第26話 写す人
あと六日で十日かかる本を読む。
できない。何度計算してもできなかった。一枚を訳すのに半日。六冊目は、四十枚以上ある。二人がかりで休みなく読んでも、十日。六日じゃ、半分もいかない。
俺は、五冊目を閉じた夜からずっとその計算を繰り返していた。繰り返しても、答えは変わらない。時間は足りない。
足りないものをどうにかしようとして、俺は間違えていた。
読もうとしていたんだ。六日で六冊目を読もうと。理解しようと。……でも、理解は間に合わない。
だったら。
理解を後回しにすればいい。
俺は、机の前で立ち上がった。
「アリシアさん。読むのは諦めます」
俺が言うと、アリシアが顔を上げた。目が赤かった。
「諦める?」
「読むのをです。理解するのは後でいい。六日で六冊目を理解するのは、無理だ。……でも、写すだけなら間に合います」
「写す」
「はい。図をそっくり写す。意味は分からなくていい。ただ、そっくりに書き移す。俺は構造が見える。見えたものをそのまま紙に写せます。理解しなくても写せる。……写しておけば、本が家に行っても、写しが残る。写しを、後でゆっくり、読めばいい」
アリシアは、しばらく、俺を見ていた。
「……読むことと、写すことを、分けるんですね」
「はい。読むのは遅い。写すのは速い。今、必要なのは読むことじゃなくて、残すことです。残せば、読むのはいつでもできる」
俺は、言いながら気づいた。
これは、二百年前に、誰もしなかったことだ。
遺稿が封じられたとき。誰も写さなかった。理解できないから写す意味も無い、と思ったんだろう。読めないものを写してどうする、と。……だから、封じられたら、それで消えた。二百年、誰の目にも触れなかった。
でも写しておけば。
読めなくても写しておけば。いつか読める人間が現れたとき、その人が読める。二百年後の俺みたいに。
写すことは無駄じゃない。理解できないものを写すのは、理解を未来に預けることだ。
三人で写した。
役割を分けた。俺は図を写す。構造が見えるから、線の一本一本を、正確に写せる。アリシアは文字を写す。読める部分の文字を一字ずつ書き移す。レンは、本を押さえる。開いた本が閉じないように。ページをめくる。
速さが必要だった。でも、正確さも必要だった。写し間違えたら、意味が変わる。線一本の位置で術式は別のものになる。俺は、地脈杭でそれを知っていた。だから、速く、正確に。二つを両立させる。エンジニアがいつもやっていることだった。
一日目。十枚。
二日目。十二枚。
手が痛くなった。指が震えた。それでも写した。
三日目の夜、レンが言った。
「これ、あんたがいつも言ってる写すだけの人じゃないの」
俺は手を止めた。
「魔法を覚えるだけでなんでか分かんない人。写すだけの人。あんた、それ、駄目だって言ってた。なのに、今、写してる」
レンの言う通りだった。
俺は写すだけになるな、と、言ってきた。理解しろ、と。写すだけの人間が、この世界を駄目にした、と。碑文にも、そうあった。写す者は職人である、と。
なのに、今、俺は写すだけをしている。理解を後回しにして。意味も分からないまま。
「……そうだな」
俺は言った。
「俺は、今、写すだけの人間になってる」
でも、と、俺は思った。
写すことが駄目なんじゃない。
写すだけで満足するのが駄目なんだ。写して、それで、分かったつもりになって、理解をしないのが。……俺は写してる。でも、満足はしてない。後で、必ず、読む、理解する。写すのは、その準備だ。理解を捨てるための写しじゃない。理解を守るための写しだ。
同じ「写す」でも、向きが逆だった。
二百年前の人たちは、理解を捨てて写した。俺は、理解を後で取り戻すために写している。
「レン。写すのは駄目じゃない。写してそれっきりにするのが駄目なんだ。俺は、後で、ちゃんと読む。だから、今は写す」
レンは、少し、考えて言った。
「ふうん。……じゃあ、あたしも写す?」
「レンは字が」
「形は写せる。意味、分かんなくても、形なら真似できる」
俺は、レンを見た。
この子は字が読めない。でも、形は写せる。意味の分からない記号をそっくり真似ることはできる。……それも写しだ。理解の無い写し。でも、残すための写し。
「頼む」
俺は言った。
四人分の手が——アリシアと、レンと、俺と、そして、二百年前のエルドレインの手が。
いや、四人じゃない。
エルドレインは書いた。二百年前に。誰かが読むこと、賭けて。
俺たちは写している。今。次の誰かが読めるように。
同じことをしていた。時を隔てて。書く者と、写す者。どちらも、未来に賭けている。碑文の、写す者は職人である、という一行が初めて、優しく聞こえた。職人がいなければ、創る者の仕事は残らない。写す者がいなければ、二百年後にそれを読む者もいない。
写すことは卑しくない。
写して、それっきりにすることが卑しいだけだ。
五日目の夜、写し終えた。
六冊目、全四十三枚。図も、文字も、記号も、全部。意味は、まだ、ひとつも分かっていない。でも、写しが手元にある。
俺は、写した紙の束を見た。
この中に、エルドレインの最後の言葉がある。属性を抜く方法を完成させたのか。諦めたのか。何を、最後に書き残したのか。……全部、この束の中にある。まだ、読めないだけだ。
読むのはこれからだ。何か月でもかけて。アリシアと、二人で。
でも、もう、失われない。写したから。
六日目。返還の日。
オルグレンの立会いで、遺稿六冊を家の使いに渡した。
使いは、六冊を確かめた。封緘の術式が破られていることに気づいたようだった。眉を寄せた。だが、何も言わなかった。開かれた本を、六冊、木箱に収めて去っていった。
原本は、家に戻った。
また、封じられるだろう。あるいは燃やされるかもしれない。エルドレインの取り消しの記録は、家にとって都合が悪すぎる。
でも、遅かった。
俺は写した。二百年前、誰もしなかったことを。
家は原本を取り戻せた。だが、原本が語っていたことは、もう、取り戻せない。俺の手元に、写しがある。俺の頭の中に、五冊分の理解がある。そして、六冊目は、まだ読んでいないが、写しがある。いつか読む。
書けば残る。
写せば残る。
二百年前と、今の違いはそれだけだった。
その夜、俺はメモを開いた。
『六冊目、写し取り完了。全四十三枚。原本は家へ返還。未読。……だが、失われていない。』
書いてから、俺はその下にもう一行足した。
『理解は、間に合わなくていい。残すことだけ、間に合えばいい。書くことと、読むことは、違う。』
ペンを置いた。
机の上に、写しの束があった。
エルドレインの、最後の言葉がその中で、まだ、眠っていた。読まれるのを待って。二百年、待ったんだ。あと、数か月くらい待てるだろう。
俺は、明かりを消した。




