第17話 遺稿
レンが答えを持ってきたのは、三日後だった。
朝、いつものように窓の外にいた。二階の窓枠に手をかけて、中を覗いている。俺が窓を開けると、飛び込んでくる前に、外にいたまま言った。
「決めた」
「聞く」
「逃げない。隠れない」
レンは窓枠に腰かけた。いつでも出ていける場所。だが、今日は、出ていく気配がなかった。
「あんたのこと、手伝う」
俺は、すぐには返事をしなかった。手伝う、というのは、あの子の能力を使う、ということだ。使えば、隠せなくなる。それを、この子は分かって言っている。
「なんで、そっちを選んだ」
「無くなるんでしょ。あたしの、隙間が見えるやつ。あんたが直すたびに、減ってく」
「……ああ」
「じゃあ、無くなる前に、使いたい」
レンは、窓の外を見た。
「ずっと、欠陥だって言われてきた。属性が無いのは、欠陥だって。あんただけが、特性だって言った。……特性なら使いたい。使って、何かの役に立ってから無くなりたい。欠陥のまま無くなるのは嫌だ」
俺はこの子を見た。十五かそこらの子が、自分の能力の終わりを見据えて、その使い道を選んでいる。俺が二十六年生きて、やっと分かったようなことを。
「分かった」
俺は言った。
「ひとつだけ、ルールがある。全部、記録する。何を見て、何が分かったか、いつ、どこで。レンが何をしたかも、全部書く。書いておけば、レンの能力が無くなった後も、レンが何をしたかは残る。……それでいいか」
「残る?」
「残る。二百年後でも、誰かが読む」
レンは、少し考えた。
「じゃあ、いい」
最初に向かったのは書庫だった。
改修は止まっている。杭には近づけない。でも、書庫なら、外来研究員の権限で入れる。そして、書庫には、まだ確かめていないものがあった。
「エルドレイン家の家譜にこう書いてあったんです」
俺は、アリシアにも来てもらっていた。三人で、奥の棚の前に立った。
「初代エルドレインは、遺稿を多数残した。いずれも未完で、遺言によって封じられた。俺たちが前に開けた変更履歴の本は、そのうちの一冊です。……一冊とは限らない」
「他にもある、と」
アリシアが言った。
「あるはずです。でも、封緘された本は、見た目では分かりません。背表紙も、装丁も、普通の本と同じだ。何万冊の中から、封じられた数冊を探すのは——」
「あたし、分かるよ」
レンが言った。
俺とアリシアは、彼女を見た。
「封じてあるやつ。隙間、見えるもん。鍵みたいなのあるでしょ。あれ、隙間なんだよ、あたしには」
前に、封緘の術式を見たとき、俺は思った。あれは鍵ではなく条件分岐だ、と。触った人間を判定して、開くか弾くかを決める。判定する値が、俺には見えなかった。
レンには、その分岐が、隙間として見えている。だから開けられた。そして今、棚に並んだ本のうちどれが封じられているかも、隙間の有無で見分けられる。
「探せるか」
「探す」
レンは、棚の間を歩き始めた。
二時間かかった。
書庫は広く、棚は高い。レンは、床から見上げ、時々、棚をよじ登り、背表紙の列に沿って目を走らせた。魔力が無いから、体が軽い。高い棚も、手すりのない梯子も、平気で登った。
見つかったのは、五冊だった。
変更履歴の本を入れて、六冊。全部、同じ書架の、目録に載っていない区画にあった。二百年、誰も開けなかった本が、六冊。
レンが、一冊ずつ、隙間に指を入れた。全部、開いた。
俺は、机に六冊を並べた。アリシアが、震える手で、最初の一冊を開いた。
そして、止まった。
「……読めません」
「え」
「文字が、ありません。これは——」
俺は、横から覗いた。
文字ではなかった。ページ一面に、幾何学模様が描かれていた。円。星。線。中心核。魔法陣に似ているが、術式ではない。発動するための図ではなかった。もっと、抽象的な、構造そのものを描いた図だった。
そして、その構造が、俺の頭に入ってきた。意味は分からない。だが、構造は分かる。転移してきた日から、ずっとそうだったように。
「アリシアさんには、読めませんか」
「読めません。文字なら読めます。でも、これは、文字じゃない。図です。……こんな書き方の術式書は、見たことがない」
俺は、ページをめくった。次も、その次も、図だった。文字は一つもない。二百年間、この本を開けた人間がいたとして、その人間は、これを読めなかっただろう。文字を探して、見つからず、意味の無い落書きだと思って、閉じたはずだ。
でも、俺には、構造が入ってくる。
俺は、開ける人間がいなかった本を、レンに開けてもらった。そして、その中身は、文字を読む人間には読めず、構造を読む人間にしか読めないものだった。
二百年、この本を読める組み合わせは、存在しなかった。
開ける者と、読む者。二人、揃わなければ、読めない。
「アリシアさん」
「はい」
「これ、俺が読めます。たぶん」
アリシアは、俺を見た。それから、レンを見た。
「開けるのはこの子、読むのはあなた。……二人でないと、意味をなさないんですね」
「そうみたいです」
その図が何を意味するのかは、その日には分からなかった。
構造は入ってくる。でも、構造の意味を、俺はまだ知らない。魔法陣の文法を、俺はきちんと学んでいない。ずっと後回しにしてきた。文字を覚えるのに手一杯で、術式の意味までは、手が回っていなかった。
「読むには、時間がかかります」
俺は言った。
「構造は見える。でも、それが何を言ってるかを訳すには、俺がもっと、魔法の文法を知らないといけない。アリシアさんに教わりながらになります」
「私が文法を教えて、あなたが構造を読む」
「レンが、本を開ける」
三人、揃わないと、進まない。
おかしなものだった。俺は構造しか読めない。アリシアは文字しか読めない。レンは隙間しか見えない。一人では、誰も、この本を読めない。欠けたところを、互いに埋めている。
欠陥と特性は別物だ、と、俺は前にレンに言った。
三人分の欠けが、集まって、一つの特性になっていた。
その夜、俺はメモを開いた。
七行目に、俺は書いた。
『書庫に、封緘された遺稿が六冊。レンが発見・開封。うち一冊は、文字ではなく構造で記述されている。俺のみ読解可能の見込み。ただし術式文法の習得が必要。読解には、レン(開封)、俺(構造)、アリシア(文法)の三名を要する』
書いてから、俺は、レンの名前が記録に載ったことに気づいた。
発見・開封、レン。
あの子が何をしたかが、初めて、俺の外に、残った。委員会が来ても、家が来ても、この一行は消えない。レンが、二百年、誰も読めなかった本を開けた。それは、事実だ。確かめてある。俺が見た。
能力は、いつか無くなる。
でも、この一行は、残る。
俺は、その行を、しばらく見ていた。それから、八行目を空けて、ペンを置いた。




