第10話 備考
二週間は長かった。
できることが何もなかったからだ。評議会の審議中に当事者が動けば、それだけで印象が悪くなるとアリシアに言われた。だから俺は部屋にいた。工期の再計算を三回やり直し、失敗時の復旧手順を書き、書いたものを読み返して、また書いた。
五日目に、ハウゼンの詰所へ行った。
彼は机に手帳を広げて、鉛筆を持っていた。古いページだった。二十年以上前の日付が並んでいる。
「何をしてるんですか」
「書いとる」
ハウゼンは顔を上げなかった。
俺は横から覗いた。数字の右側、余白の部分に、細かい字が入っていた。
『この年、上流で土砂崩れ。二月ほど値が落ちた』
『第二十二杭、この日から高い。石が欠けていた。翌年に補修』
『冬に跳ねるのは、地脈ではなく使用側。確認済み』
二十年前の数字の隣に、その年の理由が書き込まれていた。
「覚えてるんですか」
「覚えとるうちに書いとる」
鉛筆の先を舐めて、彼は続けた。
「忘れる。もう忘れかけとる。三十八年のうち、頭の中にあるのは半分くらいだ」
「半分は」
「消えた」
俺は何も言わなかった。ハウゼンも黙って書いていた。
その日から、俺は毎日、詰所へ通った。彼が思い出す。俺が聞いて、日付ごとに並べ直す。三十八年分の数字が、少しずつ、意味を取り戻していった。半分は永久に戻らないままだった。
十四日目の午後、呼ばれた。
学院長室にはオルグレンだけがいた。机の上に、俺の申請書と、もう一枚、見慣れない書式の紙があった。
「承認された」
俺は息を吐いた。
「条件がある。四つだ」
「はい」
「一、刻印は王宮から派遣される刻印士が行う。学院の者は使わない」
アリシアではない、ということだった。彼女は譴責を受けたばかりだ。当然だと思った。
「二、ハウゼンが立ち会い、彼の計器で記録する。三、異常が確認された時点で即時復旧。復旧手順は君の提出したものを使う」
「はい」
「四」
オルグレンはそこで一度切った。
「記録上、この改修の設計者名は記載しない」
「……はい?」
「君は外来研究員だ。身分証がない。国の設備の記録に、身分の確認できない者の名を設計者として載せることはできん。規定だ」
「では、誰の名前が載るんですか」
オルグレンは、もう一枚の紙を回してよこした。
工事記録の書式だった。上から順に、日付。線名と杭番号。変更内容。施工者。承認者。
その下に、一行あった。
『本改修は、エルドレイン卿の原設計に基づく補修である』
俺はその行を三度読んだ。
「これは」
「規定の文言だ。設計者を記載しない場合、原設計者に帰属させる。昔からそうなっている」
二百年後に、誰かがこの記録を読む。北線第四十一杭は、エルドレイン卿の原設計に基づいて補修された、と読む。
なぜ補修が必要だったのかは、書かれていない。
誰が、何を見つけて、何を計算して、何を間違えて、どうやってここに辿り着いたのかも、書かれていない。
消えるのだ。俺が消えるのは構わない。消えるのは、理由の方だった。
「不服か」
オルグレンが言った。
「名前はどうでもいいです」
「ならば何だ」
「理由を書かせてください」
オルグレンは何も言わなかった。俺は続けた。
「この書式には変更内容の欄はあります。何を変えたかは残ります。でも、なぜ変えたかを書く場所がない」
「書式は決まっている」
「変えてください」
「評議会の議決事項だ。書式の改訂にはまた二週間かかる。いや、二週間では済まん」
「じゃあ、次の申請で出します。今回の分は間に合わなくても、次からは——」
「待て」
オルグレンが手を上げた。
それから、紙を自分の方へ引き寄せた。指で下の方をなぞって、止まった。
「ここに、備考の欄がある」
俺は覗き込んだ。書式の一番下、五行分ほどの空白があった。枠だけがある。表題は『備考』とだけ書いてある。
「気づきませんでした」
「気づかんだろう。私も今探した」
オルグレンは、その枠を指で叩いた。
「二百年、ここに何か書かれた記録を見たことがない。運用上、使わない欄だと思っていた」
「使ってはいけないという規定は」
「ない」
部屋が静かになった。
「書けます?」
「書式にある欄に書くのは、書式の変更ではない」
オルグレンは事務的にそう言った。表情は変わらなかった。
「五行だ。それ以上は入らん」
「五行あれば足ります」
「何を書く」
「二百年前からこの杭には出口のないループがあること。それが魔力を焼いていること。逃がす経路を足すと下流に移るだけなので、王都側から順に直す必要があること。三十八年前に上流側から試みて失敗した記録があること」
「四行だな」
「五行目は、次に読む人間への一行にします」
オルグレンは俺を見た。長かった。
「……書いて持ってこい。私が確認する」
廊下に出ると、アリシアが待っていた。壁際に立って、俺を見た。
「刻印、外されました」
「聞きました」
「当然です」
彼女はそう言ってそれきり黙った。それから、ローブの袖から封筒を出した。蝋で封がしてある。紋章が押してあった。
「家からです」
「開けないんですか」
「用件は分かっていますから」
封筒を袖に戻した。
「噂が外に出ました。エルドレイン卿の術式に欠陥があった、という話です。学院の中だけなら、まだよかったんですが」
「アリシアさんの家が」
「二百年、その名前で食べてきた家です」
彼女は廊下の窓の方を見た。
「桐島さん。あなたは記録が残ることをいいことだと思っていますね」
「はい」
「私もそう思います。ただ、家はそう思いません。家にとって記録は、名前を守るためのものです」
俺は答えなかった。答えるべき言葉を持っていなかった。
「備考欄の話、聞こえていました」
アリシアは言った。
「五行、書いてください。私の家が何を言ってきても、あれは残ります」
その夜、俺は五行を書いた。
何度も書き直した。五行に収めるというのは、削るということだ。何を残して何を捨てるかを、行数が決めてくる。ループのことは一行で済んだ。順序のことは二行かかった。三十八年前のことは、どうしても入らなくて、最後は名前だけになった。
『三十八年前、南線第九杭にて同様の試行あり。記録は施設管理長ハウゼンの手帳にある』
彼の手帳が、公式の記録から参照されることになる。二十年前の余白に書かれた細かい字も、いつか誰かが読むかもしれない。
五行目を書いた。
『この改修が正しいかは、まだ分からない。次に読んだ者が確かめてほしい』
書き終えて、紙を横に置いた。
机の上には、もう一枚ある。三行のメモだ。
備考欄には、二百年間、誰も何も書かなかった。書く場所はあったのに、誰も使わなかった。俺はそれを、今日、みっともないほど熱心に埋めようとした。
四行目は、今夜も空いている。
場所はある。書けるものもある。書かないと決めているのは、俺だ。




