09 喰らう理由
山道をしばらく進んだところで、セナは足を止めた。
目の前には、周囲の木々よりひと回りも太い大木がそびえている。その根元を境に、細い山道が左右二手に分かれていた。
「うーん……こっち? あれ、こっち?」
セナは首を傾げ、右を見て、左を見て、しばらく考え込む。
「おいおい、頼むぜ、セナぁ」
背後から気の抜けた声が飛んできた。
振り返ると、ヨハルが引く荷橇の上で、イリが胡坐をかいている。
その表情には明らかに呆れた色が見えた。
「しょうがないだろ! 道は父さんと母さんが知ってて、僕はいつも荷橇に乗っていただけなんだ!」
「自分の足で歩け、怠け者ぉ」
「お前が言うな!」
思わず声を張り上げる。
このイリとかいう少女は、さっきからずっとこれだ。
人を家から無理やり連れ出そうとしたかと思えば、自分は当然のように荷橇に座って歩こうともしない。
セナは早くも、この白銀頭の少女に辟易していた。
「ワタシが見よう」
ヨハルが荷橇の引き手を置き、セナの横を通り過ぎる。
分かれ道の前で腰を落とすと、地面へ目を凝らした。
「……右だな」
「分かるんですか?」
「ああ。こちらの方が土が固く踏み締められている。それに、車輪の跡も残っている」
ヨハルが地面を指差す。
言われてみれば、落ち葉の下にうっすらと二本の筋が伸びていた。
「山菜を採りに入る者が、よく使う道なのだろう」
「すごい……そんなことまで分かるんだ」
「山に入る者なら、これくらいはな」
セナは素直に感心した。
牙討とは、ただ人喰を倒す者だと思っていた。だが、それだけではないらしい。
「なぁ」
荷橇の上から、イリが二人の会話を遮った。
「お前の父親って何者なんだ? 荷橇なんて持ってるし」
「え?」
「そういえば、ワタシも気になっていた」
ヨハルは再び引き手を握り、右の道へ歩き出す。セナもその横について歩いた。
「牙討でもないのに荷橇を持っているのは、珍しい」
「父さんは、猟師だったんです。よく山に入って鹿とかを狩ってたから……」
「猟師か」
ヨハルが僅かに目を細めた。
「ならば、この山にも人喰がいることは知っていただろう」
セナの足が止まった。
「……でも!」
思わず、強い声が出る。
「父さんは悪くない!」
ヨハルが振り返った。
「父さん、この季節なら大丈夫だって言ってたんだ。人喰はもう山の上に戻ってるから、この辺には出ないって……!」
山道に、セナの声が響いた。
ヨハルはしばらく黙ってセナを見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「ああ。君の父さんは間違っていない」
「……え?」
「ワタシとて、同じ判断をしただろう」
セナは目を見開いた。ヨハルは山頂の方へ視線を向ける。
「人喰は暑い季節に獲物を求めて山を下り、夏の終わりから秋にかけて山頂へ戻っていく」
「どうしてですか?」
「冬を越すためだ。寒くなると、ほとんど動かなくなる」
「……冬眠するってこと?」
「いや、近くに獲物がいれば食う。だが、自分から追うことはない」
「追わないんですか……人喰なのに?」
「うむ。体力を無駄に消耗しないためだ。冬に獲物を追えば、かえって飢える。戦えば傷を負う危険もある」
ヨハルは再び歩き始めた。
「だから夏の間に栄養を蓄え、冬は山頂付近で春を待つのだ」
セナも少し遅れて、その後を追う。
「じゃあ……今ここにいるのは、おかしいってことですか?」
「ああ。本来なら、とっくに山頂へ戻っている時期だ」
「だったら、なんで……」
「それを確かめるのも、ワタシの仕事だ」
ヨハルは山道の先へ目を向けた。
「人喰も生き物だ。必ずしも習性通りに動くとは限らん」
「…………」
「牙討は、そうした習性から外れた行動を“異れ”と呼んでいる」
「あー、出た出た」
荷橇の上で、イリがうんざりしたように手をひらひらと振った。
「最近多くねぇか? タガレ、タガレって」
「……そうだな」
ヨハルの眉が僅かに動いた。
「でも……なんでそんなことするんだろう」
セナが呟く。
ヨハルが答えるより先に、荷橇の上から声が落ちた。
「腹減ってんじゃねぇの?」
イリは胡坐をかいたまま、頬杖をついていた。
ヨハルが小さく頷く。
「その可能性はある」
「じゃあ……食べるものを探して、山を下りてきた?」
「分からん。だが、山頂にいても飢え死にするなら、危険を冒して山を下りる個体がいても不思議ではない」
ヨハルはそこで足を止めた。
「イリ」
「んー?」
「そろそろ拾えそうか?」
その一言で、イリの様子が変わった。
荷橇からひょいと飛び降りると、鼻先を僅かに上げた。
すん、すん、と短く息を吸う。
風向きを探るように顔を左右へ巡らせ、何度も鼻をひくつかせる。
「…………」
セナは不思議そうに、その様子を見つめる。
「何してるの?」
「嗅いでんだ。黙ってろ」
イリがじろりとセナを睨む。
「……っ」
その目つきに、セナは思わず口を噤んだ。先ほどまで荷橇の上でぼやいていた時とは、まるで目つきが違っていた。イリはすぐに視線を戻すと、再び顔を上げ、大きく鼻から息を吸った。
そして、ぴくりと眉を動かす。
「……いるな」
それを聞いたヨハルが、背中の三又の槍へ手を添える。
「方角は?」
イリはゆっくりと顔を巡らせる。やがて山道から外れた木々の奥を指差した。
「あっち」
「距離は?」
「うーん、まだまだ遠いな。もっと寄らねぇと、はっきり掴めない」
「そうか」
ヨハルは槍から手を離し、再び荷橇の引き手を握った。
「匂いで居場所が分かるのか?」
セナがイリへ尋ねる。
「ああ。鼻が利くもんでね」
イリは得意げに、自分の鼻先を指でとんとんと突いた。
「だから牙討様と一緒にいるのか」
「まあ、そんなとこだ」
イリはそれだけ答えると、前を向いた。セナもその隣を歩く。しばらく、誰も口を開かなかった。
「なあ、イリ」
「ん?」
「……なんで、僕の父さんと母さんが殺されなきゃいけなかったんだろう」
「なんでって、理由が知りたいのか?」
「だって……何も悪いことしてないのに」
「そんなの関係ないだろ」
「……え?」
「お前だって、腹減ったら飯食うだろ?」
イリは、表情ひとつも変えずにそう答えた。




