11 獣の勘
人喰は、完全な成獣だった。
牙討が最も警戒する、いわゆる脂の乗った時期。本来ならば、決して油断できない相手のはずだ。
しかし、ヨハルは眉を寄せる。
妙だ。
あの個体からは、成獣特有の獰猛さがまるで感じられない。
周囲の木々にも目を走らせたが、幹噛みの跡がない。
人喰は牙を研ぐため、縄張りの木々に噛みつき、幹を削る習性を持つ。大きな個体の縄張りともなれば、周囲の木々が無数に抉られていることも珍しくない。
だが、人喰の周辺にはそれがなかった。
「なぁ、ヨハル」
「なんだ?」
「あれ、メスだぜ」
ヨハルがイリを見る。
「……なに?」
「え? なんでわかるの?」
思わずセナも口を挟んだ。
イリは鬱陶しそうに振り返る。
「見たらわかるだろ! どう見てもメスだ」
「…………え」
セナには、どう見てもわからない。
それどころか、これまで何体もの人喰を狩ってきたヨハルでさえ、遠目からその雌雄を判別することはできない様子だ。
「でも、メスなら何が変なの?」
セナが問う。
今度はヨハルが答えた。
「人喰のメスが人を襲うことは、滅多にない」
「え……そうなの?」
「ああ。縄張りを荒らされた場合は別だがな。狩りに出て獲物を仕留め、食料を運ぶのはオスの役目だ」
セナは、もう一度人喰を見る。
「じゃあ、父さんたちは……あいつの縄張りに入って襲われたってこと?」
「いや、ていうか……」
そこまで言って、イリの言葉が不意に途切れた。その顔から表情が消える。
──人喰が動いた。
地面についていた長い腕が、ゆっくりと身体を押し上げる。枯れ葉が、がさり、と鳴った。
「……っ」
人喰は四つ這いのまま首をもたげた。鼻先をわずかに上げ、右、左と首を巡らせる。
何かを探している。
ヨハルとイリが、ほとんど同時に岩陰へ頭を引っ込めた。
だが、セナだけが動けなかった。人喰を見つめたまま、身体が固まっている。
「おい! 馬鹿か!」
「うわっ!?」
イリに思いきり襟元を引っ張られ、セナは後ろへひっくり返る。
「な、何すんだよ……!」
「しっ」
イリが口元に指を立てると、セナは口を両手で押さえた。
そのまま、三人は息を潜める。
岩の向こうから、がさ、がさ、と枯れ葉を踏む音が聞こえ、やがてそれも止んだ。
イリがヨハルを一瞥する。
「……嗅がれた? オレ達を探してる?」
「いや。まだこちらを捉えてはいないはずだ。ただ、強く警戒している」
「僕たちに気付いてないのに……なんでわかるの?」
セナが声を潜める。
「人喰は、オスよりメスの方が警戒心が強い。わずかな物音や周囲の変化から危険を察知することがある」
「へぇ……」
──息を潜めたまま数分が経過した。人喰の徘徊する気配だけが漂っている。
「殺しに……いかないの?」
セナが囁くと、イリは呆れ半分に睨みつけた。
「お前、本気で阿呆なのか。いくらヨハルでも真正面から成獣に挑むわけねぇだろ」
「そうなの? 牙討様でも勝てない?」
「知るか。だけど、勝率が五分だったとしても割りに合わねぇだろ」
セナは納得する。牙討と言えど、相手は人喰。一か八かの勝負では務まらない。
「警戒が解けるまでは、このまま身を潜める」
ヨハルが小声で告げる。
「呼吸は鼻だけで、静かに」
セナはこくりと頷いた。
しん、と静寂が包む。三人とも身を縮め、岩陰にじっと伏せる。
風が木々を揺らす音。枝葉の擦れる、かさかさという音。それ以外には、何も聞こえない。
セナは息を殺した。
鼻から吸って、鼻から吐く。なるべく細く。音を立てないように。
──どれくらい、そうしていただろう。
枯れ葉を踏み潰す、重い足音がした。セナの肩が跳ねる。先ほどの人喰が、岩の向こうを徘徊している。姿は見えない。だからこそ、怖かった。
ざく、ざくと、足音が一歩ずつ近づいてきた。
セナは両手で自分の口元を鷲掴みにする。
怖い。
声を出すな。絶対に、声を出すな。そう思えば思うほど、喉の奥から悲鳴がせり上がってくる。
また一歩。
多分、もう近い。
セナは目を固く閉じた。脳裏を、死の直前の母親の顔が過ぎる。
荷橇を突き飛ばした母親が、こちらを見つめている。その背後から、巨大な口が迫った。母親の首筋に牙が食い込む。飛び散る血。あの時も、何もできなかった。ただ震えながら、遠ざかっていく母親を見ていることしかできなかった。
──その時、足音が止まった。
「…………」
セナは目を開ける。誰も動かない。
ヨハルも、イリも、岩の向こうを見ようとすらしない。
ただ耳を澄ませている。
どこにいる?
まだ向こうにいるのか。それとも、すぐそこまで来ている? 顔を上げたら、目の前で睨みつけているんじゃないか?
心臓が、どく、どく、と鳴っている。
こんなにうるさくては、聞こえてしまうんじゃないか。
そう思った、その時。
『グルルルル……』
岩の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
「……うっ」
危うく声を上げそうになった。やはり、近くまで来ている。
セナは肩をすくめ、さらに身を縮こまらせた。その横で、イリがわずかに顔を上げた。
「いま!」
イリが鋭く囁くと、ヨハルが跳ねた。岩陰から一息に身を躍らせる。その手には、いつの間にか三又の槍が握られていた。
「えっ!? えっ!?」
セナだけが、その場に訳も分からず取り残される。
(身を潜めるって言ったのに!)




