い訳の裏で、俺は、まだ、怖がっている。
知らせれば、世界が揺れる。レンのような子が、混乱に巻き込まれる。ケイル卿が動く。……だから、俺は、出していない。
でも、エルドレインは言った。知らせよ、と。
自分で、選べるようにせよ、と。
知らせないことは、みんなが、自分で選ぶ機会を握ったままにする、ことだ。俺が、みんなの代わりに、知らないままにしておく、ことだ。……それは、判定と偽って、勝手に属性を差し込んだ、二百年前の家と、同じ、構図じゃないのか。
俺は、その考えを、メモの一番下に書いた。
『いつか、知らせる。エルドレインの依頼。……いつ、どう知らせるかは、まだ、決められない。だが、知らせないという選択は、もう、無い。』
ペンを、置こうとして、置けなかった。
知らせる。属性は後付けだと。……でも、知らせて、その先は。
知らせても、みんなにできることは、二つしか無い。今の属性のまま生きるか。危険を承知で抜くか。抜けば壊れる。エルドレインが、二十年かけて、そう結論した。……つまり、知らせても、実際には選べない。今のままでいるしかない。選べる、と言いながら、選択肢がひとつしか無い。
それは、本当に選べることになるのか。
俺は、エルドレインの失敗の一行を思い出していた。境目が見えなかった。属性と、素の魔力の境が。だから、抜くとき、素の魔力まで削れた。
境が見えれば。
属性の膜と、素の魔力の境が、はっきり見えれば。属性だけを、素の魔力を傷つけずに、扱えるんじゃないか。抜くんじゃなくても——境が見えれば、属性を、別のものに、付け替えることだって。
俺は、そこで、手を止めた。
境が見える者を、俺は、一人、知っている。壁の隙間が見える子。属性の膜が、貼りつく面が無いと言った子。……エルドレインに、無かったものを、あの子は持っている。
でも、と、俺はその考えを押しとどめた。
それは、また、レンを使う考えだ。二度としない、と決めた。それに、まだ、何も確かめていない。境が見えたところで抜けるとも、付け替えられるとも限らない。エルドレインが二十年かけたことを、思いつきで、越えられるはずがない。
俺は、その芽を、メモの隅に、小さく、書き留めるだけにした。
『属性を抜く=壊れる(境が見えぬため)。では、抜かずに扱う道は。境が見えれば? 要・慎重な検討。急ぐな。』
急ぐな、と、自分に書いた。
二百年前の天才が、二十年かけて届かなかった場所だ。焦って、届く場所じゃない。
ペンを置いた。
知らせる、と、書いてしまった。
もう、後戻りはできなかった。書けば残る。自分への約束も。そして、まだ、形にならない小さな芽も。




