14 トア婆
エルン村の一角。
リネがトア婆と二人で暮らす小さな家に、包丁が卓を叩く音が響いていた。
「リネ、そっちをもう少し薄く切っとくれ」
「これくらい?」
「そうそう。上手になったねぇ」
トア婆に褒められて、リネは少しだけ頬を緩めた。
二人が向かい合う小さな卓の上には、黒ずんだ燻製肉が置かれている。
森へ狩りに出られなくなって、もう二十日。
村では新鮮な肉を口にすることもなくなり、冬に備えて蓄えていた保存食を少しずつ切り崩していた。
リネは切り分けた肉を一枚つまみ上げた。
「これ、硬いんだよね」
「贅沢言うんじゃないよ。冬になったら、その硬い肉に助けてもらうんだから」
「でも、トアお婆ちゃんの歯じゃ噛めないでしょ?」
「何を言うとるか! あたしゃまだそんな歳じゃないよ」
「だって、この前もパンをスープに浸してたじゃん」
「うるさいね。あれは好きでやってんのさ」
「ふーん」
「なんだい、その目は」
トア婆が手を伸ばして、リネの頬をむにっとつまんだ。
「いひゃい、いひゃい!」
「年寄りをからかう悪い口はこれかい?」
「ごめんなひゃい!」
ようやく解放されると、リネは赤くなった頬をさすった。そんなリネを見て、トア婆は楽しそうに笑っている。
リネは、少しだけ息を吐いて尋ねた。
「また、お肉……とれるようになるかな?」
「牙討様が来てくださったんだ。もうじき森にも入れるようになるさね」
「……そっか」
リネは燻製肉を薄く切り分けながら、ふと手を止めた。
「セナ、ちゃんと帰ってくる?」
「そりゃあ、帰ってくるともさ」
トア婆は、皺の刻まれた顔をくしゃりとさせて笑った。
その時、家の外で猟犬が吠えた。
低く、警戒するような鳴き声が何度も響いている。
「あんだぁ? 牙討様が帰ってきたかぁ?」
トア婆は腰を上げると、戸口へ向かった。
戸を開け、外へ顔を出す。
「こらぁ! 粗相すんじゃねぇぞー!」
猟犬は、それでも吠えるのをやめなかった。何かに向かって、激しく吠え続けている。
「まったく、何をそんなに──」
トア婆の声が止まった。
少し離れたところで、猟犬がもう一度吠える。
直後。
「ぎゃうっ!」
短い鳴き声が響いた。それきり、何も聞こえなくなった。
「ふふっ。トアお婆ちゃんに怒られて、静かになっちゃった?」
リネは可笑しそうに笑った。
「…………」
返事がない。
「トアお婆ちゃん?」
トア婆は、開け放った戸の前に立ったまま、じっと外を見つめていた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
その顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。
「リネ」
「なに?」
「暖炉の中に隠れな」
「……え?」
リネの笑顔が消える。
トア婆は笑ったままだった。
「いいかい? 絶対に外へ出ちゃいかんよ?」
「え? なに? どうしたの?」
「さぁさ、早く隠れな!」
「は、はい!」
その声に押されるように、リネは椅子から飛び降りた。何が起きているのか、まだ分からない。
ただ──
トア婆は笑っていたのに、その声だけは少し震えていた。
リネは暖炉の中へ潜り込んだ。
火の入っていない暖炉は、十歳のリネが身体を丸めれば、それだけでいっぱいになるほどの広さだった。
奥まで身体を押し込み、膝を抱える。煤の匂いが鼻についた。積もった灰が服を汚したが、そんなことを気にする余裕もなかった。
リネは両目をぎゅっと瞑る。
「…………」
外で何が起きているのか。
ここからでは、何も見えない。
聞こえてくる音だけが、外の様子を伝えていた。
慌ただしく駆け回る足音。
何かを引きずる音。
遠くで、誰かが叫んでいる。
「まだ足らん! みな、矢を持てぇー!」
別の男の怒鳴り声が重なる。
「腕が長いぞ! 範囲に入るな! 首を飛ばされるぞ!」
「…………っ」
リネは抱えた膝に、ぎゅっと力を込めた。
何の話をしているのか、分からない。
けれど、みんなが何かと戦っているのはわかる。
家のすぐ外を、何人もの足音が駆け抜けていった。
その直後。
「トア婆! 離れて! 逃げろ!」
「……!」
リネが顔を上げた。
「トアお婆ちゃん……」
グシャリと何かが砕けるような、鈍い音がした。
「ひっ……!」
慌てて両手で口を塞ぐ。絶対に声を出してはいけない。
「…………っ」
身体が震える。
怖い。
怖くて、何も見たくない。
リネはもう一度両目を固く閉じると、膝の間へ顔を埋めた。
どれくらいの間、こうしていただろう。
リネには、もう分からなかった。
絶対に外へ出ちゃいかん。
トア婆に、そう言われた。
(トアお婆ちゃんが迎えに来てくれるまで、ここからは出られない)
「…………」
いつの間にか、家の外からも音がしなくなっていた。
怒鳴り声も。
駆け回る足音も、何かが壊れる音も、何も聞こえない。
「トアお婆ちゃん……」
リネは膝に目元を押しつけ、滲んだ涙を拭った。
「…………っ」
嗚咽が漏れそうになる。それでも、必死に堪えた。
声を出しちゃいけない。
でも、何に見つかるというのだろう。
暖炉から出たら、そこにいるのはトアお婆ちゃんだろうか。
それとも──。
「…………」
それを、確かめることすらできなかった。ただ膝を抱えたまま、小さな身体をさらに丸める。
そのまま、どれほど経っただろう。
不意に、家の戸がギィと小さな音を立てて開いた。
「…………っ!」
リネは息を止めた。
膝を抱える両腕に、ぎゅっと力が入る。
──誰かが、家の中へ入ってきた。




