第11話 刻印士
出発の朝、俺は荷台の縁を見た。
誰も座っていない。分かっていて見た。癖になっていた。
北線・第四十一杭は、王都の城壁を出て十五分の場所にある。馬車も要らない距離だった。歩いていくと、城壁の影が朝のうちだけ杭の上にかかっていた。
王宮から来た刻印士は、先に着いていた。
「ザイフェルトだ」
五十くらいの男だった。革の道具袋を肩から下げていて、それ以外は何も持っていない。
「桐島です。設計をしました」
「図面は」
俺は写しを渡した。ザイフェルトはその場で広げ、一分ほど見て、畳んだ。
「刻める」
「質問はありませんか」
「ない」
俺は少し迷ってから、聞いた。
「これ、分かって刻んでますか」
ザイフェルトは俺を見た。目つきが変わったわけではなかった。
「分からん」
「分からない?」
「分かる必要がない。図面の通りに刻む。線の太さ、深さ、角度、始点と終点。それが仕事だ」
「意味を知らずに刻むのは、怖くないですか」
「意味を知っていると思い込んで刻む方が怖い」
俺は黙った。
「三十年やっている。私が意図を汲んで線を一本ずらしたら、それは私の設計だ。誰も承認していない設計が、国の設備に入る」
彼は道具袋を下ろした。
「私は写す。あんたは設計する。一緒にするな」
草原でアリシアに「分かって刻んでますか」と聞いたときのことを思い出した。あのとき俺は、分かっていない者に刻ませたくないと思っていた。今日、俺は正反対の答えを聞いて、反論できずにいる。
エルドレインの碑文が浮かんだ。写す者は職人である。理解する者は研究者である。
あの三行は、写す者を下に置いてはいなかった。
三日、測った。
ハウゼンの計器で、朝の同じ時刻に一回分。二十六・三。二十五・七。二十六・〇。第四十杭を物差しに取って、条件が揃った日を選ぶ。
アリシアは毎日来ていた。計器には触らない。刻印にも関わらない。ただ、記録を取る俺の後ろに立って、数字を書き写していた。
「写しても、公式の記録にはなりませんよ」
「知っています」
彼女はそう言って、手を止めなかった。
王都側の受入量も同時に記録した。ハウゼンの三十八年分の記録から、この季節の平均と変動幅を出してある。日によって二十から三十は動く。杭一本分の六が、そこに埋もれるかどうか。
埋もれる、と俺は申請書に書いた。書いた通りになるだろうと思っていた。
四日目の朝、ザイフェルトが道具を並べた。
俺は最後にもう一度、刻む場所を確認した。台座に膝をついて、石の表面に顔を近づけた。
そこで、手が止まった。
「……ザイフェルトさん」
「何だ」
「ここ、削られてます」
彼は屈んで、俺が指した場所を見た。それから、道具袋から小さな刷毛を出して、石の表面を払った。
跡があった。
既存の術式の線と線の間、俺が新しい線を入れようとしていた、まさにその場所だ。石が浅く削られて、また埋め戻したように均されている。二百年分の風雨で角が丸くなっていて、ぱっと見では模様の一部にしか見えない。
「一度、何かが刻まれています」
俺は言った。
「刻まれて、消されている」
ザイフェルトは長いこと、その場所を見ていた。
「……そうだな」
「素人の仕事ですか」
「違う」
彼は即答した。
「削り方が均一だ。石を割らずに、深さを揃えて落としている。刻める人間がやっている」
後ろで、アリシアが動いた。彼女も膝をついて、同じ場所を見た。長い時間だった。
「消したのは、刻印士です」
彼女が言った。
「素人には、この均し方はできません」
俺は自分の図面を見た。それから、削り跡を見た。
位置が同じだ。長さもたぶん同じだ。
誰かが、二百年前に俺と同じ線を刻んだ。
そして誰かがそれを消した。
三人とも、しばらく何も言わなかった。
城壁の影が動いて杭の上から外れた。
「どうする」
ハウゼンが聞いた。俺は考えた。考えるべきことは多くない。
「予定通りやります」
「跡のことは」
「跡が何かは分かりません。誰が刻んだのかも、誰が消したのかも、なぜ消したのかも。分からないものは、今日の作業に関係ありません」
「関係あるかもしれん」
「あるかもしれません。でも、確かめる方法が今日はない」
俺は立ち上がった。
「同じ場所に、同じ線を刻みます。前に誰かがやって消されたからといって、俺の計算が間違っていることにはならない。今日測るのはそれだけです」
ザイフェルトは道具を取った。
「位置は削り跡の通りでいいか」
「図面の通りでお願いします。結果的に同じになると思いますが、俺が指定したのは図面の方です」
「了解した」
彼は一時間で刻んだ。アリシアは一時間半かかった作業だった。ザイフェルトの線は、既存の術式と見分けがつかなかった。どこを足したのか、図面を見なければ分からないほどだった。
アリシアは、その手元をずっと見ていた。
測定。
第四十一杭、二十・二。
前日は二十六・〇。五・八下がった。
下流に杭はない。逃がした分の行き先は、王都しかない。
俺たちは受入口へ移動した。ハウゼンが記録を確認した。
その日の受入量は、平均より少し高かった。少しだけだ。前日との差は、日ごとの変動幅の中にすっぽり入っていた。
「変動の内だ」
「はい」
「予告通りだ」
「予告通りです」
俺は記録にそう書いた。王都側では確認できず、と。ただし第四十一杭の消費は確実に下がっており、下流に杭がない以上、その分の行き先は王都以外にない、と。
証明ではない。証明の一枚目だ。
二本目、三本目と積んでいけば、いずれ変動幅を超える。そのときに初めて、王都側の数字が動いたと言える。それまでは、こう書くしかない。
三日、様子を見た。異常はなかった。灯りは消えなかった。
学院に戻って、俺は工事記録を提出した。
日付。線名と杭番号。変更内容。施工者、ザイフェルト。承認者、オルグレン。設計者の欄はない。『本改修は、エルドレイン卿の原設計に基づく補修である』の一行がある。
備考欄に五行。
オルグレンは全部読んで判を押した。
「削り跡のことは書いていないな」
「書けません」
「なぜだ」
「確かめていないからです」
俺は言った。
「あの跡が何なのか、俺には分かりません。誰かが同じ修正をして消された、というのは俺の推測です。推測を記録に書いたら、二百年後にそれが事実として読まれます」
オルグレンは判を置いた。
「五行しかない、というのもあるだろう」
「それもあります」
正直に言った。書きたいことは六つあった。枠は五行だった。
「どこに書く」
「自分のメモに書きます。それと、ハウゼンさんの手帳に。備考欄からあの手帳は参照されているので、辿れます」
「公式の記録ではない」
「はい。でも、無いよりはずっといい」
オルグレンはしばらく黙って、それから、書類を綴じた。
その夜、俺はメモを開いた。
一、属性は後付けの可能性。要検証。
二、レンが見る「隙間」=術式の欠陥ではないか。要検証。
三、あの本を目録から外したのは誰か。
四行目に、俺は書いた。
四、北線第四十一杭に、古い削り跡。同位置・同形状の刻印が一度なされ、消されている。時期不明。実行者不明。消した者は刻印の技能を持つ。要調査。
書いてから、気づいた。
ずっと空けておいた四行目に、別のものを書いてしまった。
あの子のことを書く行は、五行目に下がった。
俺は五行目を空けたまま、ペンを置いた。行が一つ下がっただけだ。それだけのことだ。
それだけのことなのに、しばらく机から離れられなかった。




