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人喰-ヒトクライ-の子  作者: 鳥部 本太郎
第二章 セナとリネ

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11 獣の勘

人喰(ヒトクライ)は、完全な成獣だった。


 牙討(きばうち)が最も警戒する、いわゆる脂の乗った時期。本来ならば、決して油断できない相手のはずだ。


 しかし、ヨハルは眉を寄せる。


 妙だ。


 あの個体からは、成獣特有の獰猛さがまるで感じられない。


 周囲の木々にも目を走らせたが、幹噛みの跡がない。


 人喰は牙を研ぐため、縄張りの木々に噛みつき、幹を削る習性を持つ。大きな個体の縄張りともなれば、周囲の木々が無数に抉られていることも珍しくない。


 だが、人喰の周辺にはそれがなかった。


「なぁ、ヨハル」


「なんだ?」


「あれ、メスだぜ」


 ヨハルがイリを見る。


「……なに?」


「え? なんでわかるの?」


 思わずセナも口を挟んだ。


 イリは鬱陶しそうに振り返る。


「見たらわかるだろ! どう見てもメスだ」


「…………え」


 セナには、どう見てもわからない。


 それどころか、これまで何体もの人喰を狩ってきたヨハルでさえ、遠目からその雌雄を判別することはできない様子だ。


「でも、メスなら何が変なの?」


 セナが問う。


 今度はヨハルが答えた。


「人喰のメスが人を襲うことは、滅多にない」


「え……そうなの?」


「ああ。縄張りを荒らされた場合は別だがな。狩りに出て獲物を仕留め、食料を運ぶのはオスの役目だ」


 セナは、もう一度人喰を見る。


「じゃあ、父さんたちは……あいつの縄張りに入って襲われたってこと?」


「いや、ていうか……」


 そこまで言って、イリの言葉が不意に途切れた。その顔から表情が消える。


 ──人喰が動いた。


 地面についていた長い腕が、ゆっくりと身体を押し上げる。枯れ葉が、がさり、と鳴った。


「……っ」


 人喰は四つ這いのまま首をもたげた。鼻先をわずかに上げ、右、左と首を巡らせる。


 何かを探している。


 ヨハルとイリが、ほとんど同時に岩陰へ頭を引っ込めた。


 だが、セナだけが動けなかった。人喰を見つめたまま、身体が固まっている。


「おい! 馬鹿か!」


「うわっ!?」


 イリに思いきり襟元を引っ張られ、セナは後ろへひっくり返る。


「な、何すんだよ……!」


「しっ」


 イリが口元に指を立てると、セナは口を両手で押さえた。


 そのまま、三人は息を潜める。


 岩の向こうから、がさ、がさ、と枯れ葉を踏む音が聞こえ、やがてそれも止んだ。


 イリがヨハルを一瞥する。


「……嗅がれた? オレ達を探してる?」


「いや。まだこちらを捉えてはいないはずだ。ただ、強く警戒している」


「僕たちに気付いてないのに……なんでわかるの?」


 セナが声を潜める。


「人喰は、オスよりメスの方が警戒心が強い。わずかな物音や周囲の変化から危険を察知することがある」


「へぇ……」


 ──息を潜めたまま数分が経過した。人喰の徘徊する気配だけが漂っている。


「殺しに……いかないの?」


 セナが囁くと、イリは呆れ半分に睨みつけた。


「お前、本気で阿呆なのか。いくらヨハルでも真正面から成獣に挑むわけねぇだろ」


「そうなの? 牙討様でも勝てない?」


「知るか。だけど、勝率が五分だったとしても割りに合わねぇだろ」


 セナは納得する。牙討と言えど、相手は人喰。一か八かの勝負では務まらない。


「警戒が解けるまでは、このまま身を潜める」


 ヨハルが小声で告げる。


「呼吸は鼻だけで、静かに」


 セナはこくりと頷いた。


 しん、と静寂が包む。三人とも身を縮め、岩陰にじっと伏せる。


 風が木々を揺らす音。枝葉の擦れる、かさかさという音。それ以外には、何も聞こえない。


 セナは息を殺した。


 鼻から吸って、鼻から吐く。なるべく細く。音を立てないように。


 ──どれくらい、そうしていただろう。


 枯れ葉を踏み潰す、重い足音がした。セナの肩が跳ねる。先ほどの人喰が、岩の向こうを徘徊している。姿は見えない。だからこそ、怖かった。


 ざく、ざくと、足音が一歩ずつ近づいてきた。


 セナは両手で自分の口元を鷲掴みにする。


 怖い。


 声を出すな。絶対に、声を出すな。そう思えば思うほど、喉の奥から悲鳴がせり上がってくる。


 また一歩。


 多分、もう近い。


 セナは目を固く閉じた。脳裏を、死の直前の母親の顔が過ぎる。


 荷橇を突き飛ばした母親が、こちらを見つめている。その背後から、巨大な口が迫った。母親の首筋に牙が食い込む。飛び散る血。あの時も、何もできなかった。ただ震えながら、遠ざかっていく母親を見ていることしかできなかった。


 ──その時、足音が止まった。


「…………」


 セナは目を開ける。誰も動かない。


 ヨハルも、イリも、岩の向こうを見ようとすらしない。


 ただ耳を澄ませている。


 どこにいる?


 まだ向こうにいるのか。それとも、すぐそこまで来ている? 顔を上げたら、目の前で睨みつけているんじゃないか?


 心臓が、どく、どく、と鳴っている。


 こんなにうるさくては、聞こえてしまうんじゃないか。


 そう思った、その時。


『グルルルル……』


 岩の向こうから、低い唸り声が聞こえた。


「……うっ」


 危うく声を上げそうになった。やはり、近くまで来ている。


 セナは肩をすくめ、さらに身を縮こまらせた。その横で、イリがわずかに顔を上げた。


「いま!」


 イリが鋭く囁くと、ヨハルが跳ねた。岩陰から一息に身を躍らせる。その手には、いつの間にか三又の槍が握られていた。


「えっ!? えっ!?」


 セナだけが、その場に訳も分からず取り残される。


(身を潜めるって言ったのに!)


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