第19話 写す者
読むのは、遅かった。
俺が図を見て、構造を声に出す。ここは分岐、ここは繰り返し、ここは外へ出す経路。アリシアが、それを文法に照らす。この構造なら、こういう術式のはず、と。二人で、一つの図を半日かけて訳す。
俺には、構造は見えるが、意味は分からない。アリシアには、意味は分かるが、構造は読めない。彼女は魔法陣の文字を読んで意味を取り、俺は文字が読めない代わりに、図の構造だけを追う。二つを突き合わせて、初めて、一枚が読める。
二冊目に入るのに十日かかった。
二冊目は、一冊目の続きだった。
一冊目は、中心核の空いた術式のフレームだった。外周と、星と、文字。属性が入る前の、枠組みだけの図。俺は、それをフレームと呼ぶことにしていた。前の世界で、そういう、中身の入る前の骨組みを、そう呼んでいたからだ。
二冊目は、その空欄に、何かを差し込む図だった。
差し込まれるのは、あの六属性の記号だ。火。水。風。土。光。闇。フレームの中心に、記号を一つずつ置いていく。ページが進むごとに、置き方が丁寧になっていく。試行錯誤の跡だった。
「属性を作っている」
俺は言った。
「これは、属性が差し込まれる瞬間の記録です。誰かが、フレームに、属性を後から足していってる。……エルドレインか、その周りの誰かが」
アリシアは、黙って図を見ていた。
俺は、ページを進めた。属性を差し込んだ図の隣に、差し込む前のフレームが、対で並べてある。ビフォーとアフターだ。設計者が、二つを見比べられるように、並べてある。
その並びを見て、俺は、あることに気づいた。
「アリシアさん。この、属性を入れる前のフレーム。……これ、どんな属性でも、入れられます」
「どういう意味ですか」
「中心核が空いてる、ってことは、まだ属性が決まってないってことです。火を入れれば火の術式になる。水を入れれば水になる。フレームは、同じ。ひとつのフレームから、六種類、全部作れる」
俺は、図の外周と星を指した。
「フレームを理解していれば、属性は後で選べる。逆に言うと——属性が決まった後の術式しか知らない人間は、フレームを知らない。火の術式しか習ってない人間は、火の術式の形を、丸ごと暗記してるだけです。なんでその形なのかは、知らない」
言いながら、俺は、自分が何を言っているのかに、気づき始めていた。
アリシアも、気づいたようだった。顔が、少し、青かった。
「続けてください」
「属性を差し込むと、便利になります」
俺は、慎重に、言葉を選んだ。
「フレームを理解しなくても、魔法が使えるようになる。火属性の子は、火の術式を丸暗記すればいい。フレームが何か、なんで動くのか、知らなくていい。……覚えればいい。それだけで、火が出せる」
「それは」
「魔法が、広まります。速く。理解できる人間は、少ない。でも、暗記できる人間は、多い。属性を差し込んで、術式を属性ごとに固定してしまえば、あとは、覚えるだけの技術になる。理解する魔法から、覚える魔法に、変わる」
部屋が、静かだった。
「それが、この記録の続きに書いてあることだと思います。属性は、魔法を広めるために、差し込まれた。……そして、広まった。今、この世界には、火の術式を暗記した人間が、大勢いる。誰も、フレームを知らないまま」
俺は、椅子の背にもたれた。
ずっと、分からなかったことが、一つ、繋がった気がした。
この世界の魔法書には、術式だけが載っていて、理由が書いていない。どうしてこの形になったのかが、一文字も書いていない。初めて書庫に入った日、俺はそれを「魔法の考え方が失われている」と言った。そして、ここまで杭を直しながら、こう思ってきた——誰かが悪意で消したんじゃない。誰も、書かなかっただけだ、と。
違った。
書かなくてよくなったんだ。属性を差し込んだ瞬間から。
フレームを理解する必要が、なくなった。だから、フレームの理由を、書き残す必要も、なくなった。属性ごとに固定された術式を、暗記して、写して、次の世代へ渡す。写す者だけがいれば、魔法は回る。理解する者は、要らなくなった。
エルドレインの碑文を、思い出した。
術式を写す者は職人である。術式を理解する者は研究者である。術式を創る者だけが未来を残す。
あれは、区別じゃなかった。
警告だったんだ。
