第27話 レンの決断
遺稿を返した、三日後だった。
ケイル卿が学院に来た。委員会でもないのに。俺に、会いに来たのかと思ったら違った。
「あの子に話がある、と」
アリシアが青い顔で伝えに来た。
「レンにです。ケイル卿がレンと話したいと」
俺は、書きかけの手を止めた。
「なんの用ですか」
「分かりません。……でも、家の使いから聞きました。返した遺稿の封緘が破られていたことを、家は知っています。誰かが開けた。開けられるはずのない本を。……家は、それを探っています。誰がどうやって開けたのか」
封緘を開けたのはレンだ。
家は、まだ、それを知らない。でも、探している。そして、ケイル卿が属性を持たない子に目をつけた。
繋がりかけている。まだ、確信は無いはずだ。でも、賢い人だ。時間の問題だった。
ケイル卿は応接室で待っていた。
レンを一人では行かせなかった。俺とアリシアも同席した。ケイル卿は、それを止めなかった。むしろ微笑んだ。
「桐島殿も、フォン・エルドレイン嬢も。……結構。三人に、聞いてもらった方が、話が早い」
彼は、レンを見た。品定めするような目じゃなかった。今度は穏やかな老人の目だった。
「お嬢さん。名前は」
「レン」
「レン。家名は」
「無い」
「属性は」
「無い」
ケイル卿は、悲しげに頷いた。
「気の毒に」
その一言に、俺は身構えた。
「属性を持たずに生まれるのは罪ではない。だが、この国では生きづらい。属性が無ければ、学院にも入れない。職にも就けない。庶民街の外れで名も無く生きるしかない。……不当なことだ。私は、長くそれを心苦しく思ってきた」
彼は、本当にそう思っているようだった。演技には見えなかった。
「だから提案がある。レン。……君に属性を与えよう」
部屋が静かになった。
「判定石を、もう一度、用意させる。今度は正式な儀式として。君に属性をひとつ。火でも、水でも良い。属性が入れば、君は登録される。名前を持てる。学院にも入れる。職にも就ける。庶民街の外れから出られる。……普通の暮らしができる」
ケイル卿は、優しく言った。
「私が後見人になろう。この老人の名にかけて。君に居場所を用意する。……どうかね」
俺は、レンを見た。
レンは、何も言わなかった。膝の上で手を握っていた。
俺の頭の中で二つの声が争っていた。
ひとつはこう言った。断れ、と。
これは罠だ。属性を入れれば、レンは原型じゃなくなる。隙間が見えなくなる。……そして、レンが属性が後付けである生きた証拠でなくなる。ケイル卿が、本当に消したいのは、レンの不幸じゃない。レンという証拠だ。属性を入れて普通にしてしまえば、秩序を脅かす例外がひとつ消える。これは、優しさの顔をした抹消だ。
もうひとつの声はこう言った。……本当にそれだけか?
レンは名前が無い。居場所が無い。学院にも職にも就けない。庶民街の外れで名も無く生きていく。それがこの子の未来だ。ケイル卿の提案は罠かもしれない。でも、罠だとしても、レンに居場所を与える。安全を与える。……俺には、それが与えられない。俺は、この子を危険に晒すことしかできていない。俺が、正しいことをするたびに、この子は隅に追い詰められる。
もし、レンがこの提案、受けたら。
この子は安全になる。普通になる。俺のそばから離れて。秩序の中に入って。……幸せになるかもしれない。
俺は、それを望むべきなんじゃないか。
この子の安全を望むなら。
俺は気づいた。
俺は、レンに断ってほしいと思っている。この子が証拠でいてくれた方が、俺の都合がいいから。この子の隙間が俺の役に立つから。……俺もケイル卿と同じだ。俺もこの子を俺の目的のために使おうとしている。
俺は、その考えを頭から追い出した。
選ぶのはレンだ。俺の都合じゃない。俺が断ってほしいと思うことは、俺が決めてはいけないことだ。
「レン」
俺は言った。声が少し震えた。
「……よく考えて決めてくれ。俺の意見は言わない。これはレンの人生だ。どっちを選んでも俺は味方する」
言うのが苦しかった。
本当は言いたかった。行くな、と。そばにいてくれ、と。でもそれは俺の都合だ。だから言わなかった。言わないことが、この子への誠実さだと信じて。
レンはしばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。ケイル卿をまっすぐ、見た。
「ひとつ聞いていい?」
「なんなりと」
「属性入れたら。あたし、隙間見えなくなる?」
ケイル卿の眉が動いた。
「……隙間、とは」
「あたし、壁の隙間とか見えるの。属性が無いから。入れたら見えなくなる?」
ケイル卿は、少し、間を置いた。
「……おそらく見えなくなるだろう。属性を持てば、君は普通の人間になる。普通の人間には、見えないものだ」
「じゃあ、いらない」
レンは言った。
あっさりと。迷いもなく。
「あたしの隙間は、あたしのものだから。誰も持ってない。あたしだけのもの。それを無くして普通になるくらいなら、普通じゃなくていい」
ケイル卿は、しばらく、レンを見ていた。
「……君は分かっていない」
彼の声から、優しさが少し抜けた。
「その、隙間とやらが見えることが、どれほど危ういか。属性を持たぬ者は、秩序の外にいる。外にいる者は守られない。……属性は、君を守る壁でもあるのだ。それを拒むというのか」
「壁?」
レンは、首を傾げた。
「あたし、壁は通り抜けられるよ。守ってくれる壁なんてあたしには無かった。ずっと、外にいた。今さら、壁の中に入れてやるって言われても。……あたしは、外で生きてきた。外の生き方しか知らない。中に入ったら、たぶん、あたし、あたしじゃ、なくなる」
ケイル卿は答えなかった。
立ち上がった。
「……気が変わったらいつでも。私の申し出は、続いている」
彼は、俺を一瞥した。
「桐島殿。あの子を、危ういところに置いておられる。属性を持たぬ者が、あなたのような人物と関わる。……それが、何を招くか。老婆心ながら、告しておく」
そして、去っていった。
部屋に、三人、残った。
俺は、レンに言うべき言葉を探した。妥当な言葉が見つからず、話しかけた。
「レン。……いいのか。断って」
「いいよ」
「安全になれたかもしれない。名前も、居場所も」
「あんた、さっき味方するって言った」
「言った」
「じゃあ、味方して。……あたしの決めたこと、正しかったって、言ってよ」
俺は、言葉に詰まった。
正しかった、とは、言えなかった。安全を捨てたのが、正しいとは、俺には言えない。でも。
「……レンが、決めたことだ。俺は、それ、支える。正しいかどうかは、後で、分かる。今は、分からない。でも、レンがレンのままいることを選んだなら。……俺は、それをいいと思う」
レンは、少し、笑った。
「回りくどい」
「悪い」
「でも、まあ、いい」
その夜、俺は、メモを開いた。
ケイル卿のことを書いた。申し出。属性を与えるという。断った、レンが。理由は隙間は自分のものだから。
それから、俺は、自分のことも書いた。
『俺は、レンに断ってほしいと思った。証拠でいてほしいから。俺もレンを利用しようとした。危うい。二度としない。選ぶのは、レン。俺の都合じゃない。』
書くのは、恥ずかしかった。自分のみっともないところを書くのは。
でも、書いた。書かないと、また、同じことをする。書いておけば、次に、同じ誘惑が来たとき、この行を読み返せる。
書けば残る。
自分の過ちも。残しておけば、繰り返さずに済むかもしれない。
俺は、そう、信じることにした。




