第12話 アリシアの葛藤
削り跡のことを、俺は三日間、誰にも言わずに考えた。
考えても、材料が足りなかった。誰が刻んで、誰が消したのか。二百年前なのか、もっと後なのか。石は何も教えてくれない。分からないものは分からないままだ。俺はそれを紙に書いて、引き出しに入れた。
四日目に、アリシアが来た。
いつもと様子が違った。手に、一冊の本を持っていた。あの、封緘された変更履歴の本ではない。もっと薄い、新しい本だった。
「家に行ってきました」
彼女は言った。
「先日の家からの封筒。あれの返事をしに」
「何を言われたんですか」
「予想通りのことです。噂を鎮めろ、と。エルドレイン家の名で、あの改修は正当な補修だったと学院に働きかけろ、と」
「補修だったことにしろ、ということですか」
「そうです。欠陥ではなく、補修。言葉一つの違いですが、家にとっては全てです」
アリシアは本を机に置いた。
「断ってきました。それで、これを持って帰りました。家の書庫にあったものです」
本は、エルドレイン家の家譜だった。
当主が代々書き継いできた、家の記録。誰がいつ生まれ、誰と結婚し、いつ死んだか。それだけの本のはずだった。
「ここです」
アリシアが開いたのは、後ろの方のページだった。俺は文字を追った。拾い読みだが、日付と名前くらいは分かる。
初代エルドレイン卿の死の記録だった。
『大魔法師エルドレイン、逝去。享年六十一。晩年、著述に没頭す。遺稿多数あれどいずれも未完。当人の遺言によりこれを封ず』
「遺稿を封じた」
「はい」
「あの本ですね。変更履歴の」
「たぶん。あれ一冊とは限りませんが」
俺は次の行を読もうとした。読めなかった。字が細かく、古い書体だった。アリシアが代わりに読んだ。
「『卿の晩年の主張は、家中に受け入れられず』」
「主張」
「続きがあります。『属性の術式は卿の完成せしものにあらず、後人の付加なりと、卿は繰り返し述べたり。されど、これを公にせば、王国の秩序を乱すこと必定なれば、二代当主これを封じ、家訓としてその名を口にすることを禁ず』」
部屋が静かになった。
属性は、後から加えたものである。
あの本の最後の一行を、初代エルドレインは生前、繰り返し口にしていた。そして、それを息子が封じた。
「二代当主が封じた」
俺は言った。
「刻印の技能を持つ人間が削り跡を消した」
「同じ人物とは限りません」
「限りません。でも」
俺は言葉を切った。飛躍しかけていた。材料はまだ足りない。
二百年前、初代エルドレインは属性が後付けだと知っていた。地脈杭に自分の修正を刻んだかもしれない。そして誰かがその修正を消した。家は、彼の主張そのものを封じた。
全部を一本の線で繋ぎたくなる。繋げば、綺麗な話になる。父が正しく、息子が隠し、二百年が過ぎた、という。
でも、地脈杭の削り跡と家譜の記述を繋ぐ証拠は、今のところ何もない。時期も、人物も、確かめていない。
「アリシアさん」
「はい」
「これは、繋がりそうで、繋がっていません」
「分かっています」
彼女は静かに言った。
「私も、馬車の中でずっとそれを考えていました。父が正しかった、という話にしたい自分がいます。エルドレイン家は間違ったのではなく、正しいことを隠しただけだ、と。……その方が、少し楽ですから」
「楽?」
「無能な祖先より、臆病な祖先の方がまだ誇れます」
俺は何も言えなかった。
臆病、というのは、知っていて隠した、ということだ。彼女は今、自分の家に、無知ではなく罪を選んで与えている。その方がまだ向き合える、と言っている。
その日から、俺は削り跡の実物をもっと集めることにした。
繋ぐ前に数を揃える。一本の杭の削り跡は偶然かもしれない。二本なら疑わしい。十本の杭の同じ場所に同じ削り跡があれば、それはもう偶然ではない。
問題は、稼働中の杭には勝手に近づけないことだった。俺が正式に触れるのは、承認の下りた第四十一杭だけだ。
「点検です」
ハウゼンが言った。
「四十年、私が北線の点検をしてきた。杭に近づく理由なら、いくらでもある」
「記録は」
「点検記録に、石の状態を書く欄がある。ずっと『異常なし』と書いてきた。……削り跡を、異常と見なすかどうかは、書く者次第だ」
彼は自分の手帳を出した。北線の杭が、番号順に並んでいる。
「明日から順に見ていく。あんたは来るな。外来研究員が稼働中の杭をうろつけば、また申請の話になる」
「俺が行けないなら、何を見ればいいか決めておかないと」
「言え」
「線と線の間。既存の術式の、余白にあたる部分です。俺が第四十一杭で修正を入れようとした、あの位置。そこに、削って均した跡があるかどうか。あれば、位置と、大きさと、どのくらい摩耗しているかを記録してください」
「摩耗?」
「古い跡ほど、角が取れています。摩耗の度合いが揃っていれば、同じ時期に消されたことになります。バラバラなら、別の時期に、別の人間が消したことになります」
ハウゼンは手帳に書きつけた。それから、少し笑った。初めて見る顔だった。
「四十年、異常なしとしか書かんかった欄だ」
「これからは、違うことを書けます」
「そうだな」
二週間かけて、ハウゼンは北線四十一本を回った。
俺は詰所で待って、彼が戻るたびに記録を写した。
削り跡があったのは、四十一本のうち、七本だった。
全部、王都に近い側の杭だった。第四十一杭、第四十杭、第三十九杭——下流から数えて七本。そこから上流の杭には跡がなかった。
「途中で、やめている」
俺は地図の上に跡のあった杭を印した。王都側から連続して七本。そこで、ぷつりと途切れている。
順序だ、と思った。
二百年前の誰かも、王都側から始めた。俺と同じだ。一本ずつ、上流へ向かって直していった。七本目まで進んで——止まった。
止めたのではない。止められたのだ。跡が消されている以上、直した人間と、消した人間がいる。直す者が七本進んだところで、消す者が追いついた。
「七本目で何があったんですか」
俺は誰にともなく言った。
答える者はいなかった。
摩耗の度合いは、七本とも同じだった。同じ時期に消されている。一人の消す者が、七本まとめて消した。
その夜、メモを開いた。
四行目には、削り跡のことが書いてある。俺はその下に、書き足した。
北線に、同じ削り跡が七本。すべて王都側。摩耗が均一。二百年前、王都側から順に直した者がいる。七本で止まり、まとめて消された。実行者と消去者は別。エルドレイン家譜に符合する記述あり。ただし直接の証拠なし。
書いて、読み返した。
俺がやろうとしていることは、二百年前に、すでに一度やられていた。同じ順序で、同じ場所に、同じ線を刻んで。そして消された。
俺は今、七本目の続きを、八本目からやり直している。
消した人間が、まだどこかにいるのかは、分からない。二百年前に死んでいるのかもしれない。家訓だけが残って、消す仕事は誰も引き継いでいないのかもしれない。
それとも。
俺はペンを止めた。
五行目は、今夜も空いていた。あの子の行だ。
その下に、六行目を作りたくなった。今度は、消す者について書く行を。
やめた。まだ、何も確かめていない。




