12 狩る側と狩られる側
セナは何が起きたのかわからない。
さっきまで、警戒が解けるまで身を潜めると言っていたはずなのに、ヨハルは槍を手に岩陰から飛び出し、イリも駆け出した。
「行くぞ!」
イリが振り向いてセナへ声を掛ける。
「え、ちょっ……!」
慌ててその背を追う。
人喰を見ると、背を向けていた。
周囲を探っていたが、脅威はないと判断したのか警戒を緩めて背を向けた。その一瞬をイリは見逃さなかった。そしてヨハルもまた、イリの一言だけでその意図を理解していた。
ヨハルは大きく地を蹴り、ぐんぐんとその巨体へ迫る。
三又の穂先が低く構えられた。
セナには、その狙いがわからなかった。腹でも、胸でもない。もっと低い。
──脚だ。
狩る側と、狩られる側。
その立場が刹那に入れ替わった。
ヨハルは槍の柄を深く握り込むと、そのまま一直線に人喰との間合いを詰める。
『──ッ!』
人喰が気配を察して振り返ったが、遅い。
ほんの一瞬の判断の遅れ。それが致命的だった。ヨハルが槍を突き出す。三又の穂先が、人喰の後脚、その付け根に深々と突き刺さった。
『ギャウッ!』
巨体がぐらりと傾く。
ヨハルが素早く槍を引き抜くと、支えを失った人喰は、そのまま横倒しに地面へ叩きつけられた。
だが、まだ終わらない。
人喰が片腕を地面につき、無事な脚で強く地を蹴る。巨体が持ち上がったかと思うと、長い前腕がヨハル目掛けて振るわれた。
「危ないっ──!」
セナが声を上げる。ぶん、と腕が空を薙いだ。しかし、その先にヨハルはいない。
振るわれる腕を見越していたかのように姿勢を低くして一歩踏み込み、既に人喰の懐へ潜り込んでいる。
人喰が慌てて身体を起こそうとするが、既に三又の刃が喉元へ迫っていた。ヨハルは槍を両手で握り、一息に突き下ろす。
肉を裂き、喉を貫いた穂先が、そのまま地面へ突き刺さる。
『グオオオオオッ!』
人喰の身体が、大きく跳ねた。
槍に縫い止められたまま、脚が二度、三度と地面を掻き、徐々にその動きも弱くなる。
支子色に光っていた瞳は、ゆっくりとその輝きを失いつつあった。地を掻いていた脚からも力が抜け、だらりと落ちる。
「…………」
ヨハルの後を追ってきたセナは、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
あまりに、一瞬だった。
あれほど恐ろしく見えた人喰が、ヨハルの前で何もできなかった。
「……死んだの?」
ようやく、それだけを口にする。
「いや、まだだ」
イリが答えた。地面に伏した人喰を見つめながら、淡々と言う。
「でも、もうすぐ死ぬ。ありゃ致命傷だろ」
セナは、もう一度人喰へ目を向けた。喉を貫かれた巨体は、まだ微かに呼吸している。しかし、その瞳には、もう先ほどまでの獣の光は残っていなかった。
ヨハルは人喰の顎を片足で踏みつけ、喉に刺さっていた槍を引き抜いた。血に濡れた三又の穂先を下げたまま、無言で人喰を見下ろす。
「ヨハル……こいつさぁ……」
イリが声をかける。
「うむ。余りにも動きが重すぎる。腑に落ちんな」
ヨハルも、同じ違和感を覚えていたようだ。
「…………」
イリは人喰の腹の前にしゃがみ込んだ。痩せ細った身体に比べ、腹だけがわずかに膨らんでいる。
イリはその腹へ、そっと手を当てた。
しばらく、そのまま動かない。
「やっぱり……いるな」
ぽつりと呟いた。
「うむ、身籠っていたか」
「ねぇ……どうしたの?」
セナが二人の顔を交互に見る。
「腹ん中にさ、ガキがいるんだ」
「…………え」
セナの顔が強張る。もう一度、人喰の腹を見る。言われてみれば、確かに膨らんでいる。
「ガキがいてこの細さか……ろくに食えてなかったんだろうな」
イリが俯く中、セナの胸中では別の感情が走る。
「その中に、こいつの子供が……人喰が……」
父さんも、母さんも、もう二度と帰ってこない。なのにコイツの腹の中には、まだ家族がいる。それが許せなかった。
イリは立ち上がると、震えているセナの肩へ手を置く。
「大丈夫だ。どうせ死ぬ」
その言葉を聞いた直後だった。セナがおもむろに腰の短剣を抜いた。
「あ?」
「お前だって──」
柄を握る手が震えている。
「お前だって、家族を失えばいいんだ!」
セナは人喰へ駆け寄り、その膨らんだ腹めがけて短剣を振りかざす。
「おい、やめろっ!」
イリが飛び出した。セナが短剣を振り下ろすよりも早く、その頬を拳で殴りつける。
「いっ!」
セナの身体が横へ倒れ、枯れ葉の上へ転がった。短剣が手を離れ、少し離れた地面へ落ちる。
「イリ……?」
頬を押さえながら、セナが身体を起こす。
怒るでもなく、ただ訳が分からないという顔でイリを見上げた。
「な……なんで……?」
イリは地面に横たわる人喰へ、一瞬だけ目を向ける。
「どうせ死ぬって言ってるだろ……意味ない」
「…………」
セナは何も言えなかった。
イリの言っていることが理解できなかったからではない。その表情が、言葉とはまるで違って見えたからだ。
──意味ない。
そう言いながら、イリの眉がわずかに下がっていた。唇を固く結び、地面に横たわる人喰を見つめている。
涙は流していない。それなのに、泣いているような気がした。
「……ごめん」
セナは、何に対して謝っているのかもよくわからないまま、そう口にした。




