15 決意
山を下りたセナは、村の入口に差しかかったところで異変に気がついた。最初に目に入ったのは、荒れ果てた監視小屋だった。柵はへし折られ、地面には踏み荒らされた跡が残っている。
そして──血。
小屋の壁にも、地面にも。乾きかけた赤黒い血が、そこかしこにこびりついていた。
監視小屋の向こうに目を向けると、村を囲む柵も一部が壊されている。
「…………」
セナの足が止まる。
嫌な予感が、胸の奥で膨れ上がっていく。
背筋を冷たいものが伝った。
ヨハルも険しい顔で周囲を見渡し、隣を歩くイリへ目を向ける。
「イリ……これは」
「ああ」
イリは地面に残された跡を見ながら答えた。
「やられたな。さっきの人喰の番だ」
「村の中にまだいるのか?」
「んー……」
イリは鼻先を持ち上げ、くん、くん、と匂いを嗅ぐ。
何度か首を動かしたあと、眉間に皺を寄せた。
「いや。逃げたみたいだ。たぶん」
「たぶん?」
「血の匂いが強すぎて、嗅ぎ分けにくいんだよ。あちこちに混ざってる」
そう言って、イリはもう一度鼻を鳴らす。
「おいおい……何人殺したんだ?」
「くっ……そんなにやられたか……」
ヨハルが奥歯を噛み締める。
あの人喰を仕留めることに時間を費やしている間に、別の一体がエルンを襲ったのだ。
ヨハルは何も言わなかった。ただ、槍を握る手に力が入り、その節くれだった指が白くなっていた。
「き、牙討様……」
か細い声がした。
三人が顔を上げる。
村の奥から、杖をついた老人がよろよろと歩いてきた。
「ガノイ爺……」
村の長老、ガノイだった。
いつもよりひどく背中が丸まって見える。その顔には、疲労と落胆が色濃く浮かんでいた。
「村の者が……何人も、殺されてしまった」
ガノイが震える声で告げる。
「クランやロナは……持ち去られてしまった」
「持ち去られた……?」
言葉の意味がわからず、セナは聞き返した。すると、イリが横から平然と口を挟む。
「備蓄になったってことだ」
「……備蓄?」
「死体を咥えて持って帰るんだよ。アイツらは」
「…………」
セナは何も言えなかった。
ガノイが額を押さえ、深く俯く。
「村人総出で、なんとか追い返したが……怪我人も多い。助かるかどうか、わからん者もおる」
そこで、老人の声が詰まった。
「トアさんも……もう……」
「トア婆が!?」
セナはガノイへ駆け寄り、その両肩を掴んだ。
「トア婆、どうしたんだよ!」
「……人喰にやられた」
「…………!」
「あの怪我では……もう助からん」
頭の中が真っ白になった。いつもリネの隣にいた、トア婆の姿が浮かぶ。
「リネ……」
セナの指に力が入る。
「リネは!?」
「…………リネか」
「生きてるよな!?」
ガノイはすぐには答えなかった。その沈黙だけで、胸の奥が冷たくなる。
「おい……ガノイ爺ちゃん! 答えてくれよ!」
「それがな、わからんのだ」
「……え?」
「何人かで探しておる。だが……まだ姿が見つからん」
「なんだって……?」
「家も見たが、おらんかった。だが、喰われたという話もない。だから、まだ──」
最後まで聞かなかった。セナはガノイから手を離すと、地面を蹴った。
「セナ!」
背後からヨハルの声が飛んでくる。
それでも止まらない。村の中を駆け抜ける。
壊れた柵。
踏み荒らされた畑。
血のついた落ち葉。
倒れた大人の前で、泣き叫ぶ子供。
怪我人を運ぶ村人たち。
そのすべてが視界の端を流れていく。
(リネ……!)
トア婆とリネが、二人で暮らす家。
そこだけを目指して、セナは走った。
家の前まで駆けると、勢いよく戸を開けた。
「リネ!」
返事はない。
中へ飛び込み、辺りを見渡す。
いつもリネとトア婆が向かい合っていた卓。壁際の棚。寝台。
どこにも、リネの姿はなかった。
「リネ……!」
一歩、奥へ踏み込む。
床には、踏み荒らされたような跡が残っていた。
セナの胸が、嫌な音を立てる。
「リネ!!」
返事はなかった。
まさか──そんなはずはない。
セナが唇を噛み締めた、そのときだった。
「──セナ!?」
「…………!」
返事があった。
間違いない。
リネの声だ。
「リネ……!」
胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどける。安堵で涙が出そうになった。
だが──姿が見えない。
「ど、どこだ!?」
「ここ……」
「ここって? どこだよ!」
その直後、部屋の隅からがさ、と微かな音がした。
「…………?」
セナが目を凝らして暗闇を見つめていると、煤にまみれた手が縁にかかった。
続いて頭が現れ、小さな身体がもぞもぞと這い出してくる。
「リネ!」
煤だらけになったリネが、床に両手をついた。ゆっくりと顔を上げ、セナを見つめる。
「セナ……」
その声は震えていた。
かち、かち、かち、と、歯が何度も鳴っている。
顔は真っ青で、肩も、腕も、指先までも震えていた。
それでもリネは、セナの顔を見ると、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「セナ……無事だった……」
「…………」
「よかった……」
「リネ……お前……」
こんな状況で。自分がこんなになるほど怖い思いをしたくせに、人の心配なんかしている場合かよ。
そう言おうとしたが、声にならなかった。
ぽろり、と涙が頬を伝う。
セナはしゃがみ込むと、そのままリネの身体を抱きしめた。
「セナ……」
「うん」
「怖かった……」
リネの指が、セナの服をぎゅっと掴む。
「すごく……怖かった……」
「うん……」
腕に力を込める。
「もう、大丈夫」
「…………」
「大丈夫だから」
震える身体を抱きしめながら、セナは目を閉じた。
父と母を奪われ、トア婆も、もう助からない。そして、リネまでも奪われるところだった。
──もう、嫌だ。
誰かが喰われるのを、ただ待っているだけなんて。
誰かを失ってから、泣くことしかできないなんて。
そんなのは、もううんざりだ。
リネを抱く腕に、ぎゅっと力を込める。
そのとき、背後で戸が開いた。
「セナ……」
イリの声だった。セナは勢いよく振り向いた。
その目には、先ほどまでの涙とは違う、激しい怒りが宿っていた。
「イリ」
イリは思わず足を止めた。
「僕が、人喰を殺す!」
「…………!」
その眼光に、イリですら背筋がぞくりと震えた。




