第16話 選択
委員会の設置には、時間がかかるらしかった。
王宮が上申を受け、人選をして、規程を作る。オルグレンの見立てでは、早くて二月、遅ければ半年。その間、改修は止まる。査問は追放を勧告しなかったが、続けていいとも言わなかった。俺は宙ぶらりんのまま、学院の部屋に置かれていた。
やることがないわけではなかった。ハウゼンの三十八年分を、まだ整理しきれていない。俺は毎日、詰所へ通って、数字に理由をつけていった。彼が思い出す。俺が書く。全部は戻らない。それでも、思い出せる分だけ、数字に理由が戻っていった。
でも、頭のどこかで、ずっと五行目のことを考えていた。
きっかけは、些細なことだった。
ある朝、食堂でレンと飯を食っていると、隣の卓の学生たちが話していた。委員会の噂だ。地脈杭の話が、学生にまで降りてきている。
その中で、一人が言った。
「防護術式も、いずれ全部調べ直すらしいぞ。第三障壁とか、古いやつから」
俺は箸を止めた。
レンは、聞いていないふりをして、スープを飲んでいた。だが、飲む速さが、ほんの少し落ちた。
この子は、ばかじゃない。
俺はずっと、レンを知らないままにしてきた。あの子のために空白を守っている、と思っていた。守っている、と。
でも、守られている人間が、自分が守られていることを知らないなら、それは守りだろうか。
俺は、あの子の頭越しに、あの子の危険を判断していた。書くか書かないかを、俺が決めていた。それは——エルドレイン家が、初代の主張を家中で封じて、当人の代わりに二代目が決めたのと、どこが違う。
秩序を乱すから、と言って。
あの子のためだから、と言って。
その日の午後、俺はレンを部屋に呼んだ。
「話がある」
「なに」
「座って」
レンは椅子に座らなかった。窓枠に腰かけた。いつでも出ていける場所だ。この子はいつも、そういう場所に座る。
「レンは覚えてるか。初めて会った日。壁を通り抜けたこと」
「覚えてる」
「あれから俺は色々分かってきた。全部は分からないけど、分かってきたことがある。……レンが通れる壁と、通れない壁があるだろう」
「ある」
「その違いを俺は説明できる。たぶん」
レンは俺を見た。初めて、窓の外ではなく、俺を。
「壁に隙間があるって、レンは言ったよな。俺には見えない隙間だ。あれは、壁の術式のバグだ。設計が間違ってるところに、隙間が見える。間違ってない壁には、隙間がない。だから通れない」
「……ふうん」
「地脈杭を直したら、隙間が消えただろう。あれは、俺が間違いを直したからだ。直すと、隙間は消える」
レンは、しばらく黙っていた。それから静かに言った。
「知ってた」
「え」
「なんとなく。直ったとこ、通れなくなる。前から、そんな気がしてた」
俺は、言葉に詰まった。この子は、俺が教える前から、自分の足元が狭くなっていくのを、感じていた。第三障壁のことも、たぶん、うすうす。
「レン」
「なに」
「これから、委員会っていうのができる。国が、壁とか、杭とか、術式を全部調べ直す。そうなると、レンみたいに壁を通れる人がいるって、いつか、見つかる。……見つかったら、レンは調べられる。研究の対象として。悪くすると、危ない目に遭うかもしれない」
言った。全部、言った。
部屋が静かだった。
レンは、窓の外を見た。それから、俺に聞いた。
「なんで、今、言うの」
いい質問だった。この子は、いつもいい質問をする。
「ずっと、言わないでおこうと思ってた。言わなければ、レンは知らないままで、知らないままなら、うっかり誰かに話すこともない。安全だと思ってた」
「じゃあ、なんで」
「知らないままでいてもらうっていうのは、レンの代わりに、俺が決めてるってことだ。何を知って、何を知らないでいるかを、俺が選んでる。……それは、俺が一番嫌いなやり方だった」
俺は、机の上のメモを見た。五行目の空白を。
「俺は、書かないと消える、って言い続けてきた。なのに、レンのことだけは、隠してた。レンのためだって言って」
本当は、レンのためじゃなかった。レンを危険に晒すのが怖くて、自分が楽なように、知らないままにしていた。それを、口に出しては言えなかった。
「だから、言う。危ないことは、危ないと言う」
長い沈黙があった。
レンは、窓枠から降りた。初めて、床に足をつけて、俺の前に立った。
「ひとつ、聞いていい?」
「ああ」
「その隙間、無くなったら。世界中の壁が全部直ったら。あたし、どこも通れなくなる?」
俺は、嘘をつけなかった。
「たぶん、そうなる」
「あたしの、たったひとつのできることが無くなる」
「……そうだ」
レンは少し笑った。泣きそうな笑い方じゃなかった。もっと、乾いた、大人びた笑い方だった。
「変なの。あんたは壁を直す人でしょ。あたしの隙間を無くしていく人。なのに、あたしに、逃げろって言う」
「言ってる」
「自分で無くしといて」
「そうだ。矛盾してる」
俺は認めた。
「俺は壁を直したい。全部の隙間を無くしたい。それが、俺のやりたいことだ。でも、それをやると、レンの居場所が無くなる。両方は成り立たない。……だから、俺は、それも記録に書く。俺のやってることが、レンから何を奪うのかを、書く。書いておけば、いつか、誰かが、その両方を成り立たせる方法を見つけるかもしれない」
「あんたは、見つけられないの?」
「今は、無理だ。俺には、そこまでの頭がない。でも、書いておけば」
「次の誰かが読む」
レンが、俺の言葉を、先に言った。
いつのまにか、覚えていた。俺が、いつも言っていることを。
その夜、俺はメモを開いた。
五行目に、俺は初めて、書いた。
『レンの「隙間」は、術式の欠陥に対応する。俺が欠陥を直すほど、レンの通れる場所は減る。俺の仕事は、この子の居場所を奪う仕事でもある。両立の方法は、まだ分からない。本人には、全て伝えた。逃げるか、調べるかは、本人が決める』
書いてから、俺は長いこと、その行を見ていた。
ずっと空けてきた行だ。空けておくことが、あの子を守ることだと思っていた。違った。空けておくことは、あの子を、俺の頭の中だけに閉じ込めておくことだった。書いて、初めて、あの子は、俺の外に出た。俺以外の誰かが、いつか読める場所に。
五行目の下に、六行目がある。査問と委員会のことが書いてある。
俺は、七行目を作った。
そこには、何も書かなかった。
次に何が起きるかは、まだ分からない。分からないことのために、行だけ空けておく。それは、逃げじゃない。場所を、用意しておくことだ。
備考欄が、二百年、そうであったように。




