10 オスとメス
「お前だって、腹減ったら飯食うだろ?」
それは、あまりにもさらりとした物言いだった。慰めるでもなく、突き放すでもない。ただ、腹が減れば飯を食う。まるで当然のことを述べるような口調だった。
「食うだろって……人をだぞ?」
「うん」
「僕の父さんと母さんが……食われたんだぞ」
「知ってるって」
杏色の瞳が、真っ直ぐにセナを見つめていた。
「でもよ。喰わなきゃそいつが死んでたかもしれないだろ」
「…………」
「だったら、喰うだろ」
セナは、何も言えなかった。
イリを見てから、ずっと感じていたものがある。うまく言葉にはできない、ほんの小さな違和感。
それは、銀色の髪でも、尖った犬歯でもない。その正体が、今はっきりと分かった気がした。
──人間と話している気がしないんだ。
その瞬間、背筋を冷たいものが這った。セナは無意識に、半歩後ずさる。
「……なんだよ?」
イリが不思議そうに首を傾げた。その仕草だけ見れば、普通の少女だった。
「ん、なんでもないよ」
そう言って誤魔化した。
胸の奥には、恐怖とも苛立ちともつかない不快感が渦巻いていたが、まだ十歳のセナには、それが何なのかよく分からなかった。
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しばらく、二人は黙って歩いた。
先ほどの会話が尾を引いているのか、セナは隣を歩くイリをちらちらと窺っていた。
銀色の髪を揺らしながら、時折木の幹から樹皮を剥がしては、奥歯でがりがりと齧っている。
やっぱり、よく分からないヤツだ。
「イリってさ、変だよな」
「は? なんだ? どこがだ?」
イリがぎろりとセナを見る。
「なんていうか……男みたいだし、性格が」
「がはは! おう、オレはメスだけど、心はオスだと思ってるぞ」
「オ……オス?」
妙な言い方に、セナは眉をひそめた。
「セナ、お前はどっちなんだ?」
「……は?」
「『は?』じゃねぇよ。オスなのか、メスなのかって聞いてんだ」
「見たら分かるだろ?」
まだ子供とはいえ、セナは今まで女の子に間違えられたことなど一度もない。髪も短いし、服装だって村の少年たちと変わらない。どう見たって男だ。
「いや、分かんねぇって」
イリは本気で困ったように首を捻った。
「大人のメスなら、乳が膨れてるからな。なんとなく分かるけど、子供じゃ見分けつかねぇよ」
「それ……本気で言ってる? 本当に男か女かわからないのか?」
「ああ、そうだよ。じゃあさ、オスとメスでどう違うんだ? 教えてくれよ」
「どうって……」
セナは腕を組んで考え込んだ。
「うーん……なんて言えばいいんだろう。見た目も全然違うし、えーと……難しいな」
「そりゃオレだって、股を見りゃ分かるぜ」
「え……股?」
セナはぽかんと口を開けた。
「巾着ぶら下げてたらオスだ」
「き、巾着?」
「おう、オスはぶら下げてるだろ? 股に巾着みたいなやつ」
「ちょっと待った! そ、それは……」
セナの頬がみるみる赤くなる。
対するイリには、恥ずかしがっている様子など微塵もない。それどころか、何かを確かめるようにセナの腰元へ視線を落とした。
「ちょっと見せてみろ」
「はあっ!?」
イリがずいっと距離を詰める。
セナは外套の裾を押さえながら、慌てて後ろへ跳んだ。
「僕は男……オスだよ、オス! わざわざ見なくてもいいだろ!」
「へぇ……オスか」
答えを聞いた途端、興味を無くしたようにあっさり前を向いた。
「だったら最初から言えよ」
「普通は言わなくてもわかるんだよ!」
山道にセナの声が響いた。
そんな話を交わしているうちに、三人はイリが人喰の気配を感じ取った場所から随分と歩いてきていた。
まだ山の中腹ではあるものの、標高が上がったせいか、先ほどより寒気が強くなっている。木々の枝には雪が厚く残り、吹き抜ける風も肌を刺すように冷たい。
先頭を歩いていたヨハルが足を緩めた。
「イリ、近いか?」
それまでのふざけた様子が消え、イリはぴたりと足を止める。
「ああ、かなり近づいたな」
「追えるか?」
イリの鼻先がぴく、ぴく、と小さく動いた。
「追える。さっきの場所から移動してねぇな」
その言葉に、セナが目を丸くした。
「そんなことまでわかるの?」
「わかるさ。つうか、こんなどぎつい臭いを感じないほうが不思議だ」
そこからは、三人ともほとんど言葉を発さなかった。
イリを先頭に、枯れ葉を踏み分けながら木々の隙間を進んでいく。
やがてイリが片手を上げた。ヨハルが足を止め、セナもそれに倣う。
数歩先、木々が途切れ、緩やかな斜面が覗いていた。
三人は身を屈め、岩陰からそっとその先を窺う。
──居る。
一体の人喰が、地面に伏せている。
狼に似た顔。耳元まで裂けた口。枯れ葉の上へ投げ出された、異様に長い四肢。伏せていても、その身体が巨大であることは一目でわかった。
セナの呼吸が止まる。
あいつが。
父さんと、母さんを……。
腹の奥から、熱いものがせり上がった。握りしめた拳に力がこもる。
憎い。
しかし同時に、怖い。
今すぐ逃げ出したいほど怖い。それなのに、目を逸らすことができなかった。
「ヨハル、寝てるぞ」
イリが小声でヨハルに小声で告げる。
「いや。うっすらと目を開けている」
「……ほんとだ。まばたきした」
二人の会話を聞いてセナは目を凝らしてみるが、わからない。
顔があるのはわかる。目がどこにあるのかも、なんとなくわかる。けれど、まばたきしたかどうかなんて見えるはずがなかった。
セナは再び人喰へ目を向けた。
あれが、本当に父さんと母さんを殺した奴なのだろうか。
そう考えた途端、人喰の長い耳がぴくりと動いた。




