13 迫る脅威
セナとイリ、二人のやりとりを静観していたヨハルが口を開いた。
「セナ……こいつは、君の両親の仇ではないな」
「…………え?」
セナは顔を上げる。
「違うの?」
「だからぁ、人喰はオスが人を襲うって言ったろ」
イリが割って入った。
セナは倒れた人喰を見る。
「じゃあ……父さんと母さんを襲った奴は……?」
「たぶんだけど、こいつの番だ」
イリはそう答えると、ヨハルへ顔を向けた。
「しかもそいつ……かなりやばい、よな? ヨハル」
ヨハルの表情が険しくなる。
「そうだな。一度人の味を覚えた成獣と考えると、野放しには出来ん」
「…………だよなぁ」
「とにかく、早く山を降りた方がいい」
そう言って、ヨハルは人喰の前にしゃがみ込んだ。胸の前で両手を合わせ、静かに目を閉じる。
セナはその姿を、不思議そうに見つめていた。意外だった。牙討というのは人喰を殺す者だ。人喰に対して慈悲など持たないのだと思っていた。けれどヨハルは、わずかな間ではあるが、確かにその死を悼んでいた。
やがて目を開けると、何も言わずに立ち上がる。
──三人は来た道を引き返し、山を下り始めた。
先を歩くヨハルの背中を追いながら、セナは恐る恐る口を開く。
「あの……」
「なんだ?」
「僕の父さんと母さんを殺した人喰は……牙討様でも勝てないですか?」
ヨハルは歩みを止めなかった。
「それは、実際に対峙してみなければ分からん」
「…………」
「だが、番が身籠っている時期の人喰はかなりの脅威だと言える。腹を空かせた家族のため、オスは死に物狂いで食料を集めるからな」
セナの足が、ふと止まった。
「……待って」
ヨハルとイリが振り返る。
「村は……大丈夫かな?」
その声には、はっきりと不安が滲んでいた。
ヨハルは答えなかった。わずかな沈黙の後、山の麓へ目を向ける。
「大丈夫とは言い切れん。村が襲われる可能性は十分にある」
ヨハルは荷橇を引く手に力を入れた。
「急いで山を降りよう」
❖
「なぁ……本当に、もう森へ入っていいのか?」
弓を背負った男が、不安そうに辺りを見回した。
山の麓。二人の狩人が、ノルヴァの森へ足を踏み入れていた。
「まだ人喰がいるかもしれんのに……」
「心配しすぎだ」
先を歩くもう一人の男が笑う。
「牙討様が来てくださったんだぞ。今頃はもう仕留められてるさ」
「だが……」
「カイたちが喰われてからもう二十日、その間ずっと狩りを休んでたんだぞ。そろそろ新鮮な肉を持って帰らんと、今度は俺たちが飢えちまう」
先頭の男は背中に掛けた手斧を揺らしながら、さらに森の奥へ進んでいく。
「…………」
「行くぞ」
もう一人も渋々その後に続いた。
その時、茂みの奥で、何かが動いた。
「……なんだ?」
二人の足が止まる。風が木々を揺らし、枝葉が擦れる。その隙間から、二つの瞳がぎらりと光った。
男の顔から血の気が引く。
「で、出た……! 人喰だ!」
叫んだ時にはもう遅かった。一息の間に巨体が茂みを突き破る。
「──っ!」
異常なほど長い腕が伸びた。
男は背中の手斧へ手を伸ばした。だが、その指が柄に触れるより早く、人喰の鋭い爪が胸へ突き刺さった。
「ぐふっ……!」
背中から血に濡れた爪が突き出す。男は目を見開き、口から大量の血を吐いた。
「ひっ……ひいぃぃっ!」
もう一人は、弓を構えることすらできなかった。背を向けて、ただ本能のままに走り出した。
「た、たた、助けてくれー!」
枝を掻き分け、転びそうになりながら森を駆ける。
「人喰だ! 人喰が出たぁああ!」
木々の向こうには、エルンの村へ続く道が見えていた。
その背後。人喰は胸を貫いた男から爪を引き抜くと、雑に投げ飛ばし、太い木の幹へ叩きつける。ぎらつく瞳は、逃げていく男の背中を捉えていた。
長い両腕を地面につく。そして、飛ぶように地を蹴った。
❖
──エルンの村。
ノルヴァの森へと続く道、その脇に建てられた小さな監視小屋で、ハルドは声を聞いた。
「ハルド! おい! ハルド!」
直後、扉が激しく叩かれる。
「開けてくれ! 早く!」
「……ロナ?」
ただ事ではない様子だ。
ハルドは壁に掛けてあった槍を掴み、片手に持つ。もう片方の手で素早く錠を外し、扉を開けた。
「ロナ、どうした!?」
そこにいたのは、弓を背負ったロナだった。肩で激しく息をし、顔は血の気を失っている。
「で、出た……」
「何が?」
「人喰だ! ダンが殺された!」
「何だと!?」
ハルドはロナの後方に目を向ける。しかし、人喰の姿は見えない。
「……どこだ? 姿が見えんぞ」
ハルドが首を傾げると、ロナも後ろを振り返る。
「えっ……あれ? さっきまで追ってきて──」
刹那、巨大な影がロナへ迫った。
「うわっ!?」
人喰がロナもろとも戸口へ突っ込む。巨体が扉の枠をへし折り、木片を撒き散らしながら監視小屋へ飛び込んだ。
「な、なんだ!?」
ハルドが槍を構える。
人喰の鋭い牙がロナの首に深々と突き刺さっていた。
「ぐうっ……!」
「ロナ!」
人喰がさらに顎に力を入れると、鮮血が噴き出す。生温かい血飛沫がハルドの頬を濡らした。
「こ、こいつ……ロナを放せ!」
ハルドの両脚が震えた。人喰は、ロナの首を咥えたまま、頭を大きく振った。
「──っ!」
咥えられたままのロナの身体が、まるで鞭のように振り回される。力なく垂れた脚が、ハルドの身体を横殴りに打ちつけた。
「ぐあっ!」
身体が弾き飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられる。肺から息が漏れた。
それでもハルドは槍を手放さなかった。
「く、くそ……!」
震える両手で柄を握り、どうにか穂先を人喰へ向ける。
「来るな……化け物!」
人喰がロナを口から離した。どさり、と床へ身体が落ちる。
その直後だった。人喰の長い腕が、一直線に伸びた。
「ぐっ!」
逃げる間もなかった。
大きな掌がハルドの顔面を覆い、そのまま凄まじい力で壁へ押しつけた。
「ぐっ……!」
背後の木板が、みしりと軋む。
さらに力が加わった。ばきり、と鈍い音が響く。
ハルドの両脚から力が抜け、握っていた槍がからんと床へ落ちた。
人喰が腕を引くと、支えを失ったハルドの身体は、その場に崩れ落ちた。
監視小屋に、静寂が戻る。
その中で人喰だけが、ゆっくりと村の方角へ顔を向けた。