写すだけになるな、という。属性を差し込んで、写すだけで回る世界を作ったのは、たぶん、エルドレイン自身か、その時代の人間だ。作って、広めて、成功して——そして、失うものに、後から気づいた。理解が、消えていくことに。だから、晩年、著述に没頭した。フレームを、原型を、描き残そうとした。属性を入れる前は、こうだった、と。
間に合わなかった。遺稿は、全部、未完だ。
そして、家が、封じた。
「アリシアさん」
俺は、声をかけた。
彼女は、ずっと、図を見ていた。差し込まれた属性の記号を。
「私の家は」
彼女が、先に言った。
「属性を、極めた家です。エルドレイン家は、六属性のすべてを高度に扱える、稀有な血統だと。……二百年、そう言われてきました。それが、家の誇りでした」
「はい」
「でも、この図が本当なら」
アリシアは、差し込みの図に、指を置いた。
「私の家は六属性を扱えたんじゃない。……差し込めたんです。フレームの中心に、火でも、水でも、どれでも。それは、扱う技術じゃありません。決める技術です。何を、そこに入れるかを、決める技術」
決める技術。
その言葉が、頭に残った。術式の中心に、何を差し込むかを決められる家。
「私の祖先がやったのは、属性を極めたことじゃない。属性を、作ったことです。魔法から、理解を、抜いたことです。……家の誇りは、その上に、立っていた」
俺は、何も言えなかった。
「無能な祖先より、臆病な祖先の方がまだ誇れる、と、前に言いました」
アリシアは、静かに言った。
「取り消します。臆病でも、無能でもなかった。……有能でした。有能に、間違えたんです。一番、始末に負えない」
彼女は、笑わなかった。俺も、笑えなかった。
その日は、それで終わりにした。
三冊目には、進まなかった。アリシアが、進めなかった。
帰り際、レンが、ぽつりと言った。
「あたしみたいなのが、元々だったってこと?」
俺とアリシアは、レンを見た。
「属性、無いのが、元々。みんな、後から入れた。あたしは、入れてない。……あたしが、欠けてるんじゃなくて、みんなが、足してるだけ?」
俺は、答えを持っていなかった。まだ、確かめていない。図は、二冊読んだだけだ。
でも、この子は、たった二冊で、俺が一番言いたかったことに、触れていた。
「かもしれない」
俺は言った。
「まだ、分からない。でも、かもしれない」
レンは、少し考えて、それから、いつもの調子に戻った。
「ふうん。飯、行こ」
書庫を出て、廊下を歩きながら、俺は、別のことを考えていた。
術式の中心に、何を差し込むかを決められる家。
だとすれば。
人の属性は、どうやって決まるんだろう。この世界の人間は、みんな、一人ひとつ、属性を持っている。生まれつき決まっている、ということになっている。火属性の子。水属性の子。……本当に、生まれつきなんだろうか。
術式に後から差し込めるものが、人には差し込めない、と、誰が言った。
俺は、あの判定石を思い出していた。転移した日と、草原で、二度握って、二度とも何も起きなかった、あの石。あれは、俺の属性を「読む」ための石だ、とアリシアは言った。
読む。
本当に、読んでいるんだろうか。
俺は、その考えを、まだ言葉にしなかった。図は、二冊だ。残りの四冊に、答えがあるかもしれない。無いかもしれない。確かめてから言う。それが、俺のやり方だった。
でも、もし、あの石が、読む石じゃなくて——人に、何かを差し込む石だったら。
俺は、廊下の途中で、足を止めそうになった。止めなかった。まだ、早い。
その夜、メモを開いた。
八行目に、俺は書いた。
『遺稿二冊目。属性は、魔法を暗記可能にするために術式へ差し込まれたもの。理解を不要にし、魔法を普及させた。代償として、魔法の考え方が失われた。その原因。ただし俺の読解による解釈。要検証』
書いてから、俺は、一行目を、もう一度見た。
『一、属性は後付けの可能性。要検証』
後付けであることは、もう、ほぼ間違いない。フレームの図があり、差し込みの図がある。二冊が、裏づけている。
でも、要検証の三文字は、まだ消さなかった。
なぜなら、まだ、一番大事なことが、確かめられていない。
属性が、術式に後から差し込まれるものだとして——人にも、同じことが、行われているんじゃないか。
俺の判定石が、反応しない理由。レンの、隙間が見える理由。
その答えは、この六冊の、どこかにあるはずだった。
俺は、九行目に、一行だけ書いた。
『判定石は、属性を「読む」装置か。それとも、人に「差し込む」装置か。要確認』
書いて、その行を、しばらく見ていた。
もし後者なら、俺は、二度、握っていた。




